「先輩、して……」
二人きりのベッドの上で強請られるまま誘われ、その人の頬に触れた瞬間…………陶然とした彼の目つきは一変して鋭利なものへと翻る。こちらを憎々しく睨めつけ、花形の手が振り払われた。
あまりのショックで目を覚ますと、少し眩しすぎる日光がカーテンをも突き破り、快晴の朝が告げられた。階下の物音はそろそろ朝食の時間を指すが、花形はまだベッドを出ない。全身に張り付くじっとりとした嫌な汗がまだショックを引き摺っていて、とても起きられない。枕の仄かな残り香に色々な思い出が反応し、朝から心が沈んだ。
煩う溜息と同時に寝返りを打てば、寝起きの視界に入るだけでゴミ箱のティッシュ、歯ブラシ、貸したティーシャツはテレビの横に不器用に畳んであり、昨日の今日であることを少しずつ思い出した。
また一つ、溜息を吐いたところで階下から母の声が届き、仕方なく体を起こした。実に無気力だった。
午後の練習に出れば少しは振り切れると思ったが、バッシュを履きコートを踏んでボールに触れても、少しキツいくらいの基礎練にいつも以上の汗を流しても、気付けばずっと、流川が怒って去ってゆく。背中がだんだん遠くなる。霞む視界でリングも見えず、とうとう単純なシュートミスで周囲を憮然とさせた。昨夜の願いは叶わなかったようだ。
「おい花形、やる気ないなら今日は帰れ。迷惑だ」
笛の音が途絶えた傍から藤真の声が発せられる。全く怒りを伴わないその声は、つまりそれだけ怒っている。しかしそんな台詞を言わせても尚、今ひとつ調子が乗らないから仕方なかった。
「ああ。悪い」
花形もまた淡々と詫び、今日は大人しく帰ることにした。
別に悪いことじゃない。身にならない練習ならしない方が、いない方がマシというだけだ。
「おい花形……」
「花形さん……」
「兄貴…………」
背中に触れるメンバーの声をずっと遠くに感じている。一体何しに行ったのか……気付けば家に着いていて、歩き慣れた通学路を足が覚えているんだと、玄関前でそんなことを思った。ふと空を見上げてから夜の暗さに気付いたほどだ。
「何やってんだ俺は……」
呟いて玄関のドアを開ける。すると玄関先には母親が立っていて、折しも持っていた受話器をこちらに差し出してきた。
「ああ透、丁度よかった。流川くんから電話よ」
……すぐに右手が上がらなかった。ああ見えて根はしっかりした男だから、昨日のこともなかったように振る舞い、詫びることさえしてくれるだろう。子供のようで大人のような彼の魅力が、今はただ矜恃に障った。練習も投げ出してきた自分が専ら惨めになり、不貞腐れた。
「ああ、いないって言って」
「そう……?」
母親もまた、神奈川MVPを誇る息子の友人には、たとえそこに愛想が見えずとも好意を抱いていたのだろう。
彼女は不思議そうに顔色を窺いつつ、受話器にまだ帰らない旨を伝えた。そして受話器を置くなり、階段に差し掛かった花形の背中へ余計な言葉を添えてくれた。
「流川くん、ちゃんと昨日のお礼言ってくれたわよ? 見た目はちょっと怖いけど、育ちもちゃんとしてそうだし、なかなか謙虚よね~」
謙虚とは…………あの不遜な男が、なかなか笑わせてくれる。
翌週は学校の都合で練習を休み、レポートの仕上げにかかった翌々週はもう夏休み終了間近。休み明けのテストに備え久々の勉強に打ち込み、部活に行き、バイトもこなし、大学生らしい生活を送った。父の知人という男性からの電話を受け、就職についても真剣に考えた。結果、後日会って話す約束をした。それがいざ面接というわけではないが、何れにしろ訪れるだろうその日にため、今日は面接対策の本を買ってきた。
「……と、短所は……」
机に貼り付いている合間に、ふと考える。恋人のいない若者が惨めかといったらそうでもないだろう、と。日々が充実していれば淋しさを知る間もない。周囲が賑やかなら尚更、またチーム練習に顔を出せば皆が同じ目標に向かい、大学の部活より精が出るはず…………………だったのに、そううまくはいかなかった。
最近、自分の本当の短所に気付きつつある。
「花形、なんださっきのパスは」
現翔陽メンバーを相手に対戦中、藤真へのパスが通らなかった。……いや、一度頭を過ったが最後、ふと気持ちが逸れたばかりに周囲が見えなくなっていた。前半後のハーフタイム、藤真に尻を叩かれ赤面の思いをした。
そしてもう一人……
「神も、しっかり集中しろ」
「はい、すみません」
神もまた、幾度とシュートを外した。きっと首にある怪我の所為だろう。思えば藤真が神を窘めたのはこれが初めてか。それも頷けるほどのミスは後半にも響き、現翔陽メンバーに十点差をくれてやった。敗因が花形と神にあるのは明らかで、体調やメンタルを整えることもバスケの基本だという至極当然のことを藤真は真顔で説いていた。素直に反省、暫く頭を冷やしたい。
そして帰りのことだった。着替えのあとでお疲れを言い合い、皆より遅れて更衣室を出た後のこと。体育館から降りる階段で前方に神を見つける。夜目にも目を引く首の包帯の白をちゃんと訊いておきたかった。
皆がその怪我を一斉に案じた練習前は「ちょっと……」で見事濁されたが、少なくとも今週中の怪我であることは確かで、彼の無理を計れないほど彼を知らないわけじゃない。
「神、いいか?」
呼び止めては二人階段に腰を下ろし、居残り練習に暮れる在校生らを背後に今日の反省会を開く。
「俺はちょっと……まあ色々あって。花形さんは?」
「俺もまあ……色々と」
濁された理由に応えを濁しても埒は明かず、単刀直入に尋ねた。
「で、その怪我は?」
神は遠く校門の向こうの車の往来を暫し黙って見つめていたが、程なくして、本当の理由を教えてくれた。
「実は……」
三日前、ニュースに流れた痴漢に次ぐ傷害事件に神が関わっていたという。彼は痴漢を働く犯人への制止を試みた際、犯人の持っていた刃物で傷付けられたという十八歳の少年だった。
「変に騒がれるのも嫌だから、誰にも言わないで下さい。心配されたくないんで、親にも言ってないんです」
そう言い添えてからもう一つ明かされた真相は、正当防衛の下、犯人に暴行を加え、また怪我を負ったというもう一人の少年のこと。花形も彼のことを何かと知っている。
神は言った。
「俺、あいつの考えが今ひとつわからなくて……。俺がもう一人の犯人に後ろから捕らえられた時、俺は首に当てられたナイフにびびって痴漢の腕を離しました。おかげですぐに痴漢は逃げたから、きっともう一人の犯人も追って逃げるはずだった。無用な罪は犯さないのが犯人としても無難でしょうから。勿論逃がすなんて悔しいけど、事件はそれで終わるはずだったんです。なのに……」
きっと脅しでしかなかった凶器が力の加減で当たってしまい、人間の皮膚は容易く傷付いた。それを見た友人は静かに怒り、神の制止も聞き入れることなく犯人に暴行。正当防衛の範疇を超えた暴力は、たとえ真っ当な感情を汲んでも神の理解を外れ、その後、二人は喧嘩をした。
もしも痴漢が戻っていたら友人は殺されていたかもしれない。無用な復讐はしなければ産まれもしないと、一方的に咎めた神に、拗ねた友人は消えてしまった。
「……それで、水戸くんはこっちに帰ったの?」
「さあ。でも洋平のことだから、バイトという金銭の契約がある以上、勝手にバイトを辞めることはしないと思うんで、今もあっちにいるとは思うんですが」
「はは、なるほどね。いやぁ、最初から最後まで実に水戸くんらしいよ」
事実、身に危害の及んだ禍々しい事件に加え、心の内まで吐露してくれた神には実に申し訳ないのだが、花形は笑みを零さずにいられなかった。理由として、以前山に上った時に知ったある逸話を神に伝えた。
水戸が原付で走行中、目の前に飛び込んだ猫を避けようとして転倒、原付が壊れたという話だ。解釈を添えるとこうなる。
「例えば車を運転していて、突如目の前に人が飛び込んできた場合。運転手にある選択は二つ。自爆覚悟でハンドルを切るか、後ろからの追突覚悟で急ブレーキを踏むか。それは殺人という罪がこの国では最も重いからだ。しかし相手が動物なら、轢いてしまった方がいい。単純に、その方がリスクも損害も少ないからね」
合理的且つ総合的な判断として、僅かな同意を示してくれる神を答えに導く。
「水戸くんはこう言ったんだよ。白くて綺麗な顔の猫だったって。つまり…………」
「自爆覚悟で転んだ?」
花形が笑いかけた隣で神も漸く笑ってくれる。お節介だが、早く水戸と仲直りしてほしくて我ながら冗舌になった。今日の試合もこれだけ調子が良かったら……なんてことを言われそうだが、そこはお互い様だ。
「今回のことも、神が怪我をしなければ水戸くんも拳を抑えただろうね。でもそれが出来なかった。きっと神の言うリスクも水戸くんにはわかってたはずだよ」
「わかってたらなんで?」
「さあ。人の感情を読み解くのは難しいよ。けど、ああ見えて彼は人より痛みを知ってると思う。だから人より深い情を持ってる。刺されるリスクも無視できるほどの……っていう、単純にそういうことじゃないかな」
憶測でしかない言葉に何かを感じたか、はっとする神を横に花形は続けた。
「彼は神のアパートに居候させてもらってるし、多少損得の計算はあるにしろ、それでも仲良くやってる。彼のことだから、きっとこんな不良を相手にしてくれるっていう卑下もあるんじゃないかな。神が思ってる以上に、彼なりの誠意と情があるんだよ」
唇を噛み締めつつじっと聞いてくれる神の、今日の不調の原因はそこだった。怪我じゃなくてその後の喧嘩。水戸の気持ちとそれに対する神の気持ち、今後どうすべきか、だ。
同じチームの仲間として、同じ友人を持つ身として、これから解消してやろうと思う。優しく頼もしい後輩のためだ。
「もし水戸くんの行為でなく、その気持ちまで許せないというなら、残念だが二人の仲はそれまでだ。神が痴漢を止めたことが正義なら、水戸くんの報復も立派な正義なんだ。そんな彼の気持ちを受け止めることができるなら、仲直りは簡単なはずだよ」
……とまあ、他人のことについてはこんなにも客観的に述べることが出来る。隣で持ち上がった神の顔には以前の明るさが戻っていた。
「ちょっと難しく考えてたけど、ただ腹を割ればいいんだなって、そういうことかな」
そう言って、答えに辿り着いた神の反省会は終わった。それで……と話を切り替えた彼は続いて花形の事情を窺ってきた。
「俺は……………」
花形は言葉に詰まる。神の抱える問題とはまた事情が異なるわけで、自分に出来ることはもう何もない。あとはメンタルを整えるという藤真からの課題をこなすだけだ。
「俺は、少し時間が必要なんだ。時間しか解決してくれないのがわかってるから、あとは俺の心の問題。大丈夫、俺もちゃんと強くなるよ」
悔やんでも落ち込んでもちゃんと別れはやって来るから、あとはなるようになるしかない。いつか吹っ切れる日を待つしかない。ただそれだけのことが、今はまだ難しいだけ――――。
帰宅後、自室に入ってすぐの水槽は今日も快く出迎えてくれる。青く揺蕩う水面は見ているだけで心を鎮め、日々の小さな煩わしさから解放してくれる。中でも目の前を過る白い一匹が今日はやけにひらひらと舞い、目を引きつけて止まなかった。長い尾ひれでいつも現を塗り潰してくれるそれは、ふわりと円を描きながら花形の視線を導いていった。
『1月1日、synspilum待望の初来日公演……』
流川が置いていった一枚が水槽の向こうに覗く。
確か、彼が帰ってくると言ったこの日。およそ半年後の年明け、待望の別れはそう…………愛しい彼の誕生日。
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