ある日……


今回も本因坊への挑戦者の座を得られたわけですが……と問いかけられればその通りで、返す言葉は何もなかった。二目半で座間王座を降した俺は、続く記者の問いかけに応じず席を立った。
「あ、緒方先生待ってください! せめて意気込みだけでも……」
齧り込んだ扇子を握り、項垂れる座間王座の手前から食いさがる記者へ、その意気込みとやらぐらいはしっかり見せ付けておこうと思う。
「それをこれから本人に直接伝える」
宣告した通り、俺は一人廊下を進み、エレベーターで階下に降りると、奥の静かな対局室へと足を踏み入れた。クソジジイもまた俺を待っていることだろうと、顔を出せば相手もすでに碁盤の前で座っている。
「私と座間先生との対局、今終わりましたよ」
つまり挑戦者はまた俺だと告げれば、それは長く垂れ下がった白眉の向こうで早速下卑た笑みを浮かべた。そして一昨年の封じ手が今も通じるとばかり俺を煽るが、それがどうした? 猫騙しが二度通用すると思ってるなら、その時こそ俺が勝つまでだ。そんなものに頼ってるから最近は黒星が込んでいるんだろう。今日の対局も負けたそうじゃないか。本因坊も老いたものだ。なんなら俺の前で二度とその笑い皺が刻まれぬよう、脂混じりの笑い声が飛び出さぬよう、いっそこの場で息の音を止め…………
「それはなりません!」
思っただけでそんなつもりもないが、唐突な佐為の制止で握り締めていた自らの拳に気付いた。そうか、伝わってしまうんだ……と改めて知ると同時に、自らの奥底に燃える野望を今一度抱き締めた。それを最後の挑戦状として、ジジイに顔で叩きつけたつもりだ。
「首を洗って待ってろ、クソジジイ」
他に用もなく踵を返したが、背中にかかった嗄れた声で足を止める。
「時に緒方くん」
疎ましく振り向けば、指で顎を擦りつつ首を傾げたジジイが俺をじっと見上げていた。貼り付くような粘っこい視線に堪らず苛立ちを見せれば、ジジイはとうとうボケてしまったらしい。
「最近何か、雰囲気が変わったかね?」
「はい?」
「ただならぬ気配を感じるんじゃが、気の所為かのォ……。前も確か……どこかで…………」
俺は今、老人施設で老人相手に碁を打ってるわけじゃない。
「天からお呼びがかかってるんじゃないですか?」
こんなボケジジイに付き合ってられない。俺はさっさと棋院を後にした。

それから三日後のこと。杪春迫る白昼の下、散った桜の花弁がフロントガラスを横切っていった。助手席の窓から入り込む潮風で、隣のウェーブがかった黒髪がそよそよと揺れていた。
「水族館だなんて珍しい。一体どんな風の吹き回しかしら?」
「ただの気まぐれさ」
長らく海岸沿いを走っていた車を駐車場に止め、ドアを降りた彼女を待つことなく、俺は一本を咥えたまま駐車場を出る。するとすぐ後ろからハイヒールの足音が近づき、彼女が隣に駆け寄ってきた。
そしてもう一人、まるで花風を引き寄せる如く優雅に地上へと舞い立った幽霊も俺の斜め後ろを付いてくる。俺と幽霊と彼女、また妙な面子で出かけてしまったが、駐車場から館内へと進む歩道上ではただのカップルに過ぎない。さり気なく身を寄せれば甘い香水が香り、背中のシャツに彼女の指先が触れ、自然と視線が通じ合う。間に子供がいてもおかしくない歳ではあるが、今のご時世、極有り触れた恋人同士だ。背後の霊は取り憑いた俺にしか視えないのだから……と、ふと後ろの彼を一瞥した。眩い海の煌めきに目を眇め、「海……懐かしい」と息を吸う彼にはどういうわけかホッとしたというか、妙に胸がざわつくというか、理由のない居心地の悪さに今更気付いてしまった。後部座席にいた車内では何も気にならなかったが、やはり今日の面子が間違いだった気がしてならないのは、いったい何故だろう。
「ほら、早く行きましょう」
「あ、ああ……」
慎ましく見えてやけにテンションの高い彼女の腕に引かれ、いざ館内に踏み入れば忽ち海の底へと降り立つ。券売所を過ぎて間もなく、しんと広がる暗がりの奥に青く光る魚の根城。誘い込まれる人々の波に乗り、揺蕩う水の鼓動に触れるその前に、誰より先へと突っ走る無邪気な幽霊がここにいた。
「わわ! な、なんですかこれは! こんなに色鮮やかな世界が目の前に……! まるで夢のよう……」
騒ぎ駆け寄る子供らを差し置き、誰もが立ち止まらざるを得ないその前へ、ガラスのその向こうへ頭一つ抜きん出て飛び出した幽霊には思わず声が跳ね上がった。
「お、おい待て!」
「え? ちょっとどうしたの?」
……まあ、確かに幽霊ならではの楽しみ方ではあるのだろう。棋士でなければダイバーになりたかった俺には、正直羨ましい光景が今目の前に広がっていた。
水槽の新入りとして優雅に水中を舞う彼には最早言葉を失い、唖然とする。俺の声に集まった周囲の視線に戸惑ったのも束の間、早くも次の水槽へと流れる人の波に俺たちも導かれ、出迎え役の熱帯魚に見惚れる幽霊を置き去りにした。
「あら、今度はイカよ。美味しそう」
先の幽霊に負けじとガラスに貼りつく彼女もまた、童心に返ったように目を輝かせていた。これまでデートといえば主に夜、輝く夜景を見下ろすホテルか近場のディナーか、少しの遠出として温泉旅館等、日中のレジャーという健康的な過ごし方はしたことがなかった。いい歳した大人同士、共通の趣味といったものもないのだからそれでいいと思っていたが、偶にはこんなデートも悪くないと互いに感じている。水面へ射す光を受けた鱗がまた新たな光彩を産み、煌びやかに綾なす世界……。国境や海域を問わず、マンタやピラルクー、マンダリンフィッシュにジュゴンなど、普段見ることのない海の主による天衣無縫の演出に、言葉もなく魅了されていた。日常から解放される静かな空間、謂わば定番のデートスポットならではのいい雰囲気が流れていたが、それを今、後方からの悲痛な悲鳴が打ち砕いた。
「ギャー! お助けぇ〜!」
「な、なんだ?」
佐為の只ならぬ恐怖まで伝わり、心臓が大きく飛び跳ねた俺は前の水槽へと引き返していった。
「ねえ、今度は何? ちょっと待って」
追い駆けてくる女を背中にいざ目の当たりにした水槽では、なんと大口を開けた巨大な鮫が、いや、鮫の一種であるシロワニが逃げ惑う佐為を追い回していたのだ。
「食べられるー! ギャーやめてぇ!」
映画に劣らぬ大迫力なパニックシーンを見上げては、水槽に入り込むわけにもいかずただただその場に立ち尽くす。しかしそもそもここに来た目的を思い出してみれば、つい鼻で笑ってしまった。
水族館や動物園に行けばまた一匹くらい霊の視える生物がいるのでは、ついでに面白いものが見られるのでは、そんな淡い期待がまさかの現実となったのだ。その一匹が鮫とは意外だが、結果としてなかなか面白いものが見られたわけだ。
「水槽から出ればいいんじゃないか?」
佐為にしか聞こえない声で呼びかけると、「あ、なるほど」とガラスを擦り抜けた佐為が俺の許に戻る。未だ餌を追う鮫が佐為を目掛けてガラスに激しくぶつかり、悄々と去りゆく後ろ姿は少し痛々しかった。
「はぁ、助かりました……」
膝をつき息を整える佐為の、いつもより青褪めた顔に手を伸ばす。憐れみの微苦笑を投げ掛ける。
「まったく、何やってんだか」
そしてそんな俺を彼女が案ずる。
「ねえ、さっきからどうしたの? 今の鮫も何だったのかしら……?」
思えば館内に入ってから、俺は不自然な行動ばかり取っている。原因はもちろん、俺とあのシロワニにしか視えないこの男の存在だ。姿を見ずともその驚きと興奮が逐一伝わってくるものだから、ゆっくり水槽を眺めることも難しい。鮫はともかく蛙ごときでも悲鳴を聞き、心臓が大きく脈を打ち、それでも放っておけるほど俺は冷めてないのだから、だからこそわかってほしい。
「佐為、気持ちはわかるが、少し抑えてくれ」
「わかりました」
素直に頷いた彼は、きっと空気を読んだといったところ。彼にとって初めての体験、初めて知る世界、はしゃぎ回りたい程の高揚感は共鳴する心から痛いほどわかる。何も喜んでくれる分には構わないが、声すら出さずじっとしていろというわけではないが、せめて人として、大人の範疇で行動してくれたら……。すると直ぐさま背後に控える彼は、やはり俺に遠慮しているのか……。
「佐為、別に……」
「いえ、いいのです」
一変して、出来過ぎた配慮に心が痛むが、すでに掴まれた左腕が先へと促されていた。
「ねえ、次はこっちよ。もう、大丈夫?」
「ああ……」
彼女の隣に立った俺はいつものように、左手をその腰に回した。すると測られたようにぴったり吸い付くこのくびれが気に入ってる。実は年齢も然程離れていない、だから無用な気遣いはいらない。互いに依存せず自らの道を行く俺の理想を受け入れてくれる、正しく理想のパートナーだ。
そのまま他の水槽も見て回り、やがて屋上へと出れば佐為の存在を忘れていたことに気付き、振り向けば、少し後ろの屋内の水槽前で彼は立ち止まっていた。気の所為だろうか……。顔半分が水槽の青に染まった彼の、切なく射す冷えた視線が俺の胸を軋ませる。
俺は隣の腰から手を離した。すると顔を上げた佐為が慌てて追い掛けてきて、俺と視線が合うなり、忽ち目を逸らされてしまった。何か言いたいのか、やけにいじらしいというか、たった今無性に込み上げたこの苛立ちが自分でもよくわからず、日光と水を交互に浴びる手前のアシカに視線を転じた。
そして白熊の前に進めば佐為も気が紛れたか、顔色もすっかり戻り、初めての白熊に興奮していた。
「熊ってこんな色してましたっけ? しかもこんな見事な泳ぎをするんですか?」
身を乗り出しては疑問ばかりを投げ掛ける彼に、俺は表示板を読み上げてやった。
「正式名はホッキョクグマ。名の通り北極の流氷水域に住み、その保護色として白い毛色をしているが、実は毛色は透明で肌は黒い。……だそうだ」
両隣で「へえ」と二人頷くが、片や先へ進もうと歩き出し、片や今も身を乗り出している。
「あ……少し待ってくれ」
俺は彼女を呼び止めた。
「熊なんてそこまで珍しくもないじゃない」
「まあ、何も急ぎじゃないから、ゆっくりしようと思って」
そう言って、また隣の腰に左手を回した。俺だって手前のベンチに掛けて少し休みたい気分だが、佐為はきっと、一日中ここで過ごしたいくらいここが気に入ったようだ。平安時代、江戸時代では見られなかった物を心ゆくまで眺めたいのだろう。現代人ですらこれだけの人が魅せられて止まないのだから尚更のこと。ここまで気を利かせてやる俺もまた、進藤より優しいと自身を見直したくなる。
最後に回ったのが所謂ふれあいコーナーで、浅い水槽にいるウニやヒトデを実際にその手で触れて見物できるというものだった。俺は勘弁願いたいが、隣では彼女が早速袖を捲り、水槽に素手を突っ込みヒトデを摘み上げて掌に乗せる。それを指先で突っつく意外な一面には感心したが、そこまでしておいて「気持ち悪い……」はないだろう。まあ、家に水槽を置く俺もこういった生物は観賞用だ。手に触れて愛でるものではないと思ってる。
しかし隣ではそれをしたいのか、佐為もまた、ゆったりとした袂を逆の手で押さえ、水中に素手を伸ばしていた。賑わう子供らに紛れ、岩陰のマンジュウヒトデに狙いを定めたが…………。
透き通ってしまってはここの趣旨にそぐわず、その気持ち悪さすら知ることが出来ない。残念な目で水槽を射る眼差しには、俺も少し、ここに連れて来たことを後悔した。実体のない幽霊なんだと改めて実感させたようで、却って辛い気持ちにさせたようで、優しさに見せかけた自らの浅はかさを思い知った。
「ここでもう終わりね。私お手洗い行ってくる」
彼女が言って向かった出口の手前には喫煙所と売店がある。
「佐為、そろそろ行くぞ」
「ええ」
俺が隅の喫煙所で一服する間、そこからすぐの売店では幽霊が商品棚の前を練り歩いていた。
「わぁ綺麗……」
キラキラとした目で佐為が覗き込んだ棚にスノードームが置かれているのが見える。他にも子供騙しの立体視を用いた文具やら雑貨にやたら食い付いていたが、一際大きな声を上げたのはまた別の商品の前だ。
「どうした?」
半端な一本を押し潰し、俺も売店に立ち寄れば、佐為はそれに触れようと手を伸ばしていた。
「ほう。こんなところにも扇子があるのか」
佐為の背中からそれを取れば、広げた紺色の和紙に今日見たジュゴンが描かれている。所詮土産用といったところだが、筆で描かれた白のシルエットは繊細で、奥の珊瑚や岩陰も見事な濃淡で表現される。
「そういや、買ってやると言って忘れてたな」
進藤に会わせた夜、扇子を渡したという佐為にそんな約束をした。棋院や専門店に並ぶものとは比べようのない玩具だが、じっと見つめる佐為はどうやら気に召したらしい。気兼ねして口には出さないが、一際目を大きくさせ、口を開けてまじまじと見入っている。実にわかりやすい。
「わかった。これにしよう」
「え? あ、その……」
有無を言わせず真っ直ぐレジへ、会計を済ませると折しも彼女が戻り、早速手にした袋を問われた。
「何か買ったの?」
「甥っ子の土産だ」
ふーん、と袋の中を覗いた彼女は透かさず疑問をぶつけてきた。
「扇子? 甥っ子ってまだ四歳でしょ?」
「これをきっかけに碁の道を勧めてみるさ」
「でも水族館のお土産に扇子って、もうこれだから碁打ちは……」
その碁打ちと交際してるのはどこの誰だと問いたいが、今更理解してほしいとは思わない。この距離感が俺には丁度良い。多くを望まない、望まれない関係が正しく俺の理想なのだ。
あとは食事をして帰った。健康的なデートは最後まで健全に、淡い夕月夜の下、自宅前で車を降りた彼女は少し不満そうだったが、替わって助手席に乗った彼は満足そうだった。染まり出した街灯に朗らかな笑みを浮かべ、手前のダッシュボードに置かれた袋を見て、今尚遠慮を覗かせた。
「その……よかったのですか? これ……」
視線で射すだけ、中の扇子に触れることもままならないが、約束は約束だ。
「ああ。とりあえずだ。また他に気に入ったのがあれば買ってやる」
「そんな、ありがとうございます! 大切にします……」
「それより、今日は不満が残ったんじゃないか?」
「と言いますと……?」
訊き返す彼は、土産の扇子で打ち消してくれたのだろうか。
「最後のヒトデ、触りたかったんだろ? それに、気が済むまでもっと見て回りたかったんじゃないか?」
「それは…………」
「却って気を落としたんじゃないかと思ってな」
「いえ、そんな…………。まあ、ヒトデも触りたかったですし、色々な水槽に潜って間近に魚を見るのもすごく楽しかったです。でも……仕方ありません。寧ろあんなに素敵な場所に連れていって下さって、私はとても幸せです」
「無理してないか?」
「ええ!」
向けられた明るい笑顔は、俺の僅かな精一杯の優しさが報われた結果。俺なりに気を遣った結果。加えて幸せだと言ってくれたなら、俺も今日の後悔を暗がり出した空に塗り潰すまでだ。
一つだけ、今も隣から漂う甘い残り香に遅まきながら違和感を抱いた。

その晩のこと、送られてきた本因坊戦七番勝負の日程を見て俺は気持ちを切り替える。ほぼ同時期に十段防衛戦も始まるのだ。今日の桜が全て散り終え、春が去ると共にその日がやってくる。それまでに少しでも、いけ好かないジジイの最期を看取るつもりで腕を上げておきたい。今度こそ、という野心がまた奥底から立ち昇り、辺りも寝静まった夜更けであれ二冠の棋士は覚醒した。
「佐為、頼む」
碁盤を介した佐為と俺は師匠と弟子。それ以外の何でもない。上達に貪欲な俺は素直に佐為の技巧を呑み込もうと、放たれる言葉の全てを惜しんで聞き取った。
「今のは黒を右に打ってコウにするしかありません」
「ここは単純にアタリをかけるべきです。一眼にすべきです」
佐為もまた、俺の意思を察しているのだろう。今までのように一歩引いた助言ではなく、遥か高みから俺を導いてくれる。俺の碁を磨くというより視野を柔軟に広げてくれる。
「ここで取っては?」
「いえ、今は一眼を確保するのが良いでしょう。黒とこちら側からアタリにできます」
「なるほど……」
そう、俺を唸らせられるばかりの指南を何より尊く思っている。千年の時を経て導かれる崇高な碁が佐為を通して受け継がれることに、いや、そこへ導く佐為の碁にいつも頭が上がらない。棋士として激しく焦がれるこの存在に俺は何を以って接するべきか。碁盤を囲う度にそんな畏れを抱くが、碁盤から離れれば一人の幽霊として今宵も慎ましく俺に付き添う。
「もうこんな時間ですね。今日は運転も沢山なさいましたし、お疲れでしょう」
そう言って、暗がりからベッドに入る俺を彼は見下ろしていた。夢で出会ったあの夜から何も変わらない、黒い烏帽子を被り白い狩衣を纏った彼が微笑んでいるだけなのに、そんな彼が唐突に、今も透き通っていることに不意に焦燥が過ったのは俺の心のどの部分か…………。
「なあ、佐為……」
「はい?」
裸眼でぼやけた彼が急に遠くなった気がして、腕を伸ばして引き寄せる真似をしたがその髪の一本すら掠らない。
「わからないか?」
それでも心が共鳴するなら、俺の気持ちが通じるだろうと見上げれば、佐為は不自然に視線を逸らす。やはり、通じてる――。
「佐為…………」
夜という時間が悪いのか、別に男に目覚めたわけではないが、一度願えばそうなるまで気が済まない、俺の悪い部分が顔を出した。
佐為は視線を戻した。カーテンから漏れる淡い月明かりがその姿を仄かに照らし、そろそろとベッドに近寄る彼に俺は僅かな隙間を空ける。
「実体がないなら、構わないだろ?」
実体がないなら……今日の水族館でのことを思えば不用心な発言だが、元々傲慢な俺に今更細やかな配慮を求めないでほしい。何故ならもう……と露骨な苛々を顔に出せば、佐為は片膝からベッドに乗った。俺の隣に正座しようとした彼に寝るよう促せば、躊躇う彼は言い淀んだ。
「え? そ、そんな、ここに寝るんですか? 私は別に眠くなんか……」
「横になればそれでいい。何するわけじゃないんだ。ただ……」
ただ、離れたくない。離したくない。今うっかり消えないでほしい。そんな焦りが突如急き立てられたのは、きっと今日の、あの視線を顧みて――。あの瞬間が、あの青く冷えた目が今も忘れられなくて……。
彼女の腰を抱く俺の左手を見て、佐為もまた、虚しさに近い感情を抱いたんじゃないか? 佐為だってすでに俺から離れたくないんじゃないか? 俺に嫌われたくないんじゃないか? だからつい、彼女に嫉妬したんじゃないかとそう思ってる。
「違うか?」
今日感じたままを伝えれば、佐為ははっと目を見開いた。そんな動揺すら伝わるほど二十四時間毎日隣にいる。少しずつ歩み寄った心が近づくところまで近づいたのだろう。今は触れ合う一歩手前で佇んでいる状態だ。
「私は…………」
正座したままの彼は月明かりから顔を逸らし、共鳴には至らない奥の気持ちを俺に零してくれた。
「私はその、貴方から伝わってくる心がよく理解できてませんが、ただ、あの女性に対する貴方の気持ちも確かなのだと思うと、その…………」
つまり、どっち付かずな俺の態度に疑問がある。知らぬ間に育った佐為へ焦がれる気持ちが筒抜けなら、彼女に対する気持ちも同じだ。本音というのは厄介なもので、俺自身ですら掴めていないのだから説明のしようがない。それでも先ほど沸き上がったこの気持ちは本物で、何を言われようが曲げられなかった。
「俺だってわからないんだ。だから確かめる、それだけだ」
その身があれば強引に引き寄せてでも、いっそ抱き締めたいところだが、好きに出来ないのがなんとも歯痒い。碁の神様に抱いた畏れが今は消し飛び、一人の男に焦らされていた。
無言のまま外の車が数台過ぎ去ると、佐為は漸く俺の言う通りに隣で横になってくれた。覚束ない足を下に伸ばし、正確には横に浮いているわけだが、あからさまに背中を向けられるが、それでいい。俺の甘えを受け入れてくれるなら構わない。また俺の中の優しさが育とうとしている。
願った添い寝に深い意味などなく、ただ近くに居てほしいだけで何を確かめるわけでもないが、シーツに垂れた黒髪がすぐ触れる位置にある。幽霊といえ微かな息遣いが聞こえてくる。それだけで安らぐ心音が今夜もここにあった。我儘を言ってまで得た、いつの間にか求めていたことはすごく些細で、いつ消えてしまうかもわからないから尊い。でも今はまだ、消えてくれるな……――――。まだ、行かないでほしい。
そんな行き場のない嘆息を隣の背中に投げ付けた。