男と男


それからというもの、翌日も、その翌日も黎深が邵可の前に姿を現わすことはなかった。まあそのうちやってくるだろうと軽く構えていた邵可だが、いつまでもやってこないことには彼にも不安の色が射す。だからといって、同じ朝廷内にある吏部を訪ねようとはしない。この朝廷で仮にも黎深は紅家当主兼吏部尚書であり、邵可は閑職の一文官に過ぎないのだ。ならば黎深の邸を訪ねれば早い話だが、訪ねたところで何を言うべきか。謝ればいい、というのも違う。きっぱりと本来あるべき兄弟論を説いて態々傷付けるのもどうか。きっと、黎深も淋しさを埋めたかっただけなのだから……。
思い悩んだ邵可はその日も府庫を動かず、椅子に座ってぼんやりと本を読んでいた。
そこに今、府庫を訪れてきたのは黎深ではない。
「あれ? 邵可様、絳攸がこちらに来ませんでしたか?」
入口から如何にも異性受けする甘い顔が覗きこみ、府庫の中を見回していた。
「これは藍将軍。絳攸殿は見えてませんよ」
「そうですか。じゃあまた迷ってるかな?」
そう言って、来たばかりにここを去ろうとした藍楸瑛を邵可が呼び止めた。
「こちらに何かご用ですか?」
「ええ。実は、最近黎深様の様子が変だと絳攸が言うので、ここでゆっくり話そうと」
「黎深がかい?」
邵可の声はやや上擦ったが、すぐに元の面相で構えた。
「詳しいことはまだ何も聞いてませんが、なかなか深刻な様子らしく……」
「絳攸殿もそのうち辿り着くでしょう。今お茶をお持ちしますよ」
「邵可様それは私が……」
楸瑛の申し出も虚しく、程なく邵可特製父茶が卓上に並んだ。
笑みを歪ませた楸瑛は窓際の椅子に掛けると、恐る恐る湯呑みを手に、そして対座した邵可を前にそれを口許に寄せたところ、邵可が突拍子もない話題を振ってきたから茶の味どころではなかったようだ。
「藍将軍。突然つかぬ事をお訊きしますが、時に男性と床を共にしたことはお有りですか?」
楸瑛は二重の意味で茶を噴き出した。
「ああいや、失礼。唐突が過ぎましたね。今拭くものをお持ちします」
いそいそと戻ってきた邵可が楸瑛の衣を拭い、再び対座して振り出しに戻る。
「えっと……またなんでいきなり、男性と……?」
「いやぁ、私もこんなこと訊くつもりじゃなかったんだけどね。女性を挙って両手に咲かせる藍将軍なら一度くらい……と思ったらつい……」
「ついって……ありませんよ。いくらなんでも同性となんて。そうですね……手を繋ぐこと以上は無理です」
「そうですか……」
ぼんやり窓の向こうを見つめる邵可の顔に、言葉とは裏腹の色が覗いていた。
「なんだかご不満そうですね」
「いえいえ、いや、失礼なことを言って申し訳ありません。どうか忘れてください」
いつもの笑顔でやり過ごす邵可だが、武官である楸瑛もかつては絳攸に次ぐ榜眼で国試及第した秀才である。
「しかし邵可様がそんなことを尋ねてくるなんて……何かございました?」
敏い問いかけには邵可もややあって、人知れず留めていた悩みを今初めて口にした。憂色を覗かれてから打ち明けるというのもきっと初めてのことで、それだけ彼は今度の件に心を乱されていた。
「実はですね……当然ながらなんの想いも抱いていない男に、一緒に寝たいと願われまして……」
「で、寝ちゃったんですか?」
「土下座までされましたからね。叩き返すなんて出来なかったんですよ」
つまり一緒に寝た、という事実を零した大先輩に、立ち上がった楸瑛はきっぱりと言い放つ。
「いや駄目ですよ邵可様! そこは何をしてでも断らないと、そのままズルズルいっちゃいますよ?」
「そうだね……ズルズルいっちゃうだろうね」
「え……!? ってまさか、もしかして……」
「ああいや、勿論何もしてないよ。ただ抱き締めてくれとせがまれて……」
「抱き締めちゃったわけですか。ハァ、これはもう今更撤回なんて出来ませんよ」
額を押さえつつ腰を下ろした楸瑛は、改めて邵可の犯した過ちを摘み上げていった。
「まずですね、異性と同性は違いますから。頼めばここまでしてくれた、の線引きが違うんですよ。異性ならまあちょっとくらいで許される行為も、同性となればもう一線超えてるんですよ。きっとお相手はかなり満足されたことでしょう」
「ああ、そうだね……」
「同時に不満も持ったでしょうね」
「ええ。このままだと朝まで貼り付いてそうだったので、頑として断りましたら、怒って去ってしまった」
「ハァ……それ相当沈んでますよ」
「………………」
「しかし土下座されたからといえ、なぜ断れなかったんですか?」
何故、と問われ、邵可が見やった窓の向こうには、桜の下で駆け回る幼い弟達が、昔の記憶が映り込む。一人去りゆく邵可を見送る、彼等の濡れた眼差しを今も背中が覚えてる。つまりそう……
「弱味、といったところですかね。寂しい思いをさせたのは私の所為ですから、そこを突かれると如何せん……」
深く頭を抱え込むなり、入口から二人の声が飛び込んできた。
「楸瑛様ー、絳攸様お連れしました」
「だから違うって言ってるだろ碧珀明ー! 楸瑛に騙されたんだ楸瑛に!」
大声で名指しされた楸瑛は席を立ち、入口で息巻く同期に向かって物申す。
「私はずっとこの府庫で待ってたが? 昼過ぎにここでと言ったのは君だろ絳攸? なんで騙したことになるんだい?」
と詰ったあとで「あ、珀明くんありがとう。もう戻っていいよ」珀明が一礼して去っていった。
同時に絳攸がブツブツ言いながら府庫に踏み入る、正面の壁際に立つ楸瑛の許に向かうその間、楸瑛は邵可に最後の助言を呈した。
「邵可様、とにかくきっぱりと断ることですよ。泣かれようと土下座されようと靡いてはなりません」
「あ、ああ……。じゃあ私はこれで。絳攸殿、こちらにお掛け下さい」
席を立った邵可は絳攸をその席に促すと、府庫の奥へと引っ込んでいった。扉を背に、押し留めた溜息を今一度吐き出し、手前の椅子に腰掛けた。そして、壁の向こうから聞こえてきた二人の会話に耳を澄ましていた。
「で、今日の黎深様は?」
「相変わらず、酷いなんてものじゃない。頬杖付いて不気味な歌を口ずさんでいたかと思えば、今度はあまりに鬱々しい溜息吐いて、判をもらいに行った時なんかとうとう涙してた……」
楸瑛の前で俯く顔を掌に支えた絳攸は、嘆息と共に重い心労を吐きだした。
「れ、黎深様が、涙……?」
「ああ。あまりの気持ち悪さに皆の士気が下がる一方だ」
「……だろうね」
「気付けば上体を伏せたまま物音も身動きもなくなって、まさかと思い皆で様子を見に行ったら……」
額を突き合わせた二人の額が更に迫る。
「え……? な、まさか……」
「横向きに片頬をぴったり着けた状態で、目も口もあんぐり開けたままだった。まさかと思って近寄ったら、机に零れた涙が人差し指の先に伸びてたんだ。まるで俺たちに訴えかけるように、何やら伝言めいたものが涙で描かれてた……」
「な、なんと……?」
「四角」
四角? と邵可も思わず声を漏らす。そんな彼に代わって楸瑛が質せば答えは正しくそのままだ。
「ああそうだ。四つ角と四辺の四角形だ。やけに上気した赤ら顔で口からは涎を垂らし、暫く何の反応もなかったが、しかし一人の官吏がこう言った時だった。『医師の者をお呼びしましょうか?』……まるで息を吹き返したように黎深様は顔を上げ、どうにか我に返った」
「ああよかった。それで、黎深様はなんと……?」
「いや、『皆してここで何をしておる? 早く仕事に就け!』と一喝された」
「なんだかもう……重症だね……」
「ああ。そのうち本当に召されてしまいそうで気が気じゃない。秀麗の時もこんなことあったが、あの時とは別段に症状は重い」
「せめて原因がわかれば手の打ちようもあるはずだが……」
「ああ。まずはそれを突き止めたいと思ってる」
原因を突き止める、二人の話が纏まったところで府庫での会議は終わった。
邵可の手前の机の紙には"四角"がいくつも描かれていた。