花形が向かい行くドアの前に面会謝絶はなかった。『湘北』の貼られた控え室前で、一人腕組み壁に寄り掛かる彼の許へ歩み寄った。
「流川……」
誰もいない廊下に、受話器を通さないその声はよく通る。程なく対面した二人の姿はあれから何ら変わりないが、その左手だけが今も包帯に隠れていた。
「手はどうだ?」
「平気」
更に一歩歩み寄った花形は、切ない目をそこに落とし、そっとその手を掬い取る。両手に封じたそれを薄く窄めた目で労わってから、逆の手には先の小箱を差し出した。
「退院祝いだ」
右手で受け取った流川は「これ…………」と一頻り見つめていた。
「あ、さっき水戸くんに会ったよ」
水戸……と持ち上がった顔へ。
「お礼、言ってくれたんだな」
北風も柔らぐ微笑が、ちゃんと出来た後輩を優しく愛でていた。やっと果たした再会もまた穏やかな空気が漂っていたが、突如、怪我のない右手が花形の袖を掴み上げた。
「ん? 何?」
困惑する彼を引き摺り出そうと、無言の右手が強引に連れ去って行った。
「え? トイレ……?」
行き着いた男子トイレにて、花形が唖然と呟いた。流川は誰もいないの中を確認するなり、訝しむ花形を奥の個室に押し込む。鍵を掛け、振り向いた彼はドアを背に、漸くここに来た目的を明かした。
「ねえ、抱いて」
掴んだ手をそのままに、身動きの限られる狭い個室で、間近に詰め寄るその瞳が花形を急かしていた。
「ずっと待ってた……」
そう下向きに、今にもいじけそうな唇が小さく呟く。
するとそんな流川の背中へ無言で回された両腕は、褒められることを待つ子供のような彼を、誰も知らない幼い彼を、不器用に甘える彼をしっかりと抱き締める。
流川はその胸の内で、頬を擦り付けつつ弱音を吐き続けた。
「痛かったし寒かった。あと、寝れなかった」
「よく、頑張ったよ……」
会えない間に溜め込んだ不満を優しい胸が受け入れていた。苦痛を堪え抜いたその頭にそっと掌が添えられ、ハリのある黒髪に、上から頬が滑る。
持ち上がった流川の右手は緑色の肩をきつく握り締め……
「もっと………」
顔を上げて強請る後輩に、花形はその長い前髪を撫で上げ、淡く色めく切れ長の、上の額に軽く口付けた。あとはそのまま、自然と寄せ合う唇が程なく重なる。触れ合うだけの軽いキスから、貪るような激しいキスへと変わるのに時間はかからなかった。
ジャージを更に引き寄せ、せがむ右手は上から握られ、十センチ大きな彼が深く抱き寄せると、それは窮屈そうに密着した。冬が入り込む隙もない程、寒気から守るように、きつく抱き合った。
絡み合うキスは益々解けそうにないが、廊下を通る足音にそれは一度離される。
「先輩……」
少しばかり息の上がる、おぼろ気な目付きがぼんやり見上げていた。
「変な夢みた」
そう思い出したように告げる流川と同じく、花形もまた思い出したようだ。
「ああ、俺もだ」
花形がその内容を語った。
「雨の降る森の中で、なぜか俺は、流川がいるはずの塔の前にいて、蔦で覆われたその扉を開けるのに必死だったよ。でも漸く扉が見えたと思ったら、そこに面会謝絶があってね……。ふざけてるよな」
情けなく苦笑する彼を前に、流川は目を剥いていた。
雨、森、塔……そのキーワードは恐ろしく一致していて、流川は今、あの日耳にした不思議な音の正体に気付いたところ。
「……俺も。そこで待ってた」
「え? 本当に?」
頷く流川を見て、淡い微笑みを浮かべた花形がまた腕を回し抱き竦める。
焦がれる気持ちが夢にまで通じては、こうして逢瀬の叶った今は笑う他なかった。
しかし、そろそろ別れの時間だ。また一つ試合が終わったか、トイレの外は徐々に騒がしくなり、花形が慌てて抱擁を解く。
「流川、じゃあ俺はもう行く」
そう言って、試合を控えた副キャプテンが鍵に手を掛けた。が、その肩を握る手はまだ離れようとしない。
振り向いた花形をじっと見上げ、それはすっかり甘えを解いた顔で強気に質した。
「次、いつ?」
花形は一旦ドアを背に、改まって面と向かった。
「流川、選抜が終わったら、今度は泊まりにおいで」
すると掴んだままの生地がグイと引かれ、今度は下から唇が重なる。油断した隙間から割入っては、中の温もりまで記憶するよう舌先が蠢く。次に会えるその日まで、またあの森に閉じ込めれることがないように、流川からディープキスが送られた。
「じゃあ、もう行くよ」
いよいよ焦りを催した花形がやや足早にそこを去って行った。翔陽メンバーの待つ控え室へと向かっていった。
一方、残された流川もすぐにそこを出た。宝物の入った小箱を大事に抱え、徐々にざわめきの増す階段を上り、観客席の後方に一人腰掛けた。
やがてスコアボードに翔陽が表示されると、緑に沸く翔陽部員が一斉にペットボトルを手にする。応援席もまた、あのインターハイ予選より更にパワーアップしたようだ。
そんな今回の選抜は、花形にとって高校最後の試合となる。準備にあるコートを見下ろす流川も、腕を拱きそれを待ち侘びていた。
インターハイ予選では湘北の敵であった翔陽。もしまた湘北と対戦するなら誰もが楽しみにするところであり、負傷した彼は出れないわけだが、彼なりに翔陽を応援していた。
そこに、遂にあのデカい翔陽が姿を現したのだ。ジャージを脱ぎ緑の5番を纏った彼は、先程と打って変わり闘志に満ちていた。誰かと違いしっかり切り替えが出来る人だと、流川は今日の桜木を尚貶す。
そして、前半が間もなく終わろうとしたその時だった。今花形が、いつか合宿で見せたフェイダウェイショットを鮮やかに決めたのだ。その高い完成度に歓声が湧き上がるが、当の本人は腕で汗を拭うなり、観客席に混じる湘北の彼を見つけ出した。視線が合うなり、二点が加算されるスコアボードを見るよう顎で促していた。
――国大予選で流川がやったものだった。しかしよりによって、あの花形がそれをやってしまうとは…………
「先輩……」
今、流川の口許に小さな微苦笑が乗る。
「かっけぇ」
コート上でも頼もしい先輩に、流川は更なる熱を上げた。
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