そういえば……


新碁聖として二件の取材を終えたのはすでに夜だった。夜の似合う新碁聖、という流れで馴染みのバーにまで出向き、碁からはみ出た話題ばかりが持ちかけられ、やけに長引いた。途中で棋院には立ち寄ったが、進藤対アキラの結果を知る間もなく今に至る。今夜は約束通り、佐為と共に進藤宅へと車を走らせていた。もちろん進藤の家など知らないが、助手席のナビが今もしっかり把握しているようだ。
「あ、その先を右です」
最寄り駅からは佐為の言葉に従い、暗く寝静まった住宅街を走らせていた。
「この家です。角の向こうに停めて下さい。ヒカルの部屋はその上です」
壁沿いに駐車すれば、佐為は疲れている俺になど見向きもせず、フロントガラスから二階の窓を眺めていた。俺もまた見上げてみれば、地上からカーテンの閉まったそこまでおよそ四メートル弱。俺が壁をよじ登るはずもなく、これから佐為と離れるわけだが、なんとか届くだろう。
隣から、静かな深呼吸を聞いた。では……とここを離れる前に、助手席で踏み留まった佐為は一度俺を直視、改まった蒼白な顔を街灯の明かりに浮かべ、俺に頭を下げた。
「貴方には大変感謝しております。囲碁でしか恩を返せませんが、どうかお赦しください」
そうして俺の許を去っていった。煙草の煙のようにすーっと車内から抜けていく様を見て、やはり幽霊なんだと実感した。白い足袋の先が車の天井から消え去れば、何故だろう、フロントガラスから見上げてもその姿が視えなかった。つまり、上手く夢枕に立てたのだろうか。進藤の夢の中に潜り込めたのだろうか。きっとそうに違いない。二人の思いが通じたはずだ。
佐為と再会した進藤は、離れてからのことをこれから存分に話すのだろう。碁を遠ざけるに至った理由に始まり、再び碁石に触れたそのきっかけや、その時の気持ち、そして今日のアキラとの対局……積もり積もった話題を全て吐き出すのにどれ程の時間が要るだろうか。
佐為もまた、進藤と離れた寂しさや楽しかった思い出、あとは離れた後のこと、今の状況を語るといったところか。
……ん? それってつまり、俺のことか――?
思えば訊いていなかった。佐為は自分とのことを話すだろうか。今は緒方精次に憑いて、こうして進藤を見守っていると、現代の碁の行く末を楽しんでいると、言ってしまうのだろうか。
そんなことを考えている間に七本を消化、いつの間にかシガーポケットが埋まり、右手にした八本目に小さな火を灯していた。野良犬も眠る住宅街はあまりに静かで、車すら通らず、他に考えることがない。携帯すら静かだ。
まさかとは思うが、佐為がこのまま戻ってこないことは有り得るのだろうか。また進藤の許に戻ってしまったり、今度こそ本当に消えてしまったり、つまる所、俺の許から去ってしまったり……唐突に不安が込み上げてきた。
元々不安定な幽霊が人に取り憑くことこそ不安定な話で、それがいつどんなきっかけで解消してもおかしくない。こうして今、少しの間離れただけで消えてしまうかもしれない。いや、すでに消えてしまったかもしれない。事実、佐為が車内を去ってから俺はその姿を視ることが出来なかった。佐為も佐為で、囲碁でしか恩を返せないとしながら必ず返すとは言わなかった。お赦しくださいとは、果たしてどこまでの意味が含まれるか――――。受け流した言葉に今更引っかかっても遅いのか。
もし、このまま佐為が消えてしまったら……そう思うと、胸にぽっかり穴が開いた感覚に陥る。喪失感でいっぱいになる。まだ憑いて間もないのに、いや、間もないからこそもっと話しておきたかった。何より碁が打ちたかった。碁を打たせてやりたかった。もう少し、仲良くしてみたかった。優秀なペットへの情が、絆という形ですでに芽生え始めていたらしい。泣いて佐為を探し回った進藤の気持ちが今少しだけわかった気がする。しかし俺の場合、あまりに早過ぎるじゃないか。俺はまだ、藤原佐為を知るに至らない。
灰皿に吸いさしの八本目を捻り潰した。握り締めたハンドルにしがみ付き、そして強く念じた。
「佐為……戻ってこい、今すぐ!」
念じることで呼び戻すことが出来ないかと強く願った。
すると程なくして、あの匂いが感じられた。音もなく助手席の下からふわりと、その姿が浮かび上がったからはっとして顔を向けた。
「佐為、戻れたのか?」
「貴方の、悲痛な声が聞こえてきたので……」
しかしそう言ってすぐ、俯く佐為の頬には涙が伝う。そのうちグスッ、グスッ、と鼻をすすり、今日も今日とて進藤との名残を惜しんでいた。
そこにハンカチを差し出しても拭えないから、俺は佐為の背中に、その長い髪に掌を添える。それでも触れることは叶わないが、佐為は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「大丈夫だ。進藤とはまた近いうちに会うだろう。なるべく棋院に足を運ぶとしよう」
「はい……」
そっと持ち上がった顔を見て、俺はゆっくりと車を出した。しじまにある住宅街に抑えた走行音を響かせ、窓の向こうの夜を見つめる佐為に声をかけた。
「なあ佐為」
俺との関係を進藤に話したか、それを訊くつもりだった。
「何か話したか?」
「いえ、私からは何も……喋れませんでした」
唇を噛み締めつつ無念を告げる佐為だが、続いて進藤の話を明かすうちに冗舌となっていった。顔に明るみが射していった。
「でも、ヒカルがたくさん、私が消えてからのことをたくさん、話してくれたのです。塔矢アキラとの今日の対局のことも。負けたけど……きっと互いの成長を促す貴重な一局だったに違いありません。二人はこれから碁会所でも切磋琢磨していくそうです。私は楽しみでなりません。伊角くんも合格して、三谷くんが今年も大会に出てくれて、声を返せないことがこれ程辛いとは思いませんでした。だからせめて、決して涙を見せまいと笑っていたつもりです」
「そっか」
「ヒカル、見ないうちにまた大きくなってました。一緒にいた時は近過ぎて気が付かなかったけど、初めて会った時に比べたら、すごく逞しくなりました。すごく頼もしくなりました」
「アキラと同じだから、もう中学三年だな。一番成長する時期だ」
……と、涙の去った佐為に安堵しつつ隣を覗けば、いつもその手にあったはずのそれが無いことに気付いた。
「佐為、扇子は?」
「ああ、ヒカルにあげました。何も言葉を返せない替わりに、せめてでも……と」
そっか……と呟きつつ、その手に扇子の無い違和感はたった今抱いたものだ。佐為の気持ちは兎も角、ただただ俺の気に障る。
「じゃあ、また別のを買ってやろう」
思い付きで言ったまでだが、佐為は遠慮した。
「いえ、頂いても持てませんし……」
それに碁盤も差せない、持てなければそれ以前の話だ。しかしどうも違和感が拭えない。俺の描く囲碁の神にどうやらそれは不可欠らしい。
「まあ、それでも一つ買ってやる」
一度言ったらもう折れない、そんな強情な性分を佐為はすでに見抜いてるだろうか。それでも気持ちとして受け取ってくれれば、今はそれで構わない。
「今日は重ねて、恩に着ます」
慎ましく礼を告げる彼をルームミラー越しに覗き、自らの優しさを知った。散々気を揉ませた末に戻った彼の、その涙を見た所為だ。
赤信号で止まっていると、更けた夜をそのまま映したフロントガラスに小さな雨粒が張り付きだした。ワイパーを掛ければ佐為は逐一それを見つめ、首を左右に振る。信号が青に変わり、俺はハンドルを右に切りながら、話題を変えた。
「そういえば、次の本因坊リーグで俺はアキラと当たる予定だ」
「本因坊……ですか?」
「そっか、大切な虎次郎の名だもんな。それがいつまでもクソジジイの手にあるのは、お前も不愉快だろう」
「クソジジイ…………ああ! 碁聖戦の時にいらしたあのお方ですね」
クソジジイとあのクソな顔を結び付けた佐為は、ワイパーから視線を剥がして俺を見た。
そう……その佐為の名でもある本因坊を今もあのクソジジイが名乗っているのだから、俺としてもここが正念場だ。十段、碁聖と打ち取った勢いで三冠目といきたい。リベンジすべく、先ずは挑戦者とならねば。
「だから、今度こそ俺が本因坊を獲る。正に本因坊の名に相応しい碁でだ。もしかしたら、そのために佐為が俺に憑いたのかもしれないしな」
事実そんな自負すら抱いたわけだが、佐為は同調しなかった。
「そんな……まさか……」
「ん? 俺が本因坊じゃ不満か?」
「いえ、決してそういうわけでは……」
佐為には自信という言葉はあっても、自負という言葉はないらしい。
「私は誰が本因坊を名乗ろうとさして興味がないというか……。勿論、貴方が本気で本因坊を狙う気持ちはわかります。私とて、そうなってほしい気持ちもあります。ですが、そのために私が憑いたというのはまた違う気がして……」
「まあ、俺が本因坊となったところで何が変わるわけじゃないしな。しかし、だとしたら何だ……?」
「さあ、何でしょう……」
依然として、佐為が俺に憑いた理由を掴めないでいた。
その後すぐに雨は止み、翌朝は快晴だった。