嘘と真


明るい居待月の灯す帰路を一人歩いていた邵可は、邸の手前の角でふと、何かを察し足を止めた。透かさず壁に背中を貼り付け、角の向こうの邸の門を覗き込む。するとギクリと身の毛を逆立たせ、持っていた蒸篭を落としそうになった。
「一体なんで黎深が…………」
手を胸に、首を戻した彼は一度呼吸を置き、程なく居直った様子で角から姿を現す。いつもの穏やかな様相で門の前に立つ黎深の許へ、薄闇の向こうに覗く弟の背中へと歩み寄った。
「やあ黎深、どうしたんだい? 確か楸瑛殿に伝言を頼んだはずだけど」
久方ぶりに会った兄弟だが、やっとの逢瀬が叶った黎深に感動はないどころか、夜目にも見て取れるほど旋毛を曲げ、今も背中を向けたままだ。
「黎深……今日君からの文を預かったけど、色々あって予定が変わったんだよ」
「言い訳は結構です」
狼狽える邵可の言葉を遮ると、漸く振り向いた黎深は握る扇を小刻みに震わせ、正面切って不満をぶつけた。
「兄上は酷すぎます!」
「悪かったよ。百合姫には重ねて文を送ったけど、もう君が見ただなんて」
「ええ見ましたとも。藍家の小僧から伝言が来て、すぐに百合宛の文は私に寄こせと言ったら、こんなにも早く訪問取り下げの文が届くなんて……」
「いや本当にお腹が痛くてね」
「それを私に伝えればいいじゃないですか!」
「とは言っても、君とは身分が違うからね」
準備されていただろう言い訳は今日の黎深には通りそうにない。真っ直ぐ睨め射る眼差しは、これまで幾度と兄の嘘を映し出し、見逃し、溜め込んできたのだ。
「兄上は嘘が下手になられました」
寧ろ失望したかのように肩を落とし、嘆きの霧を吐く黎深の窶れた顔は、冠から零れ落ちた前髪には微かな疲労が漂っていた。
「黎深、今日はちょっと話をしよう」
陰る顔色を覗き込んだ邵可は、黎深の肩を支えつつ邸に迎え入れた。

灯された食卓の席に、促された黎深が無言でそこに腰を下ろすと、邵可は一度台所に去った。まずは手前の鍋に湯を沸かし、楸瑛に貰った蒸篭の蓋を開け、そこにまだ温もりの残る饅頭が三つ、うち一つに彼は薬を盛ったのだ。
「ごめんよ黎深……」
呟きながら急須を取り、茶の支度をした。
そして黎深の待つ食卓に運べば、黎深は一人項垂れていた。
「はい、お茶。あとはこんなものしかないけど」
手前に父茶と饅頭と小皿に乗った泡菜が差し出されるが、黎深は礼すら言わなかった。いつもの彼なら喜んで大好きな父茶を啜るところだが、今も顔を上げない弟は卓子から視線だけを剥がし、虚ろな目で茶の湯気を眺めている。間も無く再び卓子に突っ伏す。
「黎深、疲れてるんだろう? 少しは食べなきゃ」
「いえ、結構です」
「何を言っているんだい? すでに食べてきたのかい?」
「兄上こそ、腹痛の具合はどうなんですか?」
待ち伏せまでしておいて、いざ邸に迎え入れればこんなにも無愛想に嫌味を放つ。そんな弟は、兄にとっても初めてだった。
「お腹はもう……」
言葉に詰まった邵可は、黎深の斜め向かいの席に着くと一人で茶を啜る。自分の分の饅頭を取り、それを齧りながら、会話の一方通行も気にせず今日の出来事を口にした。
「このお饅頭、絳攸殿と楸瑛殿が作ったそうだよ?」
「知ってますとも。もう食べました」
「二人とも器用だね。こんなに美味しく出来るなんて」
「そうですね」
素っ気なく言い捨てた言葉には頑として表情がなく、室内の空気をただただ悪くする。外の風すらしんとしてクビキリギスも鳴かず、だからといって、不機嫌に不機嫌を返さない兄は尚食事を勧めた。
「黎深、食べなさい」
「いえ、喉が通りませんので」
「喉が通らないって、黎深まさか、熱でもあるのかい?」
容態を案じては饅頭を置いて立ち上がり、黎深の傍に立った邵可が抱き起こしたその額に掌を這わすが、うーん、と眉根を寄せるまで。
「熱は……ないかな? 他に何か……」
不調の原因を巡らせる中、ふと気付いた邵可が見下ろすなり、発した声音は低かった。
「黎深…………」
邵可の腰布をひしと掴み、きつくしがみ付く黎深の姿に早くも悄然としていた。
兄の腹に片頬を貼り付けたまま決して離れようとせず、無表情の黎深はただ壁の向こうの一点を見据え、押し黙る。それをすぐ引き剥がそうとはしない邵可だが、先日の夜を顧みれば、この先黎深がせがんでくるのは明らかだ。
「黎深、今日は同衾などしないよ」
先回りした拒絶に、黎深はただ静かに涙していた。ほろほろと流れる雫は音もなく頬を伝い、白い袖口にぽとりと落ちて染みを作る。ぽた、ぽたぽたっ、と数的が零れ、溢れ出した涙はもう止まらない。未だに何処を見ようともしない虚ろな目を開けたまま、無表情に零し続けていた。
これには流石の邵可も驚いたらしく、「れ、黎深……!?」と取り乱しては今もそこを動けず、とりあえず、と懐から手巾を取り出し、黎深の目元に伸ばす。覚束ない手付きはやがて黎深の濡れた視界に映り込むが、目元を行き来する青い手巾には何かが描かれ、それが刺繍だと気付くと同時に、黎深は漸く言葉を発した。
「これは…………獅子?」
「え?」
ああこれかい? と濡れた刺繍を見た邵可は、この手巾の贈り主を明かした。
「これは珠翠が作った物だよ。えーと確か、花だったかな?」
その台詞によって、忽ち顔色を変えた黎深はわなわなと震えていた。手前の腰布をぎりぎりと握り、室中に響くほどの歯軋りには邵可もつい、顔を背ける。ただの贈り物にまで放たれる嫉妬に只ならぬ何かを察したか、今日の兄は執拗なまでに弟を突っぱねた。
「とにかく、今日は一緒に寝ないからね」
黎深は、邵可の手から咄嗟にもぎ取ったその手巾を床に叩き落とした。
「な、なんてことをするんだい!」
邵可が慌ててそれを拾うが、黎深に反省の色などなく、寧ろ開き直りすら窺えるツンとした顔を兄は指で弾こうとする。が、眼前に指先が向かおうと旋毛を曲げ続ける弟には、返って無意味だとばかりに手を下ろし、嘆息を漏らした。
「一体、何が不満なんだい?」
その答えは以前、弟が直接訴えてきた。淋しさを拗らせた故の甘えだと、知っていて訊く兄は今日も今日とて意地が悪い。しかし帰ってくれの一言もない、邸を追い出す素振りもないのは、依然として後ろめたさが混在するからか。
邵可にとって不本意な兄弟の同衾から、黎深の様子は少しおかしかった。楸瑛も絳攸も頭を抱えるほど、拗らせた黎深は滅入ってしまったようだ。何より今日は面と向かって「酷すぎます」と悪態を吐いた。邵可がここで突き放せば、黎深はこの先、立ち直ることが出来ようか……。
「黎深、さっきも言ったけど、改めて話をしよう」
邵可が席に着くと、正面の弟の顔が持ち上がるのをじっと待った。
やがて顔を上げた黎深は視線を下に置いたまま、口を開け小夜風が一つ吹き去ってから、弱々しく語り出した。
「今……私は兄上から三番目に愛されています。それ以下は断じて認めません」
決して一番とは言えない悔しさと意地が不機嫌な歯噛みに要約される。しかし順位に関わらず、邵可の周りには他にも大切な人々がいる。
「つまり……妻と秀麗の次ということかい? 静蘭は? 玖琅だって君と同じ弟だし、珠翠だって、仮にも私の娘だと思ってるよ」
「彼らよりも上に決まってるじゃないですか!」
卓子を叩いてまで順位に拘る幼さには邵可も呆れ、掌で額を支えていた。
「まあ……もう何でも構わないよ」
それでも拘る黎深には、彼なりの理由があったようだ。
「でも……でも、昔は一番でした」
「へ?」
「それが薄々わかっていたから、三番目に落ちた今でも引きずってしまうのです……」
「…………えっと、一番だったのかい?」
黎深は、今も忘れていなかった。回顧する瞳の奥は暗く冷ややかに、現状を嘆き語尾を荒げた。
「幼少の頃、兄上はいつも邸を空ける時、明日にでも帰ってくようなことを言いながら背けた顔はすごく辛そうでした。しかし帰ってきたら真っ先に私に土産を下さった。必ず玖琅よりも一つ多く!  碧州の美しい絵巻物や黒州の珍しい玩具……今も全て取ってあります。そこに必ず、玖琅の面倒を見てくれてありがとうの言葉も頂きました。つまり、あの時は私が一番でした。だから、また一番に戻れたら……。誰がどれだけ大切かではなく、兄上の一番になることをつい望んでしまうのです……」
「私には無……」
否定を待たず立ち上がった黎深は、邵可の手前に歩み寄るなり「ですから……」と続く甘えを訴えるが、寸での差でそれを躱した邵可はいつの間にかその後ろに立っていた。
呆気に取られる黎深の背後で、今日数度目の拒絶を冷たく言い放った。
「いや、無理だよ」
黎深をその場に置いて室を去り、扉から漏れる明かりを避けるよう、一人暗い廊下に立つ。 扉の向こうからは、次第に咽び泣く声が聞こえてくる。うぅ……っ、と湿った声が漏れ出てからはとどまることなく、延々と苦しそうな嗚咽と共に、人一倍大きな矜恃やこれまでの我慢が床にポタポタと零れ落ちていった。
「そんな……っ、私は……兄、上っが……ただ…………んっグ、ゲホッ」
扇がパサっと落ちたと同時に膝も崩れ、床に泣き伏せる。そんな想像すら容易な物音に邵可はぎゅっと目を瞑り、片手で深く鳩尾を押さえた。
「黎深…………」
そして明る扉の前へと一歩踏み出そうとするが、拳を握り思い留まる。
彼は自問した。
私はやはり、冷たい男なのだろうか……。
邵可とて、兄として黎深を愛している。極端な激情型で不器用で稚拙なところもあり、基本的に才能の使い所を間違っているが、それも含めて嫌いじゃない。黎深の顔立ちは母親の血を濃く引いていて、兄とはかなり異なるが、性格はある意味で似てるといえよう。黎深ほどではないが、邵可もまた極端なところがあり、思い立ったら即突っ走る傾向がある。今は表立ってそうは出来ない、それだけだ。
しかし今日の黎深は、幼少時に返ったが如く涙ばかり流している。何か悪い夢でも見たのだろうか。例えば今すぐ兄が死んでしまうとか、消えていなくなるだとか…………。
いや、そんな不安が幼い頃から黎深を泣かせてきた。そんな悪夢をすでに何度も見たことだろう。帰ってきたかと思えば翌朝にはいない。すぐ帰ると聞いていたのに、その日がいつになるのかわからず安否までも疑う日々……。
弟の命を守った代償が、きっと今になって降りかかった。不信と不満と不安を拗らせた彼は、三十路半ばを迎えた今、そこからの脱却にもがいているのだ。だから、今はもう少し子供のように甘えたいだけ。お伽話の結末を確信したいだけ…………。
しかし今ここで許してしまえば、また同じことが待ち受けている。また、一緒に寝たいと兄に甘えてくるだろう。そしてあとは……あとは………………それだけ?
仮に数回の同衾で黎深が過去の苦しみから脱け出せたとしたら、彼は精神の安定を取り戻し、三十半ばの男本来の落ち着きを取り戻してくれるだろうか。寂しさという呪縛から放たれた彼は吏部尚書として紅家当主として、夫として父親として、余所見をすることなく前を向いていけるだろうか。
だとすれば……そうなれば、意外と易い御用じゃないか。きっと弟にしてやれる最後の優しさとして、償いも込め、同時に邵可自身も過去の咎めから解放される。黎深がこうも寂しさを打ち明けてこなかったら、そもそも後ろめたなどなかったはずだが……。
邵可が室に戻ると、それは床に身を張り付けたままヒグッ、グスッと背中を揺らし、今も啜り泣いていた。
「黎深……。女の子じゃないんだから」
手前にしゃがんだ邵可は落ちた冠を拾うと、黎深の肩口から両手を挿し入れ、その上体を起こした。涙と鼻水に塗れた真っ赤な顔を見て、「まったく、いい男が台無しだよ」と、先の手巾を取り出そうと懐に手を伸ばし、いや、自らの袖口で拭ってやった。
兄の肩に寄りかかった弟は何も言わず、子供のように泣き腫らした顔を恥じることもせず、顔を拭われるままに甘えていた。
「黎深、とりあえず、今晩一緒に眠るだけでいいね?」
「はい……」
「じゃあ少しは食べなさい」
立つことすら覚束ない黎深を抱き支え、今一度席に促し、すっかり冷めた先の饅頭を差し出した。しかし黎深が受け取ろうとしたそれを邵可はすぐに奪い、「こっちにしなさい」ともう一つを差し出す。
「こっちの方がまだ温かいからね」
黎深はそれを齧った。
「今日食べた饅頭より格段に美味しいです」
「そうかい?」
「ええ。お茶だって、いつもの優しい味がします……」
一啜りしてはまた、その眦から頬を伝う静かな雫を見て、邵可が鼻で笑い飛ばした。
「まったく、いい歳して泣くんじゃないよ」
鼻周りや目元を赤くしたまま饅頭を齧る弟の、そのつんとした鼻先を指で弾くと、黎深は漸く笑みを浮かべた。些細な幸せを噛み締めるよう、そっと口角を持ち上げていた。

その後、寝巻きを持参しなかった弟の為に箪笥から代わりの衣服を取り出そうとして、案の定失敗した邵可の許に透かさず黎深が駆け付けた。
「あ、兄上……! お怪我は!」
「ああ、大丈夫だよ」
「私の寝巻きなど構いませんと申しましたのに……」
暴発して倒れた箪笥を黎深が持ち上げ、その下から這い出てきた兄はすっかり傷だらけとなっていた。
「悪いね黎深、助かったよ」
「そんなことより……」
邵可の正面に立った黎深は、兄の首に腕に絡まった衣服を外し取り、頬に付いたばかりの傷を指先に触れる。
「私のために、こんな傷だらけになって下さって……」
その手を頬から剥がした邵可の無言には、「いえ、それより……」と少し躊躇い、寝巻きの遠慮を申し出た。
それからいざ寝室に、寝台の前に立った黎深はただ薄着になっただけだった。
「つまり、そういうことかい?」
「ええ。兄上と一緒なら寒さもありませんから」
先に風呂を上がり、すでに髪を拭い終えた黎深は、寝台の縁に腰掛けた邵可の隣に腰を下ろす。
「兄上も乾かしませんと」
ああ、とだけ応えた兄の背中まで垂れた黒髪に、未だ湯気の漂うその毛先に触れる。
「何かお手入れはされているのですか?」
「手入れだって? まさか」
するわけがない、といった口振りに、黎深は懐から櫛と小瓶を取り出した。
「おや、何かしてくれるのかい?」
「兄上、あっちを向いてください」
朧月夜に染まる窓に身を向けた邵可の背後で、まずは傾けた小瓶から垂らした数滴を掌で揉み、それを毛先全体に伸ばしていく。
「ん? いい匂いがするね。これは……」
「茉莉花の花油です」
「茉莉花……へえ。なかなか風流だね。それに、君がこんな器用な真似をするのもまた珍しい」
「いつもしてもらってることをしているまでです」
油を拭った手で櫛を取ると、艶を帯びた毛先の方から少しずつ髪を梳かしてゆく。
邵可はなるほど、と頷き、黎深にしてくれているその彼女の名を口にした。
「百合姫には、ちゃんとここに来ることを伝えてきたのかい?」
「ええすぐに文を出しましたとも。お腹が痛いとおっしゃる誰かさんのために看病をしてきますと」
「ハハ、すっかり看病されてる気分だよ」
「念のため薬だって持ってきましたから」
「それで寝巻きを忘れてくるんだから、君は本当に、優しいね……」
「当然のことをしたまでです」
「そう……だね…………」
当然のこと。他の誰にもしないことを兄と姪にはしてくれる。してやれるというより、寧ろしたくて仕方ないという右手が丁寧に櫛を下ろしてゆく。絡まりを解く優しい力が今は兄だけに捧げられる。
邵可の瞳もまた、霧がかった夜空を優しく照らす朧月を映していた。背後で手が止むなり黎深に振り向き、「ありがとう黎深」朧月のように柔く微笑んだ。
「いえ…………」
染まった顔を背ける黎深を、櫛を握ったままのその手を取ると、今度は邵可が誘った。
「じゃあ寝ようか」
……今宵の邵可は黎深に優しい。月がそうさせたのか、茉莉花の甘い香りがそうさせたのか、それとも黎深の涙か…………。
涙の跡がすっかり消えた黎深は、先に布団に入った兄の後で、その隣に納まった。灯りの消えた寝室で二人並んで天井を眺め、肩と肩が少しぶつかるほどの隙間を置いた。
邵可が呟く。
「こうして床に入るだけなら、まあ……狭い以外の不満はないかな」
「そ、それでは……!」
先走る弟の声で、壁と弟に挟まれた邵可はつい口走ってしまったとばかりに瞑目した。
「では明日も……」
続く期待に呻った邵可は暫く考え込み、出した答えは条件付きだ。
「じゃあ、まずは泣かないこと。仕事はしっかりすること。誰にも他言しないこと。あまり私にベタベタしないこと。百合姫や絳攸殿には心配をかけないこと。全部守れるかい?」
「勿論ですとも!」
しっかり聞き取れたのかも怪しいほどの即答が暗い寝室に弾む。
「私は玖琅と違って、兄上に必要なことはなんでも致します。もし風邪を召されたなら張り付いて看病しますし、寒いとおっしゃるなら全身温めて差し上げます!」
「うーん…………」
寝る前だというのに早口で息巻く弟に、邵可はまた顔の半分を覆った。
「君はなんで、私の前だとこんな風になってしまうんだろうね……」
「そんなの……兄上の所為に決まってるじゃないですか」
黎深はそう声を荒げると、一転してまたそっぽを向いてしまった。同衾する兄に背を向け、口を尖らせ、窓からの月明かりを憎むよう無言でいじけていた。依然として尚わかっていることを質すのかと、背中からの問いにも悪態を吐いた。
「私が君をこうさせたと言うのかね?」
「他に誰がそんなこ……」
そう、続く不満を塞ぐように、今邵可の片腕が黎深の胸に回った。茉莉花の馥郁と共に弟をそっと抱き締めた。
「兄……上…………」
皿になった黎深の目が夜目にもわかるほど見開き、布団から出た指先まで硬直している。
「黎深、あまり不満ばかりぶつけられると、私だって気が病むんだよ」
囁いた邵可の声音はどこか痛みを帯びていて、寝返りを打って振り向いた黎深はまるでそれを慰めるように、密着した兄の胸に直接呟く。
「そんな……。兄上は、優しいです……。私は今日兄上にたくさん酷いことを言って、泣いて……わがまま、ばかり言って…………」
少しずつ声に詰まった黎深は、酷く顔を歪めていた。それを目の前の胸に強く押し付けると、後頭部に兄の掌が滑る。深く優しい声音で弟を、今日の月に似た朧げな嘘のように、まるでそう…………愛していた。
「いいんだよ。私が守ろうとしたものが、ちゃんとこの手にあるんだから……」
邵可の原点はきっとその手の中にある。守るべきそこから全てが始まり、今はそれを完結に導こうとしていた。お伽噺の結末は、きっと信じる者にのみ与えられる。そしてそれはまだ完結してない――――。