ゆく風、くる風 1


赤い水平線がキラキラと光り、海岸沿いを走る列車を返照していた。真西の窓から射し込む光に、車内は映る夕波に揺れ、急ぐ車輪の小波に浮かぶ。連続する風景のコマに、まるでストロボのように海を過ぎ去って行く。その静かな車両に、乗客もまばらな席の片隅に、腕組む流川の姿があった。
シンプルな黒のダウンを羽織り、鼻提灯を膨らませる彼は今大きく船を漕ぐ。時折ガクッと転覆しかけるが、その快適な航海が絶たれることはなさそうだ。そよめく吊り広告の下、ぽかぽかと行き渡る暖房が至福の時を更に深めている。今年もあと二日となった今日、彼は新しい相棒と共に夢の中にいた。
膝の上に抱えられた愛用品、そこから伸びるイヤホンは最高の音質を奏で、持ち主の耳を流暢な発音で癒す。液晶も割れていなければ傷一つない、新品同用のそれは、事故で犠牲となったプレイヤーより高性能と化していた。
いつか退院祝いとされた彼と共に、流川は十六歳を迎える前に、今日、少しの遠出をした。

やがて、夕闇の迫るいつかの駅で再会する。
「平気か?」
フラつく足許を案ずる声は階段下に立つ花形から、ダークグレーのコートを着た目立つ長身の彼からだ。スポーツバッグを肩に、階段を降りる流川の正面からその寝ぼけ眼を窺っていた。
「少し疲れた?」
階段を下り切っては今向かい合ったそこで、「ねみぃ……」と目を擦る後輩を薄暗い外へと連れ出していった。
おぼろ気な夕月夜の下、裸の街路樹が一斉に震え出した歩道で、二人は肩を並べて歩く。
「夕飯、どうする?」
花形はそう尋ねながら、大きさの割にスカスカなスポーツバッグを隣の肩から外し取った。そして自身の肩に掛けるなり、逆の肩には更なる荷物が乗せられた。
「まかせる」
力なく言って、十センチ高い肩に眠気が預けられた。未だ夢から覚めない流川の、赤くかじかむ片頬が擦り付けられる。街灯を外れた暗がりで、そっと笑みを零す口許から真っ白な息が零れ出る。
そして程なく立ち寄ったファミレスで、二人は隅の四人掛けの席に通された。夕食時には少し早い所為か、大して賑わいのないそこには早くも夕食が届けられた。
「流川、本当にそれでいいの?」
並べられた二枚の大皿と、それを前にするなり眠気の失せた彼を、花形は交互に見つめていた。
コクッとだけ頷く流川の、その手前に並ぶカレーライスとカレーうどん。早速スプーンを握り、黙々と頬袋に詰め込む姿を花形は細めた目で見つめていた。そして頬杖を着き、あれからの近況を語り出した。
「選抜が終わって部も引退したし、受験が始まる前に、藤真と長谷川と三人で中学を回って来たんだ。うちは、人数の割に大して後輩が育ってないから。それで勧誘とまではいかないけど、いくつか強豪校を回ったんだ。でも、もう遅かったよ」
頬いっぱいに詰め込まれた顔につい口許を緩めてから、花形は先の話を続けた。
「まず三割は海南志望だ。今年のインターハイ二位も大きいが、だが去年程ではないらしい。……というのも、それ以上に陵南志望が多かったんだ。あそこの監督が早くから駆け回ったようでね。今年は仙道がキャプテンだって、それを売りに結構な勧誘をして回ったそうだ」
そして、無言で聞いていただけの流川に笑って言った。
「湘北志望の特異な子もいたな」
「……?」
あまり関心のなさそうな流川だが、一飲みしたグラスを置くなり、元に戻った顔で今日僅か数度目の声を発した。
「翔陽は?」
「うちは……母校に二、三人かな。まあ実際は来年にならないとわからないし、もう俺たちの代は終わったわけだが、藤真があまり納得できないでいるんだ」
そう静かに息を吐きながら、花形は冴えない遠目を放つ。
「これ微妙」と、届いたばかりの皿から具を奪う流川に、彼は漸く箸を取った。そして口にする前にもう一つ……
「そういえば、流川はなぜ湘北に入ったんだ?」
「近いから」
「んまあ……確かに……」

それから食事を終えた二人が向かったのは大型のペットショップだ。「ああこれだ」と、熱帯魚用の餌を手にした花形は一人会計を済ませると、奥の熱帯魚コーナーへ出向く。水槽の一つをまじまじと、身を屈めて見入るその背中へ声をかけた。
「終わったよ」
しかしその返事はなく、流川は顔を貼り付ける程にじっと中を凝視している。
青の世界を舞うように泳ぐウェディングエンゼルが彼の目の前にいた。その名の如く純白の鱗を纏い、悠然と張る長いヒレで優雅に身を操る。水流に揺り揺られ、水を弄び委ねる姿に、彼は暫しの間見入っていた。
「水魚の交わり……って、知ってる?」
その問いかけは、今流川のうなじから。
「いや」
「まあそのままの意味なんだが、水と魚の関係のように、親密な友情や交際を例えていう言葉だ」
そこまで言うと、後ろからガラスに映っていた彼は咄嗟に顔を背けた。まるで何かに怯えるように、そのまま水槽の反射から消えてしまった。
「………………?」
ぼんやりと映っていた顔はそれに気付くなり、振り返った先の背中を追う。「行くか」と一歩先行く彼の、追い付いた背中の生地を握り締めるが、覗き込んだ横顔には微かな陰りが射していた。
店を出てすぐの歩道で、どこか怖々と息吐く彼を、夜のネオンが鮮やかに照らす。その屈託を、隣の彼が不思議そうに見上げていた。
厚着の人が行き交うそこで、二人の黒髪が共に靡く。どこからか、スウと冷たい風が吹いていた。

 

 

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