父と子


文と饅頭を手にした楸瑛が府庫の出入り口を覗くと、折しもそこを出ようとした邵可とばったり出会した。
「やあ楸瑛殿、今日はよくお会いしますね」
「ええ、まあ」
楸瑛がまず、暗い廊下から差し出したのは饅頭の入った蒸篭だ。
「絳攸と二人で作りました。少し冷めてしまいましたが」
「これは有難い。道中にでもいただくとするよ」
「え? 道中?」
「ええ。これから黎深のお邸を伺おうと思いまして」
「え…………?」
うっかり文を落とした楸瑛はそれを拾うと、目の前に立つ宛名本人に「黎深様からです」と重ねて差し出す。文を広げた邵可は、あまり目を通さぬ内に「これじゃ行き違いになるね」とそれを畳み、こめかみを掻いていた。
「実はさっきなんだよ。百合姫宛に文を出したのは」
「またなんで、黎深様のお邸に?」
「筍を沢山頂いたから、お裾分けしようと思ってね。私一人じゃあんなに食べ切れませんから。よかったら、藍将軍も如何ですか?」
頂いたから、と指された府庫の片隅には重そうな麻の袋が置いてあり、開いた口からごろごろと詰まった筍が覗く。
「ああ、いえ、結構です……」
楸瑛は遠慮しつつ逡巡すると、尤もらしい邵可の話から早くも疑問を拾い上げた。
「しかしそれなら、絳攸にでもお渡しすれば……」
「まあそれでもいいけど、偶にはあちらのお邸にお邪魔しようと思いまして」
「そうですか。では……もう終業時刻ですので、私が黎深様の許へ出向きその旨をお伝えします」
「よろしいのですか? なんだか申し訳ありませんね」
「いえ、ではお気を付けて」
「ありがとうございます藍将軍」
互いに拝を交わすと、廊下に出た楸瑛はまた吏部へと戻っていった。
一方、筍の袋を背負った邵可は灯りを消すと府庫を後に、向かったのは庖厨所だ。一つ二つと灯りの消えゆく宮城内の露台を行き、今もガチャガチャと忙しい音と明かりの漏れるその扉を開けると、中で働く料理人に「こちらに返しておきますよ」と一言。手にした麻の袋をその手前に置いた。その後、もう一つ別の文を出向いた先の官吏へ、早馬でと願い、彼は宮城を去った。
「楸瑛殿は聡いからね……」
宵の口に染まる夜道をぼやきながら歩いていった。
そしてその楸瑛はというと、すでに黎深に言伝し、仕事を終えた絳攸と二人で桃仙宮へ、淡い月の浮かぶ池の先の楼台にて、今日の反省会を開いていた。
「……というわけで、邵可様は今頃君の邸に向かってるね。筍持って」
対座した絳攸に明かしたのは先程の府庫でのことだ。視線を昏い池に放ち黙考する彼に、二人の動向から得た楸瑛の次なる推察が述べられた。
「だから邵可様のところに誰かが匿われている説はなくなったよ。もし邵可様が邸を空けるとしたら、黎深様は寧ろ喜ぶはずだろ? 水入らずの二人きりになれるわけだから。なのに、あの落ち込みようったらないよ。文を持つ手が震えるなんて相当だろう? あの文は正しく邵可様宛だったんだ。そうなると、残るはやはり邵可様に……という説だけど」
「楸瑛、それなんだがちょっといいか?」
話を遮りつつ顔を上げた絳攸は、やけに改まった顔で視線は卓子に落としたまま、養い子という視点で見てきた養父と伯父の関係を語った。
「楸瑛も知っての通り、黎深様は邵可様をこよなく慕ってる。邵可様のこととなると近寄る者を皆敵と見なして嫌がらせに走るぐらいだから、一見して懸想してると思われても仕方ない。しかしそこに至るまで黎深様が想う理由を、黎深様が紅家当主に就いた事情も、僅かながら聞いたことがある……」
要所要所はぼかされたが、百合さんが言っていた……とされた黎深の過去。邸に帰ってこない兄を弟と二人でずっと待ち続けた幼少時代。後に兄を追い出した紅家を恨み、その兄を追って今は宮仕えまでしている。更に子を為すつもりはないとして養子まで迎えたとあれば、その淋しさが如何程であったかを知るのは難しくない。何よりその兄が邵可だからこそ黎深もここまで傾慕するのだと、同情に程近い言葉は邵可の甥でもある彼の口から、腐れ縁の親友に気兼ねなく零された。
「俺だって邵可様を誰より尊敬してる。何も恋してるとかそんなじゃないが、例えば邵可様に褒められただけでこう、恋と錯覚……ってわけでもないけど、すごく誇らしい気分になって、この人に一生付いていきたい、この人になら全て捧げてもいい、そんな気持ちにさえなってしまう……」
「まあ、女性に対してはあまり湧かない感情だよね。凡ゆる面で自分を上回る、且つ包容力のある男には同じ男でも魅力を感じるよ。いや、男としてってところかな。邵可様はその資質を充分に備えてる。ちょっと頼りない気はするけど」
「だから、正直今はホッとしてるんだ……」
「えっ…………?」
ほんの数時間前まで養父の浮気相手を憎んでいた絳攸が、相手が邵可となれば寧ろ同意を覗かせた。もちろん傍から見れば可笑しな話だ。
「いいのかい絳攸? 仮に今頃君の父親と伯父さんがあんな関係になっていたとしても。実は言い忘れてたけど、邵可様が最近ある男に言い寄られて困ってるそうだ。勿論きっぱり断るそうだし、相手も黎深様ではないと仰ってたけど」
「別人だろう。さっきも言った通り、邵可様は男から見ても魅力的だ。あの人徳と懐の深さに惚れ込む男がいても正直おかしくないと思う。ホッとしたというのは、相手が何処ぞの知らぬ女ではなく、邵可様なら精々淋しさを埋めるだけでそれ以上はないと思ったからだ。黎深様はきっと、拗らせてしまっただけなんだ……。それに、邵可様にはもう少し、黎深様に優しくしてあげてほしい……」
消え入るように呟いた絳攸は、己の不満より養父の心の傷を歎じていた。これには楸瑛もそっと絳攸の前髪に触れ、「絳攸は優しいね……」子をあやすように柔らかな声を注いだ。が、絳攸は一つ忘れている。
「しかし、百合さんはどうする? 君や黎深様がよくても、妻である立場からすれば不満だろう」
尤もな主張だが、これにも絳攸の首肯はなかった。ゆっくりと顔を持ち上げつつ、育ての母である彼女の心をこう説いた。
「百合さんは元々黎深様の世話役だったから、俺なんかより黎深様を知ってる。さっきの事情ももっと深く、その目で見てきたわけだから、俺なんかよりもっと同情してるだろう。邵可様を追いかけて紫州に来た時なんか、黎深様の嫁探しに奔走していた程だ。すべて邵可様に傾倒し過ぎる黎深様のためだ。それを、今になって邵可様が受け入れて下さるのなら、寧ろお願いしたいくらいかもしれない。それで黎深様の傷が癒えるならな……。それに、百合さんには偶に紅家の仕事や黎深様の我儘から離れて、俺の世話からも離れて、気晴らしに旅行でもしてほしいと思ってる。それはそれで黎深様が不満がるがな」
「えっと……なんだか複雑になってきたね。でも結局、相手が邵可様ならいっそ誰も困らないわけだ」
「ああ。邵可様なら、今のところ困ってるのは吏部だけだ」
「それがあったか……。まあでも、邵可様も言ってた通り次第に落ち着くと思うよ。もし邵可様に自覚があれば、黎深様を咎めるのは簡単なことだし」
「ああ。だな……」
楸瑛は、水面にくっきりと浮かぶ欠け始めの月を眺めて言った。
「居待月……。立って待つのもなんだから、そろそろ座って待ちましょうってね。我々は、少し立っていすぎたのかもしれないよ」
「ああ。黎深様の浮気や邵可様が共犯者だと疑って申し訳ないくらいだ」
席を立った絳攸が月に向かって伸びをすると、白金色を塗したその顔は清々しく輝いていた。ふわりと髪を揺らした夜風に、何処ぞから桜の花弁が乗ってきた。
「今夜は邵可様が来るんだから、絳攸もそろそろ帰らなきゃね。父が父なら子も子ってやつだ」
楸瑛の声で踵を返し、二人は楼台を、宵闇に染まる宮城を仲良く後にした。
しかし、絳攸が帰った邸には邵可も黎深も居なかったのだった。