裏と表


黎深は今、白い李の大輪の下で思慕する彼と二人きり。甘やかな馥郁と強く優しい腕に抱かれ、扇の内から蕩けた瞳でその顔を見上げては、微かに肩を震わせながら、既に絶頂を迎えていた。
「ハァ、ぁッ……兄上……」
最早立っていることも敵わず膝が崩れ落ち、同時に兄の衣をひしと掴む弟をその腕が素早く抱き支える。言葉を放とうとする口は半開きのまま、ぱくぱくとさせるだけで声はないが、熱した視線は常に下から兄を捕らえて離さない。結わず下ろした濃い潤沢の髪がするり、肩から滑り零れた。
「黎深は、ずっとこうされたかったんだね」
慈愛に満ちた深みのある声で兄が言った。上から重なる視線もまた、誰も知らない柔な熱を孕んでいた。
「はい……ずっと、ずっと待ち惚けておりました」
「それなら早く言ってくれればよかったんだよ」
「そんな……だって兄上が、その…………」
言い訳を無言で責める細い眼差しから逃れれば、尚迫る兄は慎ましく背く扇の内へ、割り込んだ右手でそっと片頬に触れる。そして斜めに首を傾けると、もごもごと噛み締める奥の唇に強引な口付けを送り込んだ。重なる二人の頭の間で、触れる唇は兄弟の垣根も熱く溶かし始めていた。
「兄……上……ッ」
ぎゅっと喉を締められた声は刹那鼓動も消えた胸奥から、呆気に取られた黎深は瞬く間に骨抜きとなり、耳まで紅く艶艶と染まる。宙に浮いた黎深の手からぱさりと扇が滑り落ち、その僅かな振動で、李の花の雄しべからも黄色の花粉が舞い散った。
黎深……と離れてすぐ、与えられた次の口付けは忽ち食らうように、挟み押し当て吸い齧る。少しだけ上向きの黎深の上唇を貪り、舌先で割って入ろうとすればついに声が溢れ出した。
「あ……に上ッ……激し……っン!」
仰け反り喘ぐ高らかな声は性感を知る嬌声として、大輪の中に響き渡る。口内で蠢く舌先に、一層痴れる黎深の薄眼は最早正気の失せた白目に近く、「ぁ、んゥ…………ぁッ」と最後の声が喉に痞えるなり、まるで魂まで抜け出たようだ。
「ほら黎深、私の口も吸っておくれ」
見返りを急かす低い声で魂は瞬時に舞い戻った。
「はっ……! ははははい、もも勿論です兄上。只今!」
吃り焦る言葉に加え、少しずつ年齢の見え始めた薄い顔に迫る唇は震えていた。衣を掴む拳に緊張を留めたまま、身を密着させたままじわじわと接近し、突き出した舌先から下唇に触れる。つぅと横に滑らせては僅かな水音と共に割れ目へ捩じ込み、歯列の奥の舌先と触れ合う。透かさず返ってきた唇はまた食らうような口付けで、昼行燈の裏に眠っていた顔を窺い見た黎深は、彼のうなじに両手を伸ばし、ぎゅっと絡み付いた。そして、いつもの悠揚あらざる邵可の言葉にはっと瞠目した。
「黎深、愛してるよ」
同じ血を継ぐ弟へ、熱誠と堅さを帯びた声に花風も止む。
悦びに至る前に黎深がその真意を覗き込めば、仄かに揺らぐ眼差しが真っ直ぐ下りていた。しかしすぐ、黎深の頬には涙が伝った。
「嘘だけどね」
続くいつかの台詞にみるみる色を失う黎深だが、そんな彼より先んじて声をぶつけたのは黎深とは別の者だった。
「な、なんだと?」
そこには居ないはずの絳攸の上げた一驚で、黎深の甘い妄想に咲いた花が今瞬時に弾け散る。
黎深は漸く今という現に触れ、ふと辺りを見回していた。吏部の皆が仕事に暮れる中、長官席に座した彼は、前方の扉の前に立つ絳攸が疑問を投げた先を見た。
「何故なんだ楸瑛?」
「何故と言われても、そう邵可様が言ったんだよ。筍持ってくってさ」
扉の向こうに武官である藍楸瑛が立っていて、且つ邵可の名を発したことで黎深も早速嫌味を飛ばす。
「吏部まで出向いてお喋りとは、主上付きはよほど暇らしいな」
低く頬杖をつき優雅に扇で顔を煽る、噂通り怜悧冷徹冷酷非情な長官の姿に楸瑛は慌てて粛拝し、その場で用件を申し上げた。
「黎深様、先程邵可様より用件を託かってまいりました」
「なんだ早く申せ」
「今晩は黎深様のお邸にお伺いする旨、すでに奥様宛で文を届けられたそうです」
「そ、そんな…………」
まるで夢から覚めたように目を見開いた黎深の顔は忽ち苦々しく、暫し眉間を押さえていた。やがて影を落とした扇の内で口端がニヤリと持ち上がり、次第に肩が揺れる様には周囲に動揺が走るが、すぐに息子が言葉を添える。
「残念ですね黎深様。でも、今晩は邸においで下さるわけですから」
そうだな、と応える間も黎深は顔を上げぬまま、絳攸に一つ命じる。
「絳攸、今度から百合宛の文やら書簡は全て私を通すように言ってこい」
「はい、わかりました」
楸瑛に続いて粛拝した絳攸は扉の外へ出るなり、夕月夜の見守る露台を進みながら、先の養父の言動を隣の楸瑛に説いた。
「きっと黎深様、邵可様が自分を通さず百合さんとやり取りするのが面白くないんだ」
「えっと……それはどっちの意味で?」
「ただ単純に、邸を訪ねるなら先に黎深様に言ってほしいってところだろう。自分だけ後から知るのが面白くないだけだ」
「なるほど」
「よほどがっかりしてたが、おそらく俺の饅頭を口実に邵可様のお茶が飲みたかったとかそんなところだ」
「はは、また酷い話だ」
「まあな……でも邵可様が邸にいらっしゃるなら、それはそれで暫くはご機嫌のはずさ」
腕組み頷く絳攸を見て、隣の同期がにっこり笑った。
「絳攸もね」
しかし二人の話すご機嫌は今の吏部になかった。長官席で今も顔を覆う、黎深の陰る頬には一筋の涙の跡が覗く。
「ふん、そうか……」
いっそほくそ笑むように、そして憎々しげに歯を食いしばった彼はまた深く卓子に突っ伏す。片頬を密着させぼんやり横を向きつつ、先の妄想を自嘲すべくフッ、と鼻で笑うと、突如がばっと上体を起こし、真顔で今日の終業を告げた。そして真っ先にこの室を出ていった。
「おい、出てこい」
無人の露台で扇の内から発すると、宵闇の中からササッと即応で二人の影が現れ、主人の手前で跪く。
「これから急いで出かける。手配しておけ」
「はっ」
命を授かった影が再び闇に消え去ると、黎深は一人、舞い込んできた桜の花弁がその顔に触れる直前にさっと扇で払った。自ら送り込んだ風でひらりと返るそれを見つめながら、ふと足を止めた彼は閉じた扇を握り締める。先の妄想をなぞるようにうっとりと、そして憤然と呟く。
「甘くて優しい李の匂い…… まるでそう、貴方の吐く嘘の匂い………………。――酷すぎます兄上!」
次第に帯びた憎しみも今日の密なる妄想も正しく表裏一体だと、闇を彷徨った花弁は幾度と翻り、やがて地に降りたそれは反り返った裏を上にした。黎深は不機嫌な形相のまま宮城を去っていった。