兄と弟


――その日。朝廷の片隅で、とある兄弟の秘めやかなやり取りがあった。
「劉輝、どうしたんですこの目の隈は」
「兄上〜、秀麗がいなくて淋しい也〜」
「まさか、それで眠れなくて?」
「ううっ、淋しさに駈られて孤独で孤独で気付けば夜が明けていたのだ」
「まったく、困りましたね」
「せめて兄上が一緒に寝て下されば……」
「何言ってるんですか」
「だって……きょ、兄弟だし……」
「いくら兄弟でも、こんなこと知られたらお嬢様に嫌われますよ」
「じゃあ知られなければ大丈夫」
「ハア。で、何日寝てないんですか?」
「えっと……三日」
「ハア。……わかりました。一晩だけですよ」
「やったー! 今宵は兄上と同衾するのだ〜」
甘えの叶った弟の笑みに、庭いっぱいに咲いた春の色がそのまま映り込んでいた。
そして、今二人の睦まじい姿を物陰から見ていた男の目には嫉妬の炎が燃え盛っていた。広げた扇の内でギリギリと歯噛みする彼は怜悧冷徹冷酷非情な氷の長官その人、紅黎深であった。
その後いそいそと文をしたためた彼は、今宵、早速、紅邵可邸を訪ねるのであった。静蘭も秀麗もいない、兄である邵可一人の許へ酒を持ち寄っては共に煽り、談笑を交わしつつ適度に酔いが回ったのは亥の中刻を過ぎた頃だ。黎深は当然の如く、ここでの一泊を願い出た。
「まあ、仕方ないね」
已む無くと言った具合に今日も優しい邵可の許しは下りたが、黎深が通されたのは勿論、空いた客間の一室である。
「うっ、そんな……」
「なんだい黎深?」
「いえ、なんでも……」
そして夜更けのことだ。部屋の隅の寝台で横になっていた邵可の目が、今瞬時に斬り開く。キッと光ったその瞳は闇に霞む戸の向こうの廊下を睨めつけ、訝しげに問いかけた。
「黎深かい? こんな時間にどうしたんだい?」
すると戸の向こうから人影が覗き、恐縮した弟の声が返ってきた。
「すみません兄上……そ、その……」
「何か話でもあるのかね?」
「実は私……今日、とても重大な問題に気付いてしまいまして」
「なんだい? まあ入りなさい」
身を起こした邵可は布団に半身を納めたまま、室に弟を招き入れた。
「失礼します」
開いた戸から姿を現した黎深は持参した淡い寝巻き姿のまま、扇で口元を隠しつつ部屋に踏み入る。落とした視線をそのままに寝台の傍へと歩み寄り、「で、問題って?」兄の問いに答えた。
「それは……今まで兄上と同じ布団で寝たことがたったの一度もないことです」
邵可の顔は夜のしじまに響き渡るほど見事に硬直した。
「別に……それでいいんじゃないかな?」
すっかり呆れる兄に対し、黎深は俄然扇を下ろすと殊勝に声を張り上げた。
「いいえ駄目です! 私達はちゃんとあるべき兄弟の姿を全うすべきです!」
「あるべきって……」
「私と一緒に寝てくださればそれでいいんです」
「寝てくだされば……ってねえ……」
「お願いします兄上」
そう言って、黎深はなんとその場で床に膝を着き、跪拝……ではなく頓首を披露したのだ。頭頂部を深々と床に磨り付け、下ろした黒髪も地べたに流れる立派な頓首は風も寝静まった春の夜、李の蕾が人知れず綻び出した頃……。人より高い矜恃を誇る彼が、兄の前ではまるでお預けを食らう犬に成り下がった。
見下ろした邵可が何を言おうと微動だにせず、時が経てど一向に頭が持ち上がる気配はない。
「まさか、いいよと言うまで頭を上げないつもり?」
……黎深に返事はなかった。
「…………ハァ。わかったよ。入りなさい」
「え? い、いいんですか?」
許しを得るなり漸く床から剥がれた顔に淡く月明かりが射し込む。
「一緒に寝ればそれでいいんだろう? このまま朝を迎えるわけにもいかないしね。まったく……困った弟を持ったもんだよ」
忽ち染まり出す頬を扇子の内側に隠してはいるが、脂下がるばかりの目元にはその内心が満ち溢れ、黎深は早速布団の端を摘まみ上げた。
「では……」
邵可が壁際へ寄ったことで空いた一人分ぎりぎりの隙間に足先から忍び入り、ほんのり温む布団の中に二人は納まる。やはり窮屈なその中で、寝返りを打った邵可が背中を向けるが、それでも二人の体は密着した。一人分の寝台は兄弟に隙間を与えなかった。
黎深は落ち着かないのか、邵可の背後で何やらごそごそ蠢いている。
「やはり狭いだろう?」
「いえ」
「じゃあ何をしてるんだね?」
「いえ、その……あっ、兄上の匂いがして、つい……」
生々しいときめきを恥じらいつつ告げる弟……。邵可は最早憮然としていた。
「黎深、一体なにが悲しくて私なんだい?」
「何がと問われれば、それは兄上が邵兄上だからです」
で……? と言わんばかりの兄だが、その背中を射る眼差しは幼少の頃となんら変わらぬ、黎深の孤独な過去をそのまま映し出していた。
「思えばずっと……私はこうしたかったのかもしれません。こうして目と鼻の先にいる兄上と、安心して一緒に眠れる時を待っていたのです」
やけに大人しく切ない声に痛い処を衝かれた兄は、視線を落とし、素直に謝罪を口にした。
「それは…………悪かったよ」
しかしここでうっかり下手に出たことが、黎深の更なる甘えを誘起してしまったようだ。
土下座に次ぐ唐突な訴えは穏やかな夜更けを打ち破った。
「抱き締めてください兄上っ!」
「はあ?」
「弟である私にずっと寂しい思いをさせた責任、とってください!」
叫びに近い黎深の大声は上擦っていた。きっとこうして直に体温に触れたことで触発され、押し上げられ、遂に箍が外れた彼の中にそれはずっと燻っていたのだ。これまでずっと溜め込んだ淋しさが、苛立ちが、我儘が、堰を切ったように溢れ出ていた。
「責任って……」
そう言って、振り返った邵可は見てしまった。淋しげな月明かりを存分に吸い込んだ、長らく思い詰めた弟の、これまでの淋しさを目一杯に溜め込んだ痛ましい眼差しを。
「うーん…………」
すっかり困り果てた兄は片頬を指で掻きつつ、射る程に見つめる熱心な眼差しに、やがて根負けしてしまう。まるでそう、今日の静蘭のように――。
弟の方へ寝返りを打った彼は両腕を開き、広く優しい胸を広げた。そしてはにかみながら飛び込んで来た弟を、髪を解いたその頭を掌に包み込んだ。
黎深は瞳を閉じた。物言わぬ胸の内で、まずは長い深呼吸を置いた。次第に浮かべた恍惚を目の前の胸に擦り付け、「ンッフ……」とほくそ笑んだ。
「これで満足かい?」
「ええ。私の中で兄上は抱かれたい男第一位ですから!」
「黎深……あまり叩き出したくなるようなこと言わないでくれるかな」
「わかりました。二度と口にせぬようこの上なく努めます」
そのまま身動きせぬ兄に抱き枕の如く四肢を絡み付け、兄の胸へ存分に顔を擦り付けて一刻ほど。もそもそとした蠢きも次第に治まり、恍惚と満足感で満ちた吐息がふーっと零れ出たところで、兄弟を超えた時間は一方的に幕を降ろされた。
「もう、いいね」
「そんな……お願いです兄上もう少しだけ……!」
慌てた弟は袖を掴んで食い下がるが、優しさ溢る兄の顔も三度まで。今日の宿泊と同衾と一刻ばかりの抱擁までだと、告げる邵可はもう、紅家を出た一人の男でしかなかった。
「黎深、私も甘い顔ばかりはできないよ。私は君の兄で、君は私の弟なんだから」
「そんな……私はただ、淋しかっただけなのに、なんで私は駄目で、あの洟垂れが許されるなんて……」
兄の顔を見つめながらぐっと言葉を飲み込んだ黎深は、顔を背けつつ寝台を出る。そして兄の声に顔を上げることなく、彼は部屋を去って行ったのだった。
「黎深…………」
身を起こした邵可はピシャリと閉まった戸を、遠ざかる影を見つめ、重い溜息を吐いた。遠くに邸の門を去る足音を聞いて、俯く額を片手に押さえた。