そうなれば……


本因坊戦第一局目を白星で飾った俺は、とても機嫌が良かった。終局後は必ずと言っていいほど嫌味を飛ばしてきた、この口角の垂れ下がったしょっぱそうに窄んだ口がいつまでもしょんぼりとして開かないものだから、言い訳も負け惜しみもない萎れたジジイには寧ろ言葉がない。というより、何を言うにも及ばぬ手応えを得ていた。前回も同様の確信を以って挑んだわけだが、今はやはりこの後ろ盾が大きい。早速俺の背後から弟子の腕前を讃えてくれた。
「上出来でした。一泡吹かせるには充分な内容でしたね」
ジジイも相当追い込んできたが、それでも俺が上回った。ジジイのやらかした致命的なミスを衝く追撃には一片の隙もなく、有り余った勢いで怒涛の如く畳み込んだ。と、俺は僅かに右の口角を持ち上げたまで。終局後のインタビューも淡々と終え、「ではお先に」と素気なく立ち去ろうとしたところ、背広に漸く声がかかった。
「緒方くん」
「はい?」
座って盤面を見下ろしたままのジジイは顎髭を擦りながら、何やらじっと考え込んでから俺をじろりと見上げる。
「やはり、空気が変わったんじゃないかね?」
「さて。痴呆でも始まったんじゃないですか?」
「まあ勘じゃが、相当なもんが憑いとる気がするのぉ」
相当なもの……? まさか……と疑ったが、その視線は俺の背中の相棒を一度も捉えようとしない。ギョロリと剥き出た目で片眉を上げ、いつまでも俺を見ている。きっとエンゼルや鮫と違って完全に視えているわけではないのだ。ただの負け惜しみか、若しくは死期が近い所為で霊感が鋭く働くのだろう。
「フッ。まあ、当たってますよ」
「なんじゃと?」
白眉をぐっと寄せて睨んできたが、視えないものを敗因に挙げる年寄りなどただ憐れなだけだ。
「ま、せいぜい次があることを祈ってますよ。どうぞ御身体ご自愛ください」
捨て台詞を置いて去れば、ほんのり残した余裕からか駐車場へ向かう足取りが軽い。これも佐為のおかげだと本人に告げれば、囲碁は己の実力が全てだと否定しながら、闘うのは一人だが、味方はいると言ってくれた。そう言ってくれる味方が今日も私の背後にいた。
――そんな中での出来事だった。本因坊戦ですっかり忘れていた、たった今関係者からの電話で耳にしたとある今日の対局――。洗面所を出て電話を切るなり、部屋のドアを開けるとすぐ、俺は佐為の背中に詫びの言葉をぶつけた。
「すまん佐為、実は今日……」
「五月五日……。今日は、ヒカルの誕生日です」
カーテンの開いた窓から頬杖をついた佐為が、五月晴れの空を眩しげに眺めながらぼんやりと呟いていた。
えっ? という俺の声に気付いて振り向いた彼に、もう一度。
「今日、北斗杯の日韓戦が行われてる。俺としたことがすっかり頭から抜けていた。今パソコン開けるから、ネット配信で確認しよう。昨日の日中戦の棋譜はファックスで送るよう頼んでおいたが……」
電話で聞いた昨日の結果は一勝二敗。白星を上げたのは大将のアキラのみ。なのに何故か、今日の日韓戦の大将は進藤であるという――。
寝巻きのままパソコンに向かい、アクセスすればすでに副将戦が終わっていた。
「遅かったか……。しかしアキラが勝ったようだな」
三将戦も間も無く終局を告げ、残る盤面は大将戦。複雑に入り組んだ攻防から若い両者の棋力と気迫、駆使して軋む頭脳の唸りがまるでキリキリと伝わってくるが、これは個人戦じゃない。中継画面に映ることはないが、伸ばした指先の背後にはきっと今頃アキラがいて、三将の子がいて、場内には団長の倉田を中心とした関係者が応援に拳を握り締めている。そして俺の背中からは誰より進藤を想う師が見守っている。皆が進藤と共に闘っているのだ。
そこからは無言だった。一手が加わるごとに勝敗がぶれるこの緊迫は名局の証。後の検討に価する。遠く青葉のささめきになんの風情も感じぬほど、俺の肩口から身を乗り出して画面に食い入る佐為は固唾を呑むばかりだった。手が伸びて石が置かれる度に走る焦燥や緊張が僅かに揺れる黒髪から、目を見開きはっと唇を開ける瞬間からこうも間近に伝わってくる。他人には視えぬ幽霊だと忘れてしまいそうになる程だ。
やがて終局が近付く頃には静かに涙を流していた。俺の肩に置かれた手が、指が食い込みそうなほど、歯噛みしながら強く訴えかけてきた。
「半目…………」
結果はそのとおりだった。あの激しい攻防の末、足りなかった、という方が正しい気がする。ここまで相手を追い詰めたなら恥じることはない。……いや、だからこそ今頃めいっぱいの悔しさを噛み締めていることだ。大将を任された経緯こそ知らないが、日本代表として副将三将の上に立ち、一番に注目されるプレッシャーもあったはず。だから佐為は泣いている。離れた今もこうして愛弟子を讃えている。
「ヒカルはすごく、すごく頑張りました。成長があまりに著しくて、嬉しいのに、すごく、嬉しいのに…………ただ、並々ならぬ苛立ちが、負けん気より強い何か怒りのようなものが鋭く伝わってきて、私はもう……」
負けん気より強い怒り? 苛立ち……?
俺にはさっぱり伝わってこなかったが、あの気迫の裏にそれほど大きな原動力があったというのか。今はただ、隣の涙に同情した。
「……わかった。今度アキラに聞いてみよう」
俺自身気になっていたこともあり、早速後日、アキラを喫茶店に誘った。仕事帰りに合わせてアキラを車の助手席に促し、夕食でも奢ろうと夕間暮れの都会を走らせた。煙草を蒸かしつつ挨拶も程々に、オレンジに染まる外の景色からそよそよと優しい風が吹き込んで、アキラのするネクタイを緩やかに扇いでいた。右の袖からはいつかの腕時計が覗いた。
「それ、まあまあ似合ってるじゃないか」
もう二、三年前になるか。弟弟子のプロ試験合格祝いの贈り物を運転の合間に見やれば、気付いたアキラは照れ臭そうに笑った。
「おかげさまで、対局のない日は愛用しています」
「スーツ着て時計して、もう立派な社会人だな」
「そんな、恐縮です」
やがて洋風の落ち着いた店内で二人掛けの席にテーブルを囲い、注文を済ませて程なく、俺から何を話す前にアキラが切り出した。
「聞きたいことというのは、北斗杯……ですか?」
「ああ。日韓戦の終盤から、しかもネット配信で見ただけなんだ。どうも穏やかじゃない気がしたんでな。一通り話してくれないか?」
水の注がれたグラスに手を付けず、伸びた背筋を保ったまま視線を下に落としたアキラは、やがて口を開いた。
「大会前日のレセプションで、各国大将選手の意気込みを述べるスピーチがあったんですが、韓国の大将は、高永夏は、壇上で堂々と挑発したんです」
「それは、進藤に対して?」
「面と向かって煽っていたので、恐らく……。進藤も進藤で、家で倉田さんが進藤に副将を言い渡した時から韓国戦だけでも大将にしてほしいと訴えていました。あくまで高永夏に拘っての訴えだとわかったのはその夜で、その時もまた、大将にしてほしいと倉田さんに……」
「その挑発の内容が原因?」
「はい。韓国語を覚えたての僕でもそこだけははっきりと聞き取れました。高永夏は、みんなの前でこう言ったんです。本因坊秀策など、もし今現れても俺の敵ではない。と――――」
「秀策…………か」
顔を上げ、隣に立つ本人の顔を見やれば、それはキュッと唇を結んでアキラの言葉を待っていた。
「元は取材の通訳ミスで、それが記者から進藤に伝わったらしいんですが、高永夏もなぜ態々煽るような真似をしたのか、本心とは思いたくありません」
進藤への同情を込めながらも感情的にはならず、切々と語る大人のアキラを、佐為は労りと慰めの目で黙って見つめていた。
「それで、進藤が大将になったわけは?」
「進藤の並々ならぬ憤りを察した倉田さんが、その気持ちをぜひ対局に活かしたいと」
「気持ちを活かす、か……。まあ上出来ではあったが、アキラはそれでよかったのか?」
……そう。これもアキラの兄弟子として少し気になっていた。表立っては見えてこない、盤上にしか表れないその負けん気の強さが黙っていなかったのだろうか。
「対局前から培ってきた自負もあっただろう。進藤の実力も将来性も大いに認めるが、それでもまだアキラが上だ。進藤の訴えも言い換えればただの我が儘だ。それともただ黙って頷いたのか?」
「まあ……倉田さんの判断には最初は驚きましたし、前夜には進藤に発破をかけるというか、寧ろプレッシャーを与えるようなことを言ってしまったけど、でも、僕が高永夏に勝てたかというと何とも言えませんし。何より僕は高永夏に対して、いえ、韓国の大将に対して、日本代表として囲碁で勝つ以外に気持ちなどありませんでした。倉田さんの言った、対局に活かしたい進藤の気持ち……それが僕より進藤が勝るというなら、僕もそうだと思いました。その気持ちに乗じようとすら思ったほど、進藤の憤りはとても根深いものだと、近くにいて感じましたから」
根深いもの……。そう、まるでその秀策が師であったかのように、な……。
進藤は今も佐為を師として、友として慕っている。なあ、佐為……?
アキラの話は続いた。
「永夏に敗れた後、進藤はなぜ碁を打つのかを問われて、遠い過去と未来を繋げるため……と言っては悔しそうに泣いてました。秀策に相当な思い入れがあるのだとは薄々感じてましたが、他にもっと、深い繋がりがあるような気がしてなりません。全て憶測に過ぎませんが……」
両手で覆う太い袂の内側で、佐為はそっと唇を噛み締め嗚咽を押し殺していた。進藤の許を去った今、真相を衝くアキラの言葉は唐突な別れへの未練を誘引するに他ならない。遠い過去と未来を繋げるため……佐為と出会わなければ口にすることなどなかった言葉だ。千年の長い時は確かに受け継がれたと、佐為を生かした囲碁の神への証言に価する。
そこに、近距離で着信音が響いたが俺の携帯のものではない。
「あ、すみません。メールです」
とポケットから携帯電話を取り出したのはアキラだった。
「買ったのか?」
「はい。北斗杯のあとお父さんに買ってもらいました」
「俺にも番号教えておけ」
「はい。コールしておきますので、登録お願いします」
一丁前に携帯か……とここで言ってはオヤジ扱いされそうだし、すでに使いこなしている辺り若さには勝てないんだとオヤジ臭いことを思ってしまう。
「あ、進藤も買いましたよ」
「ガキが贅沢に」
……とはつい口をついて出てしまったが、これも時代だ。店内に集う周囲の若者もちらほら片手間に弄っているから呆れて先を思いやってしまう。誰より佐為がアキラの携帯に見入っていては、加えて涙が消えたことにいっそ笑みが零れ出た。
「わかった。今日はすまなかったな」
そこに折良く食事が運ばれ、湯気昇るナポリタンに腹の減らない佐為までが涎を垂らし、ここに来て漸く声を発した。
「ラーメン……ではない……?」
「スパゲティだ」
つい返事をすれば、アキラからは「えっ?」と疑問が返ってくる。
「いや、何でもない」
「それより、緒方さんも本因坊戦第一勝、おめでとうございます」
「フッ。いいから食べろ」

部屋に帰宅後、車内でも静かだった佐為からどうしてもという切望が訴えられた。
「どうしても、伝えたいのです……」
「とは言っても……また夢枕に立つか?」
「いえ、あれでは私が話せませんから」
俺の前ではいつも謙虚に振る舞う佐為が……。いや、無邪気な子供のようにはしゃいだり喚いたりもするが、それでも然るべき場面では幽霊であることを弁えるその慎ましさはいじらしくすらある、そんな彼が偶に言う我が儘は決まって進藤絡みだった。今晩のアキラの話を聞いて、事情を知った佐為の表情を見て、伝わってきた切なさに深く触れてしまったから尚更、俺としても出来る限り力になってやりたいと思う。今も変わらぬその浮かない顔……苦虫を噛み潰したような、やり切れぬ思いをいっぱいに詰め込んだ顔をLEDライトの下で淡く陰らせていた。
「しかしなぁ……」
叶えてやりたい気持ちは山々だが、その手段が限られてしまう。
「精々わからないように手紙でも出すか……」
「文のことですか?」
「ああ。夜中にでもポストに入れればわからんだろ」
と、水槽の住民に夕飯を与えれば、いつかのエンゼルが優雅な尾ヒレを翻してじっとパソコンの方を見ていた。その方を見やればデスクには俺の携帯があり、おかげで閃いてしまった。
「そうか……それだ」
俺は早速アキラの携帯に電話をかけ、メールが返ってくるなり座ってパソコン開く。すると背中から佐為が覗き込んでくる。
「何をなさるのですか?」
画面に開かれた入力箇所に携帯へ届いたメールアドレスを打ち込み、画面の空白を指しては佐為に促した。
「ここに気持ちをしたためればいい」
「ここ?」
「ああ。白紙の便箋だ」
今日、アキラが進藤も携帯を買ったと言ったのを思い出したか、佐為の顔色にみるみる明るさが増した。
「ここに入力した言葉がヒカルに届くのですね! なんと送りましょ! なんて送りましょ!」
舞い上がって部屋を走り回る佐為に先程までの面影はなく、やはり子供だ……と呆れながら文面を促せば、また大人の一面を覗かせるからわからない。北斗杯での出来を褒め、泣いてくれてありがとうと礼を告げるだけのシンプルなメッセージを、匿名のファンレター紛いを俺が代わりに入力したが、決して名を明かさぬ辺り手堅い配慮があるのだろう。しかし……
「ばれないか?」
シンプル故の訝しさが寧ろ物語ってしまうような気がする。
「例えばれても、明かしません」
ファンの想いは堅いが、即座に返ってきたメールには早くもその名が記されていた。
『佐為? 佐為なのか?』
アキラの語った北斗杯の直後に『よくぞ頑張りました』そして『涙をありがとう』。そのまま天から見守るような言葉を推察されても、進藤は今もそれを師として慕ってるのだから仕方ない。視えないものをずっと視てきてしまったのだから、疑うべきはまず信じてしまうだろう。
「さて、どうする?」
「えっと……どうしましょう」
あれだけ明かさないと言い張っていたのに、いざばれたら困惑してしまう師がいる。……いや、困惑しているようで顔を覆う袂の内側ではほんのり頬が染まっていた。
「これはフリーアドレスだ。捨てるのは簡単だし、ネット囲碁の件でIPの弄り方も習ったから、メールの出所として俺が割り出されることはまずないだろう」
「と、いうことは……?」
佐為の瞳は輝いていた。
「繋がってたいんだろ? 進藤と。とりあえずこうしよう」
メールアドレスの持ち主を特定しないという条件なら、偶にメールが出来る。
「こう返せばいい」
佐為の顔が再び持ち上がる。が、すぐに視線を壁に逸らした彼には幽霊であることを弁える慎ましさがあった。
「しかしそれでは……仲介役となる貴方に負担ばかりかけてしまいます。せめてこの身があれば……」
そう言って、自らの両手を見つめてから、ふと振り返っては後ろの碁盤を、俺が並べてやった北斗杯の日韓戦を見下ろしていた。
「この身が欲しい。触りたい……か」
黙って頷く彼にあるのは意志と声と幽体のみ。行動に至るための肉体がない。俺にだけでも話が通じるなら俺はそれだけで有難いが、本人にはただただもどかしいのだろう。
「それがあれば、俺も佐為に触れることが出来るんだな」
そう言って、改めて髪に指先を伸ばせばやはり透き通った。
「フフフ、よほど気になるようですね」
すっかり笑顔を戻した佐為もまた、椅子に腰掛けたままの俺に、俺の顔をめがけてその指先を伸ばしてきた。
「実は私にも一つ触れてみたいものがあるのです」
そう言って、透き通りつつも触れてきたのが俺の眼鏡のレンズだった。
「虎次郎のいた江戸時代にも稀にお見かけしましたが、当時とはやはり違いますし、こうして間近で見たことはないのです」
立ち上がった俺は眼鏡を外した。視界がややぼやけるが、正面の幽体を捉えては「こういうもんだ」と佐為の顔の前に、目元に合わせて当てがってやった。
「わ! 不思議! ぼやける!」
幽霊の目にも視力があるらしく、佐為はぼやけるレンズ越しに正面の俺の顔を見つめている。そしてパソコンに届いた「わかった」の返信を、目をパチパチさせながら身を乗り出して覗き込んでいた。
「度がきついんだな。それに、この型は佐為に似合わない」
せめて実体があれば……。
俺もそう、願う時がある。
その身があれば……。
そうなれば、その時お前は真っ先にどこへ行くのか。誰の許へ駆けつけるのか。
そんな疑問の内に寝た。

翌朝、起きてなんとなくでテレビを点ける。カーテンは閉めたまま、歯ブラシを咥えて部屋に戻ると、テレビ画面から何故か俺の名が聞こえてきた。
「緒方碁聖・十段がいよいよ三冠となりました。昨日都内のホテルにて、念願の本因坊を苦戦の末に勝ち取りました」
あれ……? 俺は頭を捻ったが、ん? いや……あ、そうか……そうだった。なぜ今の今までこんな重大なことを忘れていたか。俺はすでに桑原本因坊を打ち負かし、今は俺が本因坊となったはずだ。決して忘れていたわけではなく、時事の一つとして他人の声を聞いたことで漸く実感を得たといったところ。喜びに目覚め震え出したが手が止まらぬうちに早くも携帯が鳴り出し、静かだったファックスまでも延々と紙を吐き始めた。ダイニングから来客のチャイムが鳴り、インターホンの画面を覗けばそこには塔矢先生を先頭に塔矢門下生、棋院関係者が顔を連ねていて、裏には多勢の記者までが犇いていた。
「緒方くん、私はいつか君が獲ると思っていたよ。寧ろ遅いくらいだ」
こちらの応答もないうちに塔矢先生なりの表情変わらぬ褒め言葉が添えられ、照れ臭さにふと後ろを振り向けば、何故だろう…………。いつもそこに居るはずのあの男がいない。塔矢先生にすら褒められたというのに、今や俺専属の師となった彼からはまだ何の言葉ももらっていない。遠く離れることは出来ないのに、どこに行ったのだとテーブルの横の床に視界を下ろせば、彼はそこで正座していた。私に向かって無言で両手を着き、折り目正しく上半身を伏せ、鄭重な座礼を披露していた。
「な……ど、どうした佐為?」
「今までありがとうございました。どうやら、これで私の役目は終わったようです」
垂れ落ちた黒髪の下から恭しく告げた途端、佐為の体から見慣れぬ蛍色の光が放たれた。衣擦れの音もなく身を起こした彼の輪郭がみるみるぼやけていき、八時過ぎを指す後ろの壁時計が徐々に透き通っていった。俯いていた顔が俺を見ずして上に持ち上がると、まるで天からの迎えを待っていたかのように、そのまま天井へと、確かあの時と同じように、進藤に会わせた時のように、静かに吸い込まれていってしまうのだ。
「待て、佐為、まだだろ? 俺は本因坊を獲っただけだ。まだ何も、まだお前の何も得ていない」
この期に及んで自らの損得を口にするとは、変わらず身勝手な性分だが、慌てて追いかけ手を伸ばせど消えた足先には指先も触れず、もう声を聞くこともない、何も届かない、響かないのだと知ると同時に途方のない喪失感が押し寄せた。膝が崩れ落ちた後の視界が吹き飛び、一瞬、白い梟を見た気がしたが、あとは真っ暗で何も見えなくなってしまった。何も聞こえない誰もいない、まるで奈落の底にでも落ちたように、私の傍には何もなくなった。独りきりになってしまった。
「だ、大丈夫ですか……?」
と、か細く案ずるあの声すら耳に入ってこないのが辛い。今やすっかり聞き慣れた、親しみやすく品のある声、そう、確かこの…………。
「佐為?」
上体を起こしては瞬きを一つ二つ、視界を改めて見えた世界はいつもの朝で、カーテンから漏れた朝日が彼の顔に眩い縦筋を作っていた。その黒髪がかかるほど目の前で俺の顔をまじまじと覗き込んでいたのは、他でもない男の幽霊だった。
「すみません、酷く魘されていたようなので、つい起こしてしまいました」
「魘されていた?」
「ええ。苦しそうに寝言まで発せられていたので……」
夢…………?
卓上のカレンダーを見れば、週末には二局目を控えている。俺はまだ、本因坊を獲っていないらしい。


そしてその週末、本因坊戦第二局目で黒星を記した。直後に始まった十段防衛戦の一局目も逃してしまった。