あれから一年、洋平はあまり学校に姿を現さなくなった。バスケ部の練習はおろか試合にも顔を出さず、花道が事情を訊いても上手くはぐらかされるだけで、理由がわからない。ただ留年になるのを心配し、花道は朝から洋平のアパートまで迎えに行っていた。部屋にいない日もあったが、迎えに行けば洋平は必ず学校に来る。なら、それでいい。そう思っていた。
その日もまた、花道は洋平の部屋を訪ねた。決勝リーグを終えた翌日の今日は日曜日、部活も午前で終わり、急に暇が出来たからここに来たまでだ。これまでもそんな日があったわけだから、何も不思議はない。とりあえず、今年はなんとかインターハイ出場を勝ち取ることが出来た。そのことを洋平に伝えたかった。
決勝の決め手は、去年の流川の不調が嘘のように復活したおかげだろう。いや、そこはもちろん俺の実力あってこそだと洋平には豪語したが、花道なりに流川のことを心配していたのだ。一時はどうなってしまうんだと、本当に毒でも吸っているのかと疑うくらい、流川の顔色が酷かった。洋平が学校に来なくなったのは、きっと流川のためだと思っている。
というのも、花道とて多少は察していた。洋平は変なことをしているんだと。関わった人達が皆ダメになっていく。だから洋平さえいなければ……と、洋平自身が悟ったから、わかってて学校に来なかったのだ。洋平は、昔っからそんなヤツだから。
……それにしても、この部屋は相変わらず殺風景で何もない。見回したそこはグレーの絨毯が敷かれた六畳で、シングルベッドとテーブルの他は雑誌や上着が放ってあるだけだ。あとは隅のゴミ箱の横に棚があり、中にワンカートンが二つ三つ積まれているのが見える。テレビすらないことには聞くのは外の音だけで、それも小さな窓の向こうに稀に車が通る程度だ。一つだけ、ヤニで黄ばんだ壁に、棚の上にそれは以前から画鋲で刺してあった。山王を下した後の二年前の集合写真だけは、ずっとここに飾ってあった。
「よーへースゲェ変な顔してやんの」
そんなことを言って、いつか茶化した記憶がある。「俺は結構イケてんのにな」と言ったら、「ああ、本当だ」と洋平も頷いていた。確か、山王に勝った瞬間は今までで一番嬉しかったとも話してくれた。あの写真撮影の後、痛がる花道にずっと付き添いながら。病院に着いたら着いたで洋平は口寂しそうに口をもごもごさせていたから、外で吸ってこいと言った。が、洋平は遠慮した。別に知ってるから構わないのに、その時はやけに頑なだった。
今も部屋中に臭いが残っているが、やはり花道の前では決して口にしようとしない。ベッドの上で壁を背中に、摘んだ襟元パタパタしながら洋平はだらしなく座っていた。それだけだ。今日の洋平はいやに静か、こんなにも蒸し暑いのに何故か寒気すらした。全開の窓からは風もやって来ないのに……いや、これだけ汗をかくのだからやはり気の所為だろう。花道はベッドの上に、洋平の隣で仰向けに寝た。
「退屈だよーへー」
組んだ手を後頭部に、天井に声を投げ掛ければ、「だな」と隣から返事を聞く。
「あっちぃしよぉ」
「じゃあ脱げばいいだろ?」
ああそっか、と起き上がった花道は、薄く張り付く一枚を脱いだ。汗が染み着いたランニングをベッドの下に放った。そして壁際の鞄からタオルを取り出し、吹き出た汗を拭おうとした、その時だった――――。
いつの間に寄ってきたのだろう。今タオルを持った自分の右腕が、洋平の手に強く握られてた。
「なんだ洋平?」
透かさず背後を振り向くと、今度はタオルにその手が伸びる。
「俺が拭ってやるよ」
「ん? おお」
タオルが洋平の手に渡り、ベッドの縁に腰掛けた花道は正面の壁を向いて待った。何も不審を抱くことなく、寧ろこの鍛え抜かれた背筋に洋平も触れたいのだと勝手に解釈、怪我の影響も今や微塵も感じないと、いっそ自慢したかった。ベタベタと触っては「おっ? また筋肉増えたんじゃねーか?」とでも言って喜んでくれるものだと、そう思ってた。
しかしいざうなじに触れた感触は、思っていたものと違った。不快な汗を取り払う細やかな繊維ではなく、今日の暑さよりもっと熱い、じっとりと水分の這うこの感覚は益々不快で擽ったい……。
「よ……ようへ……?」
呼び掛けに返ってくるのはその生々しい感触と、ピチャ、という確かな音だけで、擽ったさに身悶えする。
「洋平、何すんだ!」
腕を振り上げ、少し声を荒げれば、優しい洋平は素直にそこを離れてくれた。
しかしそんな洋平こそ怒っていたから、花道も何故か言葉を返せなかった。
「汗拭いてやってんだから、ちっと大人しくしろよ」
静かに凄む洋平は、実は花道より怖かったりする。一番怒らせてはいけないのは洋平だと、知る者は軍団の他にないだろう。
だから更に身を寄せた洋平を、こんなことで怒る洋平を花道は今も突き放せないでいた。背後からしっかりと両肩を掴まれ、力の抜ける、甘く痺れるような感触を首筋から耳の裏まで送り込んでくる。聴覚の一番近い所で変な音がする、初めて知る違和感にはつい「ひやっ」と妙な声が漏れ、やめろと制する余裕すら与えてくれなかった。
「……って、そうじゃねーだろーが!!」
我に返った花道は自らに言い聞かせると、直ちに後ろの洋平に詰め掛かった。
「いったい何すんだ洋平! 暑さで狂ったか?」
捕まえたその両肩を大きく前後に、大袈裟なくらいに洋平を揺する。正面の顔に唾が飛ぶほど責め立てるが、それでも静かに笑う洋平を本気で心配した。……いや、恐かった。見たことのない洋平が今目の前にいるからだ。そしたら少し悲しくもなり、やがて肩を解放すると、軽く落ち込む。憐れむ目で洋平を見てしまう。
洋平は、まるでイカレたように微笑んでいた。
「退屈だっつったの花道だろ? なら楽しもうぜ」
「た……楽しかねーよ」
「そうか?」
俺は楽しいんだけど、とでも言わんばかりの洋平は正ににこやかだ。その笑顔のまま、今度は隣から右手が伸びてきた。今、静かに花道の下半身へ、同時に花道の開いた脚の上にそろそろと跨ってきて、ジャージの上からそっと触れられた。
「な、なんだよよーへー……」
慌てて後ろに着いた手が汗で滑り、なかなかシーツが掴めない。ただ後ろに後ろに、じりじりと退くが、逃れる合間にも洋平の顔がすぐ間近に迫ってくる。目と鼻の先に熱い吐息を感じながら、下の方では今も二枚越しに、根元から撫でられていた。
「よ、洋平……おいどうしたんだよ?」
いっそ泣き出したくなって、やけに湿った声を発した。変なところを触りながら愉悦に歪む笑みを浮かべる、正に変態を描いた洋平が怖い。嫌だ嫌いだ。こんなの洋平じゃない。まさか流川にもこんな顔で迫ったのか……そう考えるともう頭の中がグチャグチャになり、すっかりベソをかいていた。
「はは、楽しいだろ花道?」
「楽しかねーよ! 何にっこり言ってんだよ? なぁ、なんでだよ洋平……」
初めて洋平に怯えた。そして落胆した。疑問と恐怖がどこまでも渦巻き、吸い込まれた花道はその渦の中心へと呑み込まれていった。
そのまま真っ暗な闇の中をどこまでも落ちていき、着いた先もまた真っ暗な闇の中だ。そこで花道が一人振り返ったのは、中学時代のあの日だった。あの日……洋平が下品なオヤジに悪戯をされていたこと。助けに行った先で、素っ裸の洋平が四つん這いになり、尻を差し出していたこと。その最中をこの目の前で見てしまったこと…………。
ずっと、ずっと忘れていた。いや、あまりのショックの大きさに胸の奥に仕舞い込んでいた。そのまま忘れてやることが洋平のためでもあると、そう親父にも言われたからだ。
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