毒と薬


傾き出した日射しに乗って花弁が地へと舞い降りる中、絳攸と楸瑛の二人は宮城中を彷徨うばかりでどこにも辿り着きそうにない。先頭に絳攸が立っているのだから当然のことで、遅まきながら楸瑛が尋ねた。
「ねえ絳攸? あえて黙ってたけど、迷ってるよね?」
「迷ってなんかいるもんか! 迷ってなんか……迷ってなんか……」
みるみる声の萎れる迷子に手を差し伸べる旧友は扱いに小慣れている。二人の交友は長やかだ。
「絳攸、まずは行き先を言おうか?」
「りょ、庖厨所だ……」
小さく口を窄めて告げると、同時に絳攸の腹の音が鳴った。昼餉で満たされたばかりの胃が空になるほど彷徨っていたわけだが、行き先がわかってからそこに着くまでは早かった。
がちゃがちゃと洗い物が鳴る入り口の戸の前で、到着した二人のすぐ手前の角から、ふと姿を現したのは府庫に居るはずの邵可だった。
「おやお二人共、庖厨所にご用ですか?」
「邵可様こそ、こんな所で……」
「私はこれを頂きに参っただけですよ」
手にした小さな包みを持ち上げた邵可は「茶葉をね」と付け加える。
二人は何を疑うでもなく、絳攸がここに来た目的を明かした。
「俺たちはこれから饅頭作りです」
「ま、饅頭?」
「ええ。出来上がったら邵可様にもお持ちします。では」
腑に落ちない楸瑛を連れて絳攸は庖厨所に入っていった。
そんな楸瑛と同様、邵可もまた腑に落ちない様子だ。廊下を去りながら頭を掻きつつ、先程の包みを逆さまに、中の雑草を庭先に捨て去った。

やがて、一人を覗き仕事の山に追われる吏部に出来立ての饅頭が届いた。
「黎深様、少し休憩にしましょう」
ん? と張り付いた机から呆けた顔を剥がし取った黎深は、四段の蒸篭を掲げた男を正面の戸の前に、西日で逆光となったその姿を見る。細めた目をそのままに、徐々に鮮明となる男の輪郭を捉えるなり悄然とぼやく。
「なんだ、絳攸か……」
周囲の官吏が皆一様に頭を抱えた。
そんな彼らにも筆を置くように告げると、奥の中央に陣取る長官席の前に、絳攸に続いて皆が集う。黎深の正面に立った絳攸がまずは蒸気漂う蓋を開き、ふかふかに詰まった一段目を黎深に差し出した。
「さ、黎深様、冷めない内にお一つどうぞ」
薄い目をした黎深は蒸篭の中を無表情に見定め、詰まる饅頭の中から一つだけ、あからさまに他より大きな饅頭に手を伸ばす。
「大きさが不揃いだ。とても秀麗には及ばんな」
嫌味を零しながらもぱくり、一口噛り付いてはもしゃもしゃと咀嚼する。
周囲の官吏にも振る舞えば、頬張る皆の疲れもやや癒されたといったところか。
「絳攸様は饅頭作りも得意なのですね!」
碧珀明の輝く眼差しが大先輩に向けられた。
しかし膨大な仕事の山を忘れかけたのも束の間のこと。突として黎深が発した不穏な怒りに忽ち戦慄が走った。目尻を吊り上げ髪も逆立つ形相はまるで般若の如く、沸々と膨らむ怒りは早くも呪いと化し、辺りを不吉な闇に染め上げた。
「ぬ……な、なんだコレは!? 絳攸、まさか私を毒で殺めようなどと、んンノォォ……諮ったな絳攸!!」
怨敵に透かさず飛んだ扇は鋭利な刃として絳攸を襲うが、すんでのところで避けた彼は、養父への殺意を打ち消した。
「待って下さい黎深様! それをよく見てください!」
黎深が毒だとして口から出した掌の異物は、齧った饅頭に紛れていたそれは、小さく丸められた紙であった。
「ん……? これは、毒じゃないのか」
「黎深様、それを広げて見てください」
言われた通り紙を広げた黎深は、中に書かれた文字を読み上げるなり、頬を艶々と染め上げていく。
「貴方の恋は既に実り、今宵、固い絆で結ばれるでしょう…………。結ばれる……だと……!?」
絳攸は、壁に刺さる扇の前でそっと胸元に拳を構え、「やった!」と呟いた。周囲は寧ろ疲れが増したか、重い足取りで自らの席へと戻っていった。
そして、次に起こした黎深の行動に絳攸はただただ困惑した。久々に筆を取った黎深が書き上げたその書を折ると、絳攸にとある仕事が命じられたのだ。
「絳攸、この文を兄上に渡してきてくれ」
「えっ? 兄上って……邵可様ですか?」
「当たり前だ。他にあんな立派な兄がどこにいる?」
「いえ……わ、わかりました」
吏部を出た絳攸は、まず王の執務室に駆け付けようとして迷い、出会したどこぞの官吏を使ってどうにか辿り着いた。
失礼します、と入ったその室内には、中央の席で仕事の片手間に先程の饅頭を齧る王がいて、絳攸の訪問を捉えるとすぐに黎深と同じことを言った。
「絳攸、この饅頭だが、やはり秀麗には一歩及ばぬな」
「王のために作ったわけじゃないからな。それより楸瑛!」
絳攸が振り向いた先に、王の隣でその補佐をする楸瑛がいた。
「絳攸、どうだった?」
「ちょっと失敗したが成功だ」
「え? 失敗って?」
何がだ? と口を挟む王を余所目に、絳攸は事の始終を明かす。
「一番大きいのを取るまでは予定通りだったが、口にした占いを毒だと勘違いして、俺を攻撃してきた」
「こ、攻撃って……。しかしあの性格だから、あからさまに占いが入っているとわかればまず手にしないだろうし……でも、まさか毒だなんて……」
「邵可様と秀麗の手料理以外で、もし異物が入っていたとしたら、それは全てが毒なんだ。そこに気付かなかった……」
「なんだか、絳攸が憐れで仕方ないよ……。怪我はなかったかい?」
「ああ。叩く扇子は避けられないが、飛んできた扇子はどうにかな」
「そ、そう……。それで、どうなった?」
「恐らく楸瑛の言った通りだ」
だから何の話だ! と喚く王の前で、二人は揃って青褪めた。
「あれは確かに恋だ。占いを読んだ途端、頬を染めつつ慌てて文をしたためた」
「それがその文……? って、しょ、邵可様!?」
絳攸の手にある書の宛名を見た楸瑛は、目を剥き声をひっくり返した。
後ろでは依然として除け者の王が饅頭をたいらげ、「だから邵可がどうしたのだ?」と不満をぶつけながら、秀麗から贈られた刺繍の手巾で口を拭っていた。
「絳攸、中は見たのかい?」
「いやまだだ」
「なんで邵可様なんだ……」
「わからん。この中を見れば……いや、俺は見るのが怖い。俺の知らない秘密を知ってしまうのが恐ろしい!」
王を無視する二人のやり取りに、遂に割って入ったのがその王だった。どれどれ? と、絳攸の手から抜き取った文を開くと、「あ……」と放心する二人の間で読み上げた。
「敬愛する兄上へ。今宵兄上のお邸に伺いたい。酒と御夕食をお持ちするのでご相伴願いたい。――兄上の世界一可愛い弟、黎深より」
三人は急速に沸き立つ鳥肌を共有した。が、何も知らない王にとっては訝る事でもなかった。
「何も黎深が邵可の家に行くだけの話じゃないか。最後は不気味だが、あの黎深なら何も不思議ではないし、一体これのどこがそんなに可笑しいのだ?」
しかしそんな言葉も慰めにならぬ程、二人は暫く言葉を失くした。
先に我に返った楸瑛が王の手から文を取ると、彼を背に、依然として塞ぎ込む絳攸の肩に腕を回し、身を寄せる。
「とりあえず、これは私が府庫に届けるよ」
そして小声で述べたのは飽くまで楸瑛の考えだ。
「恐らくだけど、邵可様のお邸に誰か匿われているのかもしれない。今は秀麗も静蘭もいないからね」
「なるほどその手があったか……。ん? そしたら邵可様は共犯者じゃないか!」
「頼まれてとか脅されてとか、色々あるだろうよ。吏部尚書である黎深様に秀麗の進退を散らつかされたら、邵可様も仕方なく呑んでしまいそうだし」
「そんな……職権乱用に脅迫だ! しかも大好きな兄と姪にだぞ? 百合さんまで裏切ることになる」
「まあそうなるけど、相手はあの黎深様だ。いくら秀麗に目がないとはいえ、それ以上に熱を上げる存在が出来たとしたら……」
「うーん……。とりあえず、何を差し置いても突っ走るな」
新たな推論に至った二人は執務室を後にした。柔い夕陽の包む廊下で二人は別れ、楸瑛は文を持って府庫へ、絳攸は吏部に戻ろうとしたが、すぐに楸瑛が気付いてまずは絳攸を吏部に送る。そのついでに楸瑛が覗いた吏部室は、浮いた眼差しで脂下がるばかりの吏部尚書を中央奥に、仕事をするにも周囲の皆が一様に総毛立つ、正に悪鬼巣窟の名に相応しい光景だった。
「こりゃ失敗かな」
目を背けた楸瑛は、吐き気を訴える絳攸をとりあえず吏部に留め、直ちにそこを後にした。 府庫へと向かう薄暗い廊下で、偶々擦れ違った陶老師を呼び止めようとしたが、やめておく。
「毒と薬は紙一重ってね……」
去りゆく老師を背中にぼやけば、前方に見えた府庫に今明かりが灯った。