メロスの犬 4 |
そして迎えた最後の夜は、静かな寝待月の見守るひっそりとしたこの部屋で。以前と同様その人のベッドに二人収まり、共に天井を見つめる。横目で隣を窺い見れば、窓からの青白い月明かりをそのまま映す白い頬、星空の詰まる瞳、ぼんやりと考え事をする物憂げな横顔には呼吸も忘れてしまうほど。 「はぁーあ……」 洋平は俄然、甘えた。隣の腕にしがみつき、無尽蔵に詰まる重い吐息を締まる二の腕に押し付けた。 想いが膨れる一方で投げやりな気持ちもあったかもしれない。なぜならそこは今日もいい香りがして、軽く気が遠のいてしまう。やるせないほど胸が躍りもどかしさで血が上る。 神は首を起こしたまで、こんなふざけた真似をされても何も言わず、またぼんやり天井を見つめているのだ。 「神さん、嫌じゃないの?」 「ん? 別に。信長もたまに抱きついてくるし、俺何故か知らないけど、後輩に懐かれるんだよね」 「だろうな……」 その理由は誰より知ると自負している。もちろん誰に教える気もないが、それなら尚更離れたくなくて、大人気ない腕力で二の腕をぎゅうと締め付けた。 「洋平も、まだまだ子供だね」 「だって、俺を犬みてーに手懐けるヤツがいるからさ。しゃーねーの」 「煙草吸って喧嘩する犬なんて初めて見るよ」 「ちっとグレちまったんだ。しゃーねーの」 今日の水戸洋平はちょっと可愛い……我儘で甘えん坊で幼稚だと、我ながらそう思い破顔した。クククと漏れそうな笑みを抱き付いた二の腕に押し殺すが、しかしすぐ、いつもの可愛くない洋平に戻ったのは、続く質問があまりに唐突で、あまりに直球だったから――――。 「洋平はさ、俺のこと好きなの?」 「いやぁ…………」 そんなこと、あるわけないっしょ? などと嘘をついたところでバレてしまう気がする。かといって、正直に話したところでいい結果も期待できない。 「俺もよくわかってねーんだ。だから、もうちっと付き合ってよ」 そんな我儘を調子良く告げるだけ。難攻不落な優等生が相手となればこうして足りない頭を絞り、とりあえずの関係を引き延ばすだけで精一杯なのだ。見上げた前髪の向こうの彼は何時の間にか眠りに就き、簡単には落ちないぞともう態度で表している。それをほんのり雲を覆った月光が淡く映し出し、彼の前髪を撫で付ける夜風で睡眠を邪魔していた。 ……ああ、窓が開けっ放しだった。静かに上体を起こした洋平は窓枠に手を掛け、夜空に佇む寝待月の、その満たされない半端な形に不思議と魅せられた。確か、満たされる日を寝て待つことをそのままを意味したような……昔習ったことを顧みてはその人と照らし合わせてしまう。きっと、ただ寝て待つなどと彼が聞いたら鼻で笑うだろうから。常に見据える目標があるのに何もせず寝ているだけなど、無駄な時間だと決めつけては一人努力の道を歩む、いや、ひた走るのだろう。 窓を閉めカーテンを閉め、午前五時にセットされた目覚ましの下の寝顔をじっと見つめていた。この僅かな休息の時を優しく見守る幸せ……同時に湧き上がった疑問が愚問なのはわかっているから、洋平は極小声で尋ねたつもりだ。 「ねえ、なんでそんなに頑張んの?」 「……たぶん、親譲りなんだ」 そう返事が聞こえ、微かな動揺の間に彼の瞳がそっと見開く。何故そこまで頑張るか、頑張れるのか……浅いまどろみの合間にその理由が明かされた。 「両親の旅行好きが高じて、一代で旅行会社を築いたのはいいけど、常に順風満帆とはいかなかったみたい。何度も経営が傾いたこともあれば、好調なら尚忙しかったりするから、二人ともよく体を壊してたよ。父が入院した時なんか母親が必死になって働いて、仕事と家事を両立して、今まで会社を支えてきたんだ。そんな二人の背中を幼い時から眺めてきて、どこか根付いたものがあったのかな……」 志抱く遠い目で語るその人は、まだまだ休息を取ってくれないようだ。 「会社には、毎月新しい目標がデカデカと掲げられて、社員一丸となって達成を目指すんだ。勿論達成できない時もあるけど、小さな努力があとで実を結ぶこともあるからって、父さんは何よりその努力を買うからさ。だから俺も昔、運動会で勝つためだからってジョギングを習慣づけられたんだ。それで結局今でもやってる始末さ。きっともう、血筋だよね」 殊勝すぎる長い内容にはあっそ、とでも応えておきたい。努力だの目標だのという感覚がいまいち掴めない洋平には、正直なところ耳が痛い。だから………… 「もう寝よ」 もういいよ、自分が惨めになるだけだから。訊いておいてなんだが、もう黙ってくれないかな。 洋平は口を塞ぐべく無愛想なキスをして、クスッと笑うその人の声を封じた。そしてちゃんと寝息を立てるまで、しっかり身体を休めるまで静かに見守ってやった。 「おやすみ神さん」 まるで慈母の眼差しで、体を横に自らの頭を支えながら。本当に彼の母親であるならここまで無理をさせないのに、勉強も運動もそこまで出来なくていいから、あまり頑張らないで、疲れたらいくらでも癒してやる。羽目を外させてやる。甘やかしてやる。しかし、それでも突っ走る姿がありありと目に浮かんでしまう。 「はぁぁ…………」 微かな寝息に愛しさ灯る、最後の夜は儚いままに幕を閉じた。寝ているはずの彼に髪をぽんぽんと触れられ、仕方なく眠りに就いたのはさて何時頃だったか。 習慣づけられたというジョギングを彼はたった今終えたばかりだろう。ぐりぐりと擦る瞼の向こうに髪を汗で濡らしたその人がいる。首にタオルをかけ、立った部屋の入り口からもう起きるように言ってきた。 「ほら、もう歯磨きしてきなよ」 「まったく、朝からやり過ぎだっつーの」 これだからバスケットマンってやつはと呆れながら、確認した時計は六時半を指す。カーテンの開くそばから強烈な光が閉ざした瞼をもすり抜ける中、洋平はよれよれのティーシャツのままベッドを出た。そして歯磨きを終え二階に戻ると、朝から夢を疑うような出来事が洋平を待っていたのだ。 「どうせまた、煙草吸いたいって強請られるんだろ?」 だったら今のうち……ということか。背を屈めた神の唇が今上から落ちてきた。といっても、ただ唇を押し当てるだけの色気の欠片もない、それでも柔らかな温もりに支配される、歯磨きの香る早朝の爽やかなキス。 「そんなんじゃ禁煙三日も持たねぇ」 全てを支配される前に、一度離れた洋平が正しいキスを施した。無理矢理こじ開けたそこから舌先を差し入れ、片手に小さな頭を抱え、恣意のままねっとりと堪能。見上げればそこに大好きな困り顔があるから、清々しい朝を演出する雀が飛び立つまで、解放してやらなかった。 「ハァ、よく朝からこんなこと出来るよ」 「もっとしたいの?」 「もう朝食だよ。行くよ」 そうして階段を下りれば、窓から取り入れた新鮮な朝日が食卓を明るく照らしていた。母親と妹とで囲む和やかな食卓に洋平は今日も招かれ、当たり前のように用意されていた朝食以外は大して気を遣われない。実に居心地のよい環境は、ここに父親がいない所為もあるだろう。自慢の息子にとんでもないことをしている自覚があるから、正直なところあまり顔を合わせたくないのが洋平の本音だ。 「にしても、今日も大量っすね」 朝から並べられた大盛りの大皿を見て、洋平は神の高い身長を思った。やはり朝食が大事なのかと今までの食生活を振り返ってみた。 そしてたった今、手前のテレビに映るナレーターが滑舌良く読み上げた事件につい、箸が止まった。 「SS線で幼い少女ばかりを狙った痴漢が多発しています。最近では塾や通学で利用する子供も多く、被害を届け出た保護者らによると……」 朝の団欒に相応しくない不快なニュースだった。耳にした神が箸を行き来させながら呟いた。 「少女だって。変態ばかりだね」 「いやあ、笑えませんよ」 妹を一瞥しつつ洋平が口を挟むと、母親もそれに同調した。 「小さいうちから私立の学校なんか行けば通学も電車なのねぇ。可哀想に、きっと恐くて声も出せないんだわ」 「ゆめ子ちゃんも気を付けるんだよ?」 「変態にはね」 洋平の声に付け加えた神は、まだ一人で電車に乗る機会のない妹は無関係だとばかりに、他人事のような笑みを浮かべている。 しかし実際にそんな事になったなら……普段は淡白な彼もきっと、激しい怒りに震え上がるのだろう。それでも暴力はいけないなどと殊勝ぶったことは言っていられないはずだ。が、彼に暴力は似合わない。だからもしその時は、洋平が彼の右手に代わり口も聞けないようにしてやる。そこで働かなければ、優等生と不良の関係は成り立たないのだ。 やがて妹らに見送られ、二人でのんびり家を後にした。すると狭い歩道に並ぶ二人の間を、すいません、と慌てて走り抜けて行く真新しいスーツの青年は如何にも新社会人らしい。暖かな春にはそれぞれのスタートがあるようだ。 |
― to be continued. ― |
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