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「安田くん、合格おめでとう」
教室の皆が背中を向ける中で、唯一振り向いた彼女が柔らかな笑みを投げかけてくれる。窓から吹き込む春風が今、彼女の前でふわりと舞った気がした。
「あ、ありがとう……」
立ち止まった安田は、頬を染めてはにかんだ。

休み時間、自由登校で寂しい教室内をいつもの三人で移動していたところだった。今クラスの女子が一丸となり、一つの机を囲ってはとある原稿を仕上げている。それは卒業アルバムとは別で配られるクラスの思い出で、要は何でもいいわけで、思い出とは名ばかりの女子の遊びに過ぎないものだ。
並ぶ制服の隙間から覗き込んだ紙面には、男子の名が一から順にずらりと並べられ、それはランキングと託けた男子の格付けであることはどことなく察しがついた。「あ、ダメよ」と慌てて隠されたその名目は不明だが、数名の中に安田の名前があったことには正直、気が気でない。
そんな安田を前に、ふとこちらを横目で見た女子の一人が訝し気に言った。
「でも安田くんはぁ……」
するとそれが口火となり、彼女らの話題は安田本人を前に暫し花が咲いた。
「安田くん、一回年下の子と付き合ったじゃない?」
「ああ、案外人気あった子でしょ?」と、先の彼女までが楽しそうに身を乗り出す姿を、安田は両隣の潮崎角田と並んで見ていた。
「目立たない子よね? よくバスケ部見に来てた」
「そう。でもその子を振っちゃうなんてね」
その子とは明らかに藤井さんのことだ。付き合ったと言っても大した期間ではないし、屋上の隅で昼休みを過ごした程度の地味なものだが、女子は光速の連絡網を持つと云う。
「一体何があったのかしら?」
「安田くんも元々好きだったって、前に聞いたことあったんだけど……」
誰が吹聴したかは知らないが、そこまで耳にした安田は堪らず口を挟んだ。
「あれは…………別れたのは、俺が勇気なかっただけだから」
あまり彼女のことに触れてほしくないのもあるが、更に別れた理由を探られるとなればそれはもっと勘弁だ。
彼女らはクククと口元を揺らし、「やだ何も聞いてないじゃない」と、呆気に取られる安田をやんわりからかった。
「べつに別れた理由なんて聞かないわよ」
……と続けば、そのランキングが何であるかが益々気になるところ。名目はしっかり伏せてあるが、辛うじて確認できたパッとしない面子には大方察しがついていた。きっと純朴そうとか、親に服を買ってもらってるとか、最悪童貞とか。安田の気弱な外見からは一生着いて回りそうなものだ。きっと大学に行っても変わらぬままだろう。一人だけ、桜木の名だけが妙に浮いていた辺り後者で間違いなさそうだ。
「童貞か……」
小さく呟き、三人で教室を後にした。
廊下では早速、先程まで一言も発さなかった潮崎が弄ってくれた。
「お前、澤田さんとも喋んのかよ」
「優しくて純粋な安全圏の男がモテる時代だ。なぁ安田?」
一緒の大学が決まった角田までが暗に茶化してくる。
そんな三人の手前から、女子生徒が長い髪をふわりと弾ませて走り去っていった。振り返った塩崎が彼女を目で追いながら言った。
「そういや今の彼女、安田のこと好きだったって噂だぜ。今は八組の奴と付き合ってるけど」
「人気あるんだな安田は」
安田は軽く溜め息を吐き、二人に素っ気なく否定した。
「ああそれは、そんなんじゃないよ……」
……昔からそうだった。モテるとか人気があるとかじゃない。所謂安全牌で、好きな人を聞かれた時の逃げ道としてよく利用される。これには小学生の頃から騙されていたからもう慣れっこだった。騙される以前に気付くべきだが、わかっていても期待してしまうのが哀しい男の性。いや、もてない男の……かもしれない。所詮チビだし、本当はわかっているけど、それを言うとよくリョータが怒ってたかな……。

次の授業も自習だが、監督の先生がいるので皆席には着いている。それでも若干ざわつきにある教室で、安田の隣の女子生徒がコトっとシャーペンを置いた。自習に飽いた手を組み、グッと腕を前に伸ばす姿に安田は思わずドキッとする。そんな彼女がまた、眉間を寄せ悩まし気に話しかけてくるから悪い気はしなかった。また随分と思わせぶりなことを言ってくれた。
「はぁ、私も安田くんみたいな人と付き合えればな……」
じゃあ付き合ってくれ、と言ったところできっと拒否されるわけだから、やはり相手にもされていない。おそらく嫌なことでもあったか、彼氏と喧嘩でもしたか。少しムッとした安田だが、「はは、そう……?」と軽い愛想を浮かべる。結果は察した通りで、その後浮気性な彼氏の悩みを延々と語られた。
安田は彼女を励ますべくニコニコと聞き役に徹したが、大丈夫だからと勇気付けながらも、その笑顔は微かに引き攣っていた。……というのも、今の安田に、他人の悩みを受け入れられる程の心の余裕はないのだ。強く押し潰されそうな胸はもう我慢の限界で、受験勉強を始める前からずっと項垂れていた。とても手につかない勉強を何度放り出したことか。どれだけ我慢を強いられたか。気付けば涙が零れていた。あれからもう、半年が過ぎようとしていた――――――。

その日の放課後、安田はすでに引退したバスケ部に顔を出さず、今日も騒がしい体育館前を通り過ぎた。残す日々も少ないわけだが、今日もそこにあの人がいないのを知っているから。
進む足元へ零す溜め息は尽きず、差し掛かったいつかのトイレ前ではいやでもあの時の記憶が蘇る。途端、顔が熱くなり、うっすらと視界が濁ったのは会えない淋しさからか。
「おう安田!」とかかった声にはハッと振り向き、追い抜き際の軽い挨拶に即席の笑顔で応えた。 卒業後の話題で楽しく盛り上がる同級生。そんな彼らの背中をそよ吹く風が押していた。希望に満ちた彼らを見届けてから、安田はしゅんと俯いた。
その後も足早に帰宅しては一目散に階段を駆け上り、「ヤス帰ったの?」と背中にかかった母の声は無視。閉めたドアノブに手を掛けたまま、前屈で呼吸を整え、上体を起こす。そして自室に入ってすぐのスタンドミラーに映る安田自身と向き合った。頬が真っ赤に火照っていた。
――安田靖春十七歳。至って健全な男子高校生だ。しかし見つめ合った正面の彼は微かに呼吸を荒げ、寂寞を溜め込んだ眼差しでじっとこちらへ訴えかけてくる。小さな瞳の奥から射るように、念ずるその強い想いは何を介すことなく、安田の心に流れ込んできた。
今にもベッドへ倒れ込み、手をパンツの中へ差し込むこと……その姿をあの人に蔑まされながら、蹂躙されながら果てる不健全な姿をありありと描いてくれた。
正直な下半身には急速に血が募り、たった今制服の中で形を顕にしたところ。右手はそっとベルトへ向かい、自らを焦らしながらゆっくりと金具を外し取った。誰もいない自室で、カチャカチャと鳴らす音にすら先走った興奮を覚えながら。嫌な煙の臭いを思い出し、手加減のない彼の手付きを想いながら。そう…………いつか知ってしまった自分が疼き出していた。受験受験で抑えてきた欲望が沸々と蘇り、硬く反り出したソレを救い出すよう、優しく手を差し伸べてやった。
すると折しも階段を上がってくる足音が壁越しに響き、咄嗟に冷や汗をかいた安田はすぐにも手を外に出す。足音から察するにおそらく母親だが、もちろん黙って部屋に入って来ることはないが、もしもを考えれば、安田は情けなく欲望を抑え込む。
「はぁーぁ…………」
……何を格好つけているか。今、鏡の中の彼は極平然な姿を装っている。母親がドアを開けたとてもそこに居るのは健気な息子で、非行や不純といった言葉を知らない、健全な男子高校生をうまく演じている。
……ふとあの人のように。顎を突き出し卑しく蔑む目で鏡の彼を見据えてみる。舐めるようにじっとりした眼差しで――――――
「ウソツキ……」
冷淡に吐き捨てるとすぐ、安田は階段を駆け降り受話器を取った。手帳に記した唯一名無しの電話番号をダイヤルし、そして、一日千秋の切望を声に託した。
「ねぇ洋平くん。俺を、泣かせてよ……」
……返事はノーだった。いや、バイトが埋まってるから少し待ってくれと言われたまで。更なるお預けが言い渡されたのだ。




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