それから……


碁聖戦決勝第五局。背後の佐為に見守られながら、俺は勝利を手中に収めた。いつもよりプレッシャーを感じたのはその存在あってだが、それが最も勝利に貢献したといえよう。
佐為の前で下手な碁は打てない。うっかり読み間違えようものなら最早佐為に見放される。進藤の至高の一手があったばかりにきっと呆れられる。事前に余計な口出しはせぬよう言ったものの、後ろの溜息が何より怖くて常に背筋が強張っていた。
……と言っても、これまで佐為から俺の碁に口出ししたことはなく、あくまで案という形で応えてくれてまで。
「スミを睨んでのここは?」
「そうですね。あえて言えば……」
といった具合に、きっと俺のセンスを認め、あくまで俺を尊重した上でのあえてだ。しかしそのあえては全てなるほどと唸るものばかりで、事実俺は一度も佐為に勝てていない。それでいて、最早この上なく研磨された碁に更なる色艶が加わる。そんな佐為の言葉は有難く、素直に耳を傾けていた。
だから、その恩にも報いたくて、俺の認める恩師の前で恥をかくわけにもいかず、その一心が大きく働いたことで粘りに粘ってねじ伏せたのだ。
「ありません――」
耳にした途端、ずっと強張っていた背筋が溶けるように緩んだ。ピンと糸を張り過ぎた五感がプツッと音を立てて切れた。同時に焚かれるフラッシュに思わず目眩がする程、数ヶ月に渡る対局の疲労が一気に押し寄せてきた。
眼鏡を外しても眩い光がちらつく中、連呼される「おめでとうございます」の声に少しずつ、漸く碁聖を手にした実感を得る。悔しさを噛み切れない相手の顔を改めて目の前に、今も背中に居るだろう佐為のホッと吐く一息を感じる。
俺もやっとの一息を、祝いの席と化したこの場で何を語る前に、そっと胸を撫で下ろした。しかし新聞も飾るだろう新碁聖の第一声は、よりにもよってあのクソジジイの登場に阻まれてしまった。
塔矢先生が引退したことで、次にこの国の頂点に立つのは己だと、そう釘をさすかの如くジジイが我が物顔で部屋に踏み入る。早くも癪に障る。案の定隣に腰を据えるとすぐ、目を剥いたいけ好かない顔で俺を煽ってきたわけだが、背中の彼もまた、私の側に歩み寄ってきた。
「実に素晴らしい、惚れ惚れするほど冷静で力強い碁でした」
こうして素直に讃えてくれる、この国の頂点より遙か高みから導いてくれる師が私には憑いているのだから、俺としても次こそは本因坊を獲るまでだ。
本因坊……こればかりは佐為のため、この出逢いを無為にせぬため、憎きジジイ共を誰よりこの俺が挫く必要がある。
俺は佐為の目の前で言ってやった。
「上座に座ってお待ちしてますよ」

その晩、俺は喜びを抱くより先に泥のように眠った。この時ばかりは碁の白も黒も捨て、携帯の電源もインターホンも切り、佐為のことすら忘れて眠りに落ちた。
翌朝、いや、昼過ぎに目を覚ましても佐為はちゃんと視界に居た。彼は一人で水槽を眺めていた。カーテンも閉めきった真っ暗な部屋で、こんなに放っておかれてさぞつまらなかっただろう、と頬杖をつくその顔を水槽の反射越しに案じたが、水泡の浮かぶその瞳はまた、あの日と同じ憂いを帯びて見えた。
俺と出逢ってはや一月、彼が一人きりの間思うのは虎次郎なのか進藤なのか、それともこうしている今も碁のことばかり考えているのか。
「佐為」
「ああ、お目覚めでしたか。昨日はお疲れでしたからね。まだ眠っておられても……」
「いや、もう起きる」
上体を起こしつつ眼鏡をかけ、ベッドを抜け出た俺はカーテンを開け、まずは浴室で体を流す。ダイニングで焼いたバゲットを囓り、そして一服をと手にする前に鞄から手帳を取り、スケジュールを確認した。
「本因坊に名人戦……ん? 確か……」
そういえば、と思い出したのは名人戦一次予選の一回戦だ。俺には無関係だが、確か進藤とアキラの対戦がある。が、生憎その日は別の予定が入っていた。
「佐為、実は今度……」
部屋に戻りそのことを告げるが、佐為に落ち込む様子はなかった。
「ヒカルは何より喜んでいるでしょう。きっと、心待ちにしていることでしょう」
瞼を閉じ、穏やかに進藤の心を思っている。……そう、進藤と離れた今もこうして彼の行く先を見守っている。それなら、と俺は申し出た。
「昼間は出かけるが、夜なら空いてる」
きっと二人の想いが通じたなら、あの旅館の夜と同じように夢枕に立てるかもしれない。だからその対局の夜、進藤に会わせてやろうと思う。
「いいんですか? 本当に? やったぁ、ヒカルに会えるー!」
厳かな装いのまま笑みいっぱいにはしゃぐ様は何度見てもまるで子供だ。進藤と日々を共にしたからか、それとも元々天真爛漫な性格なのか。入水自殺に至るほど思い詰めた頃の彼は、すでに遠い過去のお伽話として奥底に封じたのか……。
「それと佐為、すまないが、今日明日は石を触りたくない。気分転換に出かける」
「ええ。まだ暫くお休みください。これも次の手合いのためです」
俺はまだ、佐為という人物をあまり掴めていない。というより、どことなく佐為の遠慮が見える分、まだ密な関係を築けないでいる。大人同士の程よい関係、という俺の理想が佐為にも見えているのだろう。取り憑かれるという状態に最初は戸惑ったが、察しのいい幽霊で寧ろ助かっているのが現状だ。
携帯を手にした俺は女の在宅を把握、着替えを済ませ、車を出した。