清々しい思いで迎えた進級の春――。この湘北で過ごす日々も残り一年となった今、進学への不安こそあれ、特に大きな悩みもなく私は青春を謳歌していた。
学年が変わろうと親友でいてくれる晴子と松井ちゃんとは今でも行動を共に、春休みはショッピングへ出かけたり、勉強したり、新メニューのドーナツを食べに行ったりした。女子とはとにかく忙しいもので、女子会では毎度晴子の恋バナに付き合わされ、湘北の王子、流川楓については親衛隊並みの知識を得たつもり。焼きそばとハンバーグが好きだとか、一日の睡眠時間は十八時間とか、どこまで真実かは疑わしいけど、親友がこんなにも想っているなら成就してほしいと願ってる。
「残り一年しかないんだから、がんばりなよ晴子!」
こうして勇気付けるしか出来ない上、乙女の欲しがる恋の共感とやらも満たしてあげられないけど……。
「藤井ちゃんもね! 好きな人の一人くらいいるんでしょ?」
「んー、私はそんな……」
これまでも幾度と飛び交った問いかけに、ここで「いる」と返事をすれば「誰?」と前のめりに問い質され、誰だと答えれば自分のことのようにキャーキャー騒ぐ。それが女子の嗜みというものだけど、いないものはいないんだから仕方ない。
勿論、私だって女子として咲き誇りたい心はある。桜散る校庭を行けば春の匂いに胸は高揚、淡い恋の一つも欲しくなる。通り過ぎた男子の背中にまだ見ぬ運命の人を重ねてみたり、今年出逢うという射手座の恋愛運を信じてみたり、見えない予感に忙しいんだから。
……だから、過去のことなんて疾うの昔に忘れたはずだった。実は男が好きだったという、年上の元彼のことなんて…………。
「あ、藤井ちゃんは五組だね」
たった今、昇降口にクラス替えが張り出されるまではそうだった。その所為で机と席順と連絡網にまで悩む日々が待っているなんて、考えてもみなかった……。
三年五組とは、去年ほんの僅かな間、私と恋仲にあった安田さんのいたクラス。といっても、卒業し大学へ行った彼にはもちろん未練もない。況して「他に好きな人がいる」と本人から告げられ、その相手があの水戸くんとの噂を聞けば身を引く以前の問題だった。それは遠い過去の夢として、すでに胸の奥にしまい込んでた。初恋にしてあのフラれ方にはちょっぴり傷を負ったけど、おかげできっぱり諦められたことで今日の自分がいる。今日の自分…………そう。新しいクラスの面々に浮き足立つ教室で、今痛いくらいの視線を背中にビシビシと感じてた。
「あれ? えっと藤井さん。同じクラスなんだ、よろしく」
あれ? だなんてとても白々しい。それでも優しく気さくに嫌味なく、共に湘北バスケ部を応援する仲間として私に微笑みかけてくるその人……。
「あら水戸くん、席も前後なのね」
黒板に貼り出された席は出席番号順、つまり五十音順で、去年まで後ろにいた松井ちゃんはここにいない。替わって今年はこの男、あの水戸洋平が今後ろの席にいた。
「花道のやつ、晴子ちゃんと流川が同じクラスだってずっと嘆いてんだ」
「それは残念ね。桜木くんは、松井ちゃんと同じ八組かしら?」
私も白々しく返してみれば、やはり気さくな台詞の裏にはひんやりとした瞳が見据える。低い頬杖に乗せた笑顔に潜む、情念めいた静かな憎しみが肌で感じられた。
つまりこれがオンナの勘というもの……? そもそも、あの噂は本当だったの? 安田さんが水戸くんに惚れてるって話が本当だったとして、二人はすでに恋仲にあるというの?
疑問を消し去る間もなく、教室に顔を出した担任はイケメンと噂される長身の新米教師だった。早速色めき立つ教室で、私だけ一人上の空。男二人の関係について一人で考え込んでいた。
淡く色付く桜並木の下、胸いっぱいに膨らんだ想いを安田さんが水戸くんに告げる。その気持ちを受け止めた水戸くんがその手を取り、見つめ合う。そっと抱き寄せ唇を重ね、そして、そして………………!
「そ、そんなうそでしょ!?」
限度を超えた妄想にうっかり声を上げてしまったところ、担任も含め皆の視線が私をめった刺しにした。
「えっと……藤井、どうした?」
新任の彼には誰より先に名前を覚えられたみたい……。ハァ……。
そうして長い初日が終わった。始業式のあとのホームルームで午前中には帰れる今日、「では最後に……」と先生がプリントを配り始めた後で一つ気になる事が起きた。
窓際の席から最前列の生徒に、先生が一列分の枚数を確認しながら順に手渡してゆく。その指先を見つめながら、「はい、六枚ね」と色艶滲む大人の声を聞きながら、教師と生徒の禁断の恋を妄想してみた。きっと、今同じ場面を頭に描いている女子がこの中にもいるはず。まかり間違っても男子はいないはず。見た目に反し優しいと評判の後ろの彼も、きっとそんなことを妄想しようとは思わないはず…………よね?
「ね、水戸くん?」
回ってきたプリントを、最後尾の彼に手渡そうと手を後ろに回してたのに、いつまで待っても指先からプリントを抜かれる感覚がなかった。気になって振り向いたけど、その瞬間、私はついプリントを零してしまった。……いや、たった今引き抜かれた。
「ああ、ゴメンね」
軽く謝る水戸くんだけど、彼は低い頬杖をついたまま、はっと視線を上げる仕草もなく、顔色一つ変えることなく、かといってぼんやり考え事をしていた様子もなく悪びれるでもなく、のんびりとプリントを取ったのだ。振り向いてすぐ視線も合った。つまり、視界に入ったプリントに気付いていながら水戸くんはあえて受け取らなかった。一体なんのために……? もしかして、軽い嫌がらせ……?
愛想笑いを浮かべつつ担任のいる前方に向き直したけど、モヤモヤする心の奥に思い当たる節を問いかけてみても、何も見当たらない。
安田さんとは、あの噂から同性を恋愛の対象とする彼に思いを寄せてしまったことへの詫びと、新しい恋を応援する旨の手紙を卒業前に手渡したのが最後。だから水戸くんに恨まれる覚えなんてないというのに、それとも他に理由があるのかしら。……いや、少し考え過ぎなのかなぁ。
進級初日から厄介な席に着いてしまっては、早い席替えを待つしかなかった。でも先生が言うことには、一学期中はないとのこと。所詮顔だけの男かも……なんて、ふと冷めた気持ちを抱いてた。
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