恋と病


翌日、主上付きとして今日も執務室に籠もる藍楸瑛は、窓の向こうを眺めながらぼんやり昨夜を振り返っていた。昨夜も後宮を訪れた彼は、一見女性との戯れを願い訪れたと思われるが、本当の目的はまだ本人すら知らない。結果として、今彼の額には真新しいコブが目立つ。そのコブを撫でながら「ハァ……」と零す吐息は艶めいていて、反省の色などないのだ。視線の先では桜を止まり木にした鶯が鳴き、若草色の羽を休めていた。
そしてもう一人、楸瑛の隣でも同じ溜息を落とす者がいた。
「ハァ…………」
「主上、今日も一段と患ってますね」
……とそこまで言った楸瑛は、頬杖の底から朧げに見上げる劉輝の横で突如はっと呟いた。
「主上は正に恋をしている。私ももしや何方かに……? まさか、あのお方も!?」
「何を言っているんだ楸瑛? あのお方とは誰だ?」
「いえ、ただの独り言です。お気になさらず……」
翌日の午後、彼は再び絳攸と府庫で落ち合う約束をした。

その翌日こと、府庫を訪れた楸瑛を出迎えたのは府庫の主である邵可だ。
「おやおや楸瑛殿、今日も絳攸殿との密会ですか?」
今日もおっとりとした温い声音が客人を迎え入れる。
「密か……いやぁ、まあそんなところです。またこちらの席をお借りしますよ」
苦笑いで濁す合間に「いえいえ」と邵可が一度奥に引っ込むと、つまり再び奥の扉が開くなり今日も父茶が運ばれてくるわけだ。
「さ、どうぞ掛けてお待ちください」
「あ……なんと言うか……恐れ入ります」
楸瑛は顔を引き攣らせつつ湯呑みを取ると、傍らに立つ邵可に尋ねた。
「邵可様、最近黎深様に何か変わったことはございましたか?」
「か……変わったこと?」
二人は今日も窓際の席で膝を突き合わせた。
「変わったことも何も、黎深とは暫く顔を合わせていないからね」
「そうですか。実はここだけのお話ですが……」
楸瑛が鹿爪らしく語り出したのは、やはり黎深のことだった。
「……という感じでちょっと、いやかなり様子がおかしいようで、絳攸が気を揉んでまして」
「黎深は極端だからね。もしかしたら、百合姫と喧嘩でもしたんじゃないかな?」
「なるほど奥方と。しかしその割にはやけに幸せそうな顔も見せるらしく、というより……それってつまり、恋患いってヤツではないかと」
今日は邵可が茶を噴き出した。
「ああ、申し訳ない。ちょっと拭くものを……」
呆気に取られる楸瑛の前で、席を立った邵可は慌てて奥に引っ込んでいった。
「まさか……いやそんなはずが……」
府庫で一人になった楸瑛が何やら考え込んでいると、すぐに戻ってきた邵可が台の上を拭う。
「いやはや、とんだお見苦しいところをお見せしました」
そこに視線もやらず黙考する楸瑛だったが、邵可が対座するなり、抱いたばかりの推論、というより事実正解を述べたわけだ。
「まさかとは思いますが、昨日邵可様が申し上げた件、同性というそのお相手とは…………」
「まさか。黎深には愛する妻がいるんだから、よもや私に懸想などと、あり得ないよ」
狼狽えもせず否定する邵可に不自然さはなく、かといって他人事というでもなく、寧ろ良く知る間柄だからこその気安さが見て取れる、いつもの穏和な笑顔には楸瑛も頷いた。
「そう……ですよね……。ご無礼を申し上げました」
「いやいいよ。まあ、黎深が極端なのはいつものことだから、その内治るんじゃないかな。絳攸殿には気の毒だけど」
そこに今日も顔を出したのは絳攸と、また別の官吏だった。
「あれ? 絳攸今日は早かったね」
恐らく不本意な形で案内役を担った官吏がその場を去り、絳攸が窓際の二人の許へ歩み寄る。
黎深の子、つまり甥である彼の顔を見て、邵可は唖然とした。
「こ……絳攸殿、その顔は如何なさいました?」
垂れた前髪の奥に陰る目は落ち窪み、隈が色濃く浮かび、頬も微かに窶れている。発した声は今にも枯れそうだ。
「仕事が終わらなくて、夜通し吏部詰めでしたから……」
「それはいけない。絳攸殿、早くこちらに掛けて、今お茶をお持ちしますから」
いそいそと父茶を運んできた邵可は、項垂れる絳攸の前の卓子に置く。
「ささ、飲んで休憩なさって下さい。これでは身が保ちませんよ」
「こ、絳攸……?」
椅子に掛けてからも俯いたままの絳攸だったが、差し出された父茶を今一度下から見上げる目はいっそ睨みつけるように、突如顔を上げると、勢いよく手にした湯呑みを一思いに煽った。酒をかっ食らう如く、ごっきゅごっきゅと活発に動く喉仏を手前の楸瑛が案じていた。
「おい、絳攸……?」
その声も耳に入らずか、忽ち飲み干した湯呑みを絳攸が台に置き、落ち窪んだ目をかっと見開き、ぷはぁっと息吐くと共に袖で口元を拭う。
傍で見届けた邵可は満足気に、「では私は」と奥に引っ込んでいった。そして、今日も壁の向こうの話に聞き耳を立てた。
「それで、原因はつかめそうかい?」
「いや、仕事でとてもそれどころじゃない。黎深様があれだから仕事が増える一方だ」
「……だろうね。私も色々伺ったけど、何一つ聞こえてこなかったよ」
「楸瑛の場合、伺った先が悪いんだろ?」
「まあ、それは置いといて。実は、俺の考えも聞いてくれるかな?」
「なんだ?」
楸瑛はやや声を潜め、絳攸が身を前に寄せた。
「恐らくだが、恋患いだと思うんだ」
寄せた身をすぐ後ろに引いた絳攸は、今にも立ち上がる勢いでみるみる青褪めていった。
「こ、恋患いだと? 一体誰に? だって黎深様には百合さんが……な、まさか不倫……?」
「まあ……残念だけどそういうことになるよね。でも黎深様の症状を聞く限り、何者かに入れ込んでるのは間違いない」
養父である黎深の不貞に憎しみをぶつけるべく、養子の彼は両の拳で机を叩いた。
「クソッ、相手は一体誰なんだ!」
「そこはすごく気になるところだけど、今は黎深様の症状を抑えることも必要かもね。このままじゃ吏部が保ちそうにないし」
「まあ……そうだそっちも重要だ。どこかにないのか恋患いに効く薬は!」
声を荒げる絳攸とは逆に、その道の大先輩である楸瑛は淡々と諭した。
「ないよそんなもの。恋するなと言ったところで却って逆効果だから」
「いっそ背中を押せと言うのか?」
「まあ、症状を抑えるって意味ならある意味それが一番だよ。恋患いというのは恋が叶わないから罹るものだろ?」
「うーん。ではもう叶ったも同然だと思わせればいいわけだな」
「絶対とは言わないけど、今の極端な浮つきや悲観といったものが安心と余裕に変わるのは大きいと思うよ」
「なるほど……」
顎を支えるようにして視線を窓に、暫し考え込む絳攸の目には麗らかな桜の花が映り、舞い落ちるその花弁がゆらり揺られ、遠くに覗く厠の花瓶と重なったところで、突として声が跳ね上がった。
「これだ!」
「おっ、もう案が浮かんだようだね。さすが絳攸」
「ああ。もちろん楸瑛にも手伝ってもらうぞ」
「え? 俺? 俺にも仕事が……」
楸瑛が原因を察し、絳攸が解決策を見出し、二人は漸く次の計画へと移るのだった。
「王の仕事は王にやらせろ! そうと決まればさっさと行くぞ!」
立ち上がった絳攸は窶れた顔のまま、目だけは揚々と前を向いて楸瑛の袖を引っ張っていった。
「そんな、絳攸困るよ……」
二人の去った府庫の奥では、邵可が一人そわそわしていた。狭い室内を行ったり来たり、何やらブツブツと呟きながら、やがて彼も府庫を後にした。先に去った二人の跡をこっそり追った。