どうしても……


「ありません――」
目の前で大きな頭を下げる倉田の頭頂部を見下ろし、今日も安堵の息を吐く。
安堵――この荒れに荒れた碁は相手がこの男だからか、前年度最多勝利者の実力は伊達じゃなく、俺に並ぶ勝負勘の良さに加え若さという勢いがある。若手と並び若手に追われる立場というのも、そろそろ居心地が悪いと感じていた頃合だ。タイトルホルダーとして大きな心で迎え打ちたいと思うのは、すでに他のタイトルを手にした故の尊大な考えだ。
――本因坊リーグ第六戦。ここまで全て白星に染めた。すでに一柳棋聖も下し、残すは座間王座のみとなった今、もはや挑戦者を名乗ったも同然だと、煽てる記者の問いかけにも俺は前向きなコメントを出した。まだ得ていないタイトル所持者を掴み落としていく手応えはなかなかだと、この勢いに乗ってクソジジイのひしゃげた鼻を早くへし折ってやりたい、と。今日も俺の背中に構える彼へ、早くその名を返してやりたい……。
傍らでペンを走らせた記者が、今も盤上の打筋を睨む倉田七段にもコメントを求めた。
「倉田さんは、今度の北斗杯で団長を務めるわけですが、その辺の意気込みもお願いします」
北斗杯? と発した俺の疑問を倉田が気安く解してくれた。
「あれ? 緒方先生知らないんですか? 日中韓の十八歳未満で行われるジュニア杯ですよ。塔矢君に聞いてませんか?」
「ああ……」
塔矢先生が引退したからといって塔矢門下が解散されたわけではないが、先生の不在が多くては息子に会う機会も減り、先の本因坊戦以来連絡も取っていない。となると気になるのが……
「で、日本代表は?」
「その予選が来月行われますよ。でも塔矢君はもう決まってますから。残る二人はどうなりますやら」
腕組む団長は若くして気さくで、先程の敗局もすでに頭から抜けていそうだ。
後ろからは佐為も身を乗り出し、早速その名を口にした。
「ヒカルは? ヒカルは出られますかね?」
俺にしか聞こえない声に代わり俺が尋ねてやる。
「進藤も予選に出るのか?」
すると咄嗟に丸く見開いた目で俺を見上げた倉田は、気さくを通り越してやけに親近感というか、併せて佐為まで同調を重ねてきたから少しばかり鬱陶しい。
「進藤! やっぱり緒方先生も目ぇ付けてたんですか? いやぁ、あいつに初めて一色碁させた時は本気でヤバかったからなぁ。下から来る怖いヤツの双頭ですよアイツ」
「一色碁! 私も覚えてます! あれは見応えありましたねぇ〜」
「それに進藤は俺のファンでしてね。勝ったらサインくれだなんて、せがんでくるから困っちゃうんですよほんとに〜」
「あー、あの下手な文字! ヒカルちゃんと持ってるかな〜?」
霊の声は聞こえないというのに二人の会話は噛み合ってる。倉田もまた、先程まで唇を噛み締めていたのに今やご満悦面を浮かべるほどだ。彼も佐為の隠れた打筋を垣間見た一人なのだろうか。俺からすれば下から来る怖いヤツの筆頭がこの倉田だったりするのだが、公式戦のたった一勝、されど一勝がどんな評価よりものを言うのは言わずもがな。勝利した俺は次に備えるまでだ。
厳かな場が賑わったところでインタビューも終わり、棋院を後にした俺は車に乗ると、いつもの店へと走らせていった。
白昼の下、強めの春一番に髪を散らされながら、店舗の自動ドアを潜れば忽ち日光の眩しさを忘れる。薄暗さ広がる店内には壁に棚に書物の如く水槽が敷き詰められ、そこに多種多様な魚たちが住む。色鮮やかなヒレを揺らしながら、ブラックライトの照明の下で優雅な舞を披露していた。
そこに足を踏み入れた瞬間、背後から一際色めいた声が俺の心にもときめきを呼んだ。
「わぁ…………。こんなに沢山、偽物の魚が……!」
「偽物じゃないぞ」
「えっ? 嘘! これ本物だったんですか?」
進藤に何を吹き込まれたか、驚きと感動に駆られ店内をはしゃぎ回る幽霊を置いて、俺はレジへ、いつもの餌を購入した。そして奥の水槽に貼り付く相棒の背中に歩み寄れば、彼は純白のウエディングエンゼルに鼻息荒く迫っていた。
「この魚、私が視えるのかも!」
「そんな馬鹿な」
「だって見てて下さい!」
佐為は水面に素手を突っ込む感覚で、なんと正面の水槽のガラスにそのまま顔面を押し当て……いや、透き通っては水中に顔を突っ込む荒技を披露した。勿論ガラスが割れることもなく、佐為の顔も濡れなければ話す声も聞こえてくる。
「見てください! 今コイツだけビックリして逃げたでしょう?」
いや佐為の行動にビックリしたわけだが、言われてみれば確かに、佐為の指す一匹だけがピチャッと水面が跳ねるほど素早く逃げていった。他の魚は一定の間隔でのんびり泳いでいるというのに、そいつだけが今も忙しく右往左往している。
所謂霊能力者という概念が魚界にもあるというのか。取り憑いた俺以外に視ることの出来る、今日初めて会ったそいつに佐為は親しみを抱いたようだ。水中に挿し込んだ指先をくるくる回し、執拗な戯れを図っていた。
随分と楽しそうだな……思っては先に口にしていた。
「飼うか?」
「え? コイツですか?」
「今訊いてくるから待ってろ」
我ながら思い立ってからの行動は早い。店員に今の水槽状況を相談し、個体を選びあっさり購入。ありがとうございましたと見送られ、車に乗り込んではすでに自宅へと走らせていた。
車内のアシストグリップに水と酸素の詰まった袋を引っ掛け、揺れを最小限に運転している間も佐為は嬉しそうだ。指先で袋に触れては魚の目玉の行方を見ている。
「フフフ……見た見た! あれ? こっちだって〜」
永年幽霊をやってきた彼は例え意思の通じない魚であっても、自分の存在を認められることに喜びを感じているのだろう。それなら……
「今度水族館でも行くか?」
きっと、親が我が子に抱く想いと似ている。
「水族館……なんですかそれ?」
初めて未知のものに触れる感動を与えてやりたい。驚いたり喜んだりする様を見て頬が緩む感覚を俺は最近知ったばかりだ。それに、他にも霊を視る動物がいたならなかなか面白い場面が見られるかもしれない。人間より動物の方がそういった力を持ってる気がする。
「さっきの店より、もっと多様な魚を見ることができる」
「行きたい行きたい行きたい!」
現世に降り立ってほんの数年しか経ていない、無垢な彼にここまで手を掛けたいのは、満面の笑み全開でこうして喜んでくれるからだ。気品漂う装いながら、晴れ晴れとした裏のない笑顔にその価値を見出していた。

その日の夜はまたネット碁をした。水槽の新入りに見守られながら、佐為にとっては片手間の遊びを俺は真面目に学んでいる。石の流れに今日も千年の時を、特有の駆け引きやテンポといった素人では得られぬ感覚を間近に感じ取っていた。
「やった! 投了ですよ!」
「遅いくらいだ。もっと早く判断できただろ」
無駄な足掻きは勉強の邪魔だと俺は不満をぶつけるが、後ろから覗き見る画面越しの佐為は、いや、ギリシャ国籍のpterophyllumは寧ろ満足そうだ。
「もう一局行くか?」
「ええ! お願いします!」
「相手は中国か。かなりの勝ち越しだな。勝てるか佐為?」
プロフィール欄にある172勝39敗を見せるが、碁の神様には何も響かないらしい。
「ええ、勝ってみせましょう」
頼もしく不敵な笑みを見て、38戦0敗に飽いた俺は一つ条件を課してみた。
「黒か……。じゃあ、持碁に運んで半目で勝とう」
「なるほど。コミを踏まえて七目差ですね」
「勝ったら、水族館とは別に動物園も付けてやる」
「動物園?」
「色々な動物が見られるところだ。きっとお前の知らない生き物ばかりだ」
「絶対勝ちます! 持碁なんて余裕余裕〜」
昂ぶる神を背に黒を握り、珍しく思考に喘ぐ佐為を見た。よほど動物園に行きたいらしい。
すると、そこでデスクの上の携帯が鳴り、白を待つ間に画面を開き、メールを開封する。
『旅行だけど、十日以降なら空けられそう』
俺はすっかり忘れていた……。碁聖を祝い食事でも、と誘われ、それなら旅行にしようとアイツに言ったのは俺だ。
佐為が画面を睨む間に返信する。
『悪い。予定がずれた。あとで埋め合わせする』
アイツが碁に疎いのは時に有難い。しかし何故、咄嗟にキャンセルしたのだろう……送信が済んだ後で今更理由を探り、後ろを見上げればすぐそこに顔がある。彼は不思議そうに俺の携帯を見つめていた。
「電話ってやつですか?」
「いや、メールだ」
「メール?」
「手紙みたいなもんだ。リアルタイムで送れる」
「へえ。こんな小さなもので……」

寝る前に軽く一杯を煽り、布団に入って寝付くまでの会話がすでに日課となっていた。水槽のブラックライトのみが明る中、碁盤の隣で正座する佐為に今夜も話しかけた。
「俺が寝てる時、いつもどうしてる?」
「そうですね……水槽のエンゼルちゃん眺めたり、こうして貴方が広げておいてくれる週間碁を読んだり、新聞も現世の勉強になって面白いです。あとは、そこのカーテンの隙間から月を眺めたり……」
そこ、と視線で指されたのは俺のベッドに隣接する壁の窓だ。カーテンの隙間からぼんやり月明かりが射し込む。つまり……
「俺の上に乗ってるのか?」
「まあ……はい」
佐為は視線を背けるが、俺だって気付いていない。
「フッ、まあ構わない」
幽霊としてデメリットもあればメリットもあるといったところだ。そのメリットといえば羨ましいのがもう一つ。
「眠たくはならないのか?」
「ええ、なりません」
「疲れたりは?」
「うーん、ずっと頭を使えば少し休みたいと思うでしょうか」
「そっか。頭の疲れはあっても体の疲れはないんだな」
「重力がありませんので」
そっか……と、気ままに宙を浮かぶ幽霊を見ては俺も一度上体を起こし、手前のローテーブルに置いたグラスを取った。電気は消したまま、温いそれを一口含み、逆の手で眉間を摘み強く揉み解した。
「だ、大丈夫ですか?」
すぐに顔を覗き込んだ佐為も、共鳴する心から俺の気分を察するのだろう。今更心を隠すつもりもないが、いっそ全てが明け透けなら無遠慮に甘えてもいいと思う。
「少し頼みがあるんだが」
ここ、と掌で叩き導いたのは俺の枕のすぐ隣。え……? と躊躇う佐為にそのシーツの上で座るように言った。
「どうも寝つきが悪い」
「もしかして、私の所為ですか?」
「いや、昔からだ」
そろりと膝を折る佐為の隣で、俺も今一度横になり、布団に潜る。見上げれば俺を見下ろす彼が傍にいて、血の通わない蒼白の肌に静寂の美を覚えていた。
「あまり薬にも頼りたくなくてな」
ぽつりと弱音を零してみれば、こめかみから後頭部へ、ひんやりした仄かな感触がすぅと滑る。差し出したその青白い右手が俺の髪を撫でていた。きっと視えたから感触があったと錯覚しただけなのに、日頃のストレスが霧散するような心地良さを感じる。ゆっくり繰り返し撫でられるうちに呼吸が深く安らかになるのを知って、同時に癒しを求める自身の深層心理を悟った。
見えないストレスを吐き出す術は人それぞれで、俺の場合、一人寛げる空間に静寂の美を灯すこと、それに触れることにある。水槽の澄んだ気泡の音、青紫のブラックライトとそこに住まう魚たち、時折跳ねる水の音。そして、血の気のない幽霊の肌触り……。
触れないのはわかってる。それでも髪に触れようとすれば毎度の如く透き通り、結局また、あの話題を掻き起こしてしまった。
「仮に俺が強くなって、この世の碁を制したとしても、きっと俺のためにしかならない。佐為のためにも碁のためにもならない。だとしたら何故……どうして……考えたら、眠れなくなる」
「私に触れてたら尚考えてしまうのでは?」
「いや、この匂いは気に入ってる。この感じも……」
言っては佐為の手に触れるが、ほんの少しだけ、微かにひんやりとした何かを感じ取った。
すると、「不思議、ですね……」口にした佐為の所作が止まった。薄闇の中で存在を告げる僅かな衣擦れの音が止み、俺の髪を梳く手が止まる。
思えばこうも執拗に彼の身に触れたのは初めてで、そこに何の戸惑いもないが、佐為が幽霊であることを除けば彼は一人の成人男性だ。そんな彼にやけにベタベタと触れてしまった気がする。いや、意識し過ぎだ。
「緊張してるのか?」
「いえ……。ただ、貴方から何か、不思議な熱が伝わってくる気がします」
え……? と疑問を抱くが、嘘を吐けない心は知らぬ間に熱を帯び、佐為に伝わっていたらしい。言われて気付いた心音はいつになく脈を打ち鳴らし、不思議と心地良い熱に覆われていた。まるで事後のような甘い気怠さは間も無く眠気となり、俺の瞼を落としていく。
「そうか……。伝わってしまうんだな。俺の……」
佐為が不自然に目を反らしたのを最後に、無意識の内に夢の淵へと沈んでいった。時機に春の香漂う閑やかなそこで、今日、メールでキャンセルに至った理由を知った気がした。