禁煙席 10

カーテンの隙間からうっすらと漏れる、ただの外灯の明かりすら、その大きな瞳に映れば宝石のように輝く。
「もう、いい加減忘れなきゃ……」
素っ気なく呟いた彼の遠目に、辛酸を嘗めた水無月の名残が燦然と瞬いていた。それは程なくして、次第に瞼の内に閉ざされ、夢の中へと消えていった。
「おやすみ……」
淡く浮かべた笑みをこちらに、目を閉じた神はゆっくりと、安らかな寝息を立て始める。夢へ誘う甘いリズムが、洋平の耳許で心地良く響いた。
「ねぇ神さん、擽ったい……」
そっと不満を告げても、無言の吐息がしつこく片耳を擽ってくる。うん……とおぼろげに返された寝言は、きっと日中の疲れを癒す夢の中から。
その無垢で静かな寝顔が少し侘しく見えるのは、未だあの屈辱を晴らせない所為か。小さく引き攣った口端には、内に秘めた復讐心が今も滲み出て見える。ああ、男なんだな……と感じた洋平は、一人微苦笑を零した。
そろそろと指先を伸ばせば、生きた頬の柔肌にすら軽く理性を吸われる。そこに不可のない人間性を読み取ってはもう、まだ女を知らないという彼に奇妙な独占欲が沸き立ってきた。
……今日、なぜ男である洋平を彼は受け入れたのだろう。相反する身なりの男に何を見出したというのか。利発な彼の中でどんな判断があったのかもわからないが、どこか手応えを得てしまった今はどうでもよかった。
「神さんおやすみ」
夢を妨げぬよう声を忍ばせ、洋平はまた、あの不思議な夢の中へと吸い込まれていった。

 

――翌朝。洋平はゴソゴソいう物音で目を覚ます。片目を擦りながら上体を起こせば、ベッドからすぐ横のタンス前で着替えをする神の背中が見える。開けっ放しの窓はすでにカーテン全開で、射し込む朝日を受けた背中が今、真っ白のティーシャツにすっと包まれたところ。
「おはよ」
程なくこちらに振り返った微笑も白く眩しかった。
どうやら、昨夜の夢は現実だったようだ。
「ああ、今何時すか?」
「五時半。朝練行かなきゃ」
平然と伝える神に、洋平は暫しぼんやりしてから頭に血を送る。遅まきながら、ここは今年も神奈川得点王に輝いた、努力の海南を象徴するキャプテンの家なのだと思い出した。
ここまで早い朝はパチンコ以来で、洋平は壁の時計をつい二度見する。しかし澄んだ朝焼けの清々しさも、可愛らしい鳥の囀りも何も知らなかった。窓から吹き込む風の柔らかさも、そして、優しい早朝のキスも……
「ほら、目ー覚めただろ?」
目の前を離れた彼が、歯磨き後の白い歯を覗かせていた。
「はっ、今日も禁煙できそうだ」
悔しい程に、それは朝の一服より確実だった。
その後朝食をご馳走になり、母親と妹に見送られ、二人仲良く玄関を出た。
「また来てね」と手を振ってくれた妹はやはり可愛いらしく、洋平の頬を緩めてくれる。父親は遅くに帰り、すでに仕事へ向かったらしい。
不思議な一泊を経て、洋平は隣歩くその人の育つ、暖かい環境を垣間見ることが出来た。
「神さん、電話番号教えて」
もうすぐの駅まで見送りに着いて来てくれた彼に申し出る。洋平は鞄から取り出した手帳に、訊いた番号を書き取った。
「すいません、朝練あんのに」
「いいよ。それより、洋平はこれからどうするの?」
これからとは、残す夏休み丸一ヶ月間だ。自分の何かの見つからない洋平にとっては有意義にも無意義にも過ごせる時間……
「俺は……適当にバスケ部応援しながらバイト探します」
そんな洋平は、勝手に洗ってくれた昨日のティーシャツがまだ乾いてないからと、神の長めのティーシャツを借りて着ていた。恐がった妹を思い髪もセットしていない。
しかしその判断は、今日に限っては不正解だった。今最寄り駅を出て、久々の自宅へ向かう洋平の背中に異様な殺気を感じたところ……――――。



― to be continued. ―


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