そうして……


取り憑く、というのはつまり幽体が常に俺の周りを浮遊する。その姿は俺にしか見ることが出来ず、触れたところで何の感触もないが、人として別々の意思を持ち、日本語での会話が成り立つ。ジェネレーションギャップならぬ時代錯誤は否めぬが、それが誰もが知る碁の師匠とあれば、まあ優秀なペットといったところか。……いや、碁の神様にそれは失敬だ。取り憑き先に俺が選ばれたことを今は感謝すべきだ。
それにこうなってしまった以上、別れが来るその日までは見えない相方として、仲良く付き合っていくべきだ。早くも慣れない違和感と微妙な窮屈さを感じるが、こうして佐為が憑いたメリットは殊の外大きいだろう。
……と一人頷きながら車を出せば、当然の如く同乗した佐為が隣で高らかな声を上げた。
「わ! わ! すごい! ああ抜かされるぅ〜」
「もしかして、車は初めて?」
「ええ。わ! こんなに速く景色が流れていくなんて!」
資料室での様子とは打って変わり、助手席の窓に張り付いた佐為は目をキラキラさせる。子供のように興奮すると同時に、今俺の心臓も大きく脈を打った。もしかしたら、取り憑いたことで心が共鳴するのかもしれない。
そんな佐為に一つだけ……
「進藤は、あの後手合いの無断欠席を続けていた。が、さっき聞いてきた。進藤は復活したそうだ」
佐為は今、大きく胸を撫で下ろしたところ。伝わってきた安堵は、これからもまた碁が打てること、今度は俺を通して進藤の成長を見守ることが出来ることを、確信したものだろう。狩衣の裾まで染み付いた憂色は、絶え間ない景色と共に流れ去ったようだ。

マンションのエントランス前でテンキーボックスにナンバーを打ち込み、エレベーターに乗る。十階で降り、右へ真っ直ぐ、そして再奥のドアを開けた今も、後ろからそわそわした様子が伝わってくる。
そんな彼を部屋に通せば、彼が真っ先に飛び付いたのがデスク上のパソコンだった。
「あ、この箱、貴方の家にあるのですね! この箱で対局が出来るなんて、本当に不思議ですよね〜」
そのすぐ側に置いた灰皿の吸殻が目に入るや否や微かに顔を歪め、今度は部屋の奥へ、熱帯魚のいる水槽に飛び付き、ひしと張り付く。
「やはりいつ見ても謎ですよねぇこの箱。この美しい色の魚は初めて見ました。新種ですかねぇ」
「ああ。あとで説明してやる」
俺はデスクにある灰皿とコーヒーカップ、ついでに洗濯物を片付けつつ、一人ベランダで一服した。
僅かだが三メートル程ならこうして佐為と離れることが可能なのだ。納得すると共に、離れたことで今一度現状を整理し、暮れつつある西陽に向かって煙を吹き付けた。
ジャケットを脱ぎ部屋に戻れば、その人は部屋中央の碁盤の前で正座していた。しかしながら碁石も持てない、盤を睨むだけの彼の前に対座すると、「今度は私が白を持ちます」とすっかり挑戦的なのはすでに一局交わしたからか。
記憶は定かではないが、あの旅館で相当酔った俺と打ったのは佐為だと、資料室で本人が言っていた。
saiと打たせろ――――。
執拗なほど、形振り構わずぶつけた願いに進藤も応えてくれたわけだ。事実佐為が言った。
「酔って朦朧とした意識の中、あれだけの碁が打てる貴方はかなりの打ち手ですね」
「褒め言葉か? 佐為に認められるとは、俺も相当だな」
つまり、今日はシラフである俺の真の実力を見せる時……リベンジだ。相手が幽霊であれ神であれ手を抜くつもりはない。塔矢行洋との対局並みに楽しませてやりたい。劣らぬ碁を打ちたい。
しかしそんな余裕を持つ以前に空気は一変、あの幽玄の間とよく似たピリピリとした緊張感に襲われる。即ち本物…………いざ碁盤を囲ってみて初めて触れたこのオーラ。白檀に似たこの高貴な香り。つい石を持つ手が震え、俺は黒を置きつつ、緊張を解すべく問いかけた。
「ところで、例の旅館で酔った俺と対局した後、佐為はどうしてた?」
「確か、ヒカルについて別の部屋へ。床に就いたヒカルの傍で大人しく座ってました」
……ということは、あの夜見た霊は佐為ではなかった?
扇子の先端で差された小目に白を置き、共に無難な布石を形成しつつ考える。
虎次郎や進藤の実例からいえば、明日にもsaiが消えてしまうわけでもないのだろう。負けてもまたリベンジ出来る。俺はあの夜の正体を探ることで、残る謎を解消しようとした。
「実は、あの後君の姿を見たんだ」
「え……? 私を……ですか?」
「夢か現かは曖昧なところだが、俺は確かに見た。今となんら変わらない、目の前にいる佐為、君をだ」
「そうですか……。それは私にも存じ得ぬところですが、もしかしたら、今日貴方に取り憑く前の予兆というものでしょうか」
「なるほど……。ただ、あの時君がいつまでも碁盤を撫でていた姿が今でも頭に残ってる。鬱々と溜息吐くから、つい問いかけてみれば、君は今日と同じ目で俺を見てた。これまでの経緯を語る君の、碁が打てなくなる、進藤と離れてしまうことを憂う目だ。……気付けば布団に寝ていたから、やはり夢かもしれんがな」
「確かに、私はあの日、自分が消えることへの不安と悲しみに暮れ、ヒカルの前でも卑屈になるほど気を落としていました。碁盤に触れるどころかもう見ることも思うことも叶わない。そう思うと、千年という時はあまりに短く、せめて最期に、石と盤に触れておきたかった。ヒカルの寝顔を見つめながらそんなことを思っていました」
改めて、目の前で零された佐為の憂いはやはりあの夜見たもので、もし本当にスピリチュアルな世界が存在するなら、二人の想いが引き寄せ合ったのかもしれない。……と思うのは少しロマンが過ぎるが、現にスピリチュアルな世界がこうして存在している。
「俺はその日、いや前々からsaiと打ちたい、saiの正体を突き止めたいと強く願ってきた。もちろんネットでsaiを知った誰もが思うことではあるが、進藤がちょこちょこヒントを零すものだから諦めきれなくてね。正直、いずれ進藤を縛り付けてでも吐かせたいと思ってたから、こうしてsaiの名も姿も想いも知って、盤を囲える日が来るなんて夢のようだよ」
何も幽霊に臆することないと、口説き文句に似た本音を漏らせば、佐為は少しずつ表情を和らげ、今や屈託のない苦笑を零してくれた。
「ヒカルを縛るだなんて、貴方ならやり兼ねませんね。その粘り強さと言いますか、折れることのない強い意思が碁に表れています。何よりこれだけ別のことを語りながらもなかなかキレのある碁……嬉しいじゃありませんか」
……と、佐為が笑っていた。俺の碁を喜んでくれた。それに値したことへの嬉しさに加え、石を打ちながら零す不敵な笑みに、俺の胸は高鳴った。また、心が共鳴したようだ。
まだまだ信じ難いこの不思議な出会いに今宵祝杯を上げたいところだが、佐為が酒を飲めないなら碁で祝うのも悪くない。
「さて、今日は徹夜だな」
「えっ? 夜に御用が?」
「いや。せっかく佐為の願いが叶ったわけだ。碁を打ちたいという」
「徹夜でお相手してくださるのですか? それは大変ありがたいのですが、貴方の身体のためにも夜はお休みになってください。二局目はまた明日、明後日でも結構です」
俺も今日は疲れた。突然幽霊が取り憑いたのだから当然だが、この不確かな状態がいつまで続くかはわからない。今消えるわけでもなさそうだが、それについても話しておこう。
「明日、明後日の、その明日が来なかったらどうする?」
忽ち青褪める佐為はもう忘れていたのだろうか。出会いがあれば別れもあること。その別れをつい最近、再び迎えてしまったこと。
「虎次郎、もとい秀作の場合、彼が死を迎えたことで君は共に消えた。進藤の場合、塔矢先生との対局から至高の一手を見出したことをきっかけに君は消える不安を抱き、案の定消えてしまった。そして今度は俺だ。俺に該当する条件とは何だと思う?」
「さあ……わかりません」
これが最後の疑問だった。碁の神様が佐為とは別にいるとして、その神が佐為を現世に導いているとして、虎次郎は佐為の碁を再び世に送るため。進藤はその幼い原石を磨き上げ、現世の碁に新たな風を巻き起こすため。つまりは碁の未来のため、といったところか。つまり、俺も碁の未来のために一役買うことになるのか。……いや、今一つピンとこない。だって俺は…………
「佐為。言っておくが、俺は佐為にsaiとして打たせてやることはあっても、俺は俺だ。虎次郎の真似は出来ない」
「ええ、それは勿論。貴方の立場上難しいことですし、貴方の気持ちもお察しします。何より貴方の碁はもう貴方の碁として完成されてる」
「俺は碁聖戦の決着も控えてる。無論、君の指図は受けない。君の力が本物なのは言う間でもないが、この碁もすでに俺の負けだが、緒方精次の手合いは緒方精次の碁で勝たなきゃ意味がない。……だが、手合いを終える毎に誰より君の検討が聞きたい。君の教えは請いたいと思ってる。詰まる所、俺の師であってほしい。こう願うのは、勝手かね?」
「いいえ。色々な相手と打ちたいのは山々ですが、あなたの家にはこの箱がありますから、手隙の時で結構です。またネット碁をさせてください。出来ればまた、あの者と打ちたい。それと、ヒカルに会えれば……」
見えない期限がありながらも利害の一致は重要で、俺の望みを優先する分、佐為の望みにも出来る限り応えてやりたいと思っている。それが俺に出来る精一杯の優しさだ。
「わかった。約束する。碁聖戦を終えたら、一度進藤の許へ連れてってやろう」
すると佐為の顔は一段と明るくなり、その眩い笑顔のまま、決めの一手をぶつけてきた。
「ここまでか……負けだ」
抜かりなく……とは気張ったものの、俺以上に佐為は本気じゃなかった。実に、これは俺の力を見るための碁だ。この勝負でそんなことが出来る棋士は佐為の他にないだろう。やはり、本物――――。
「……そうだ。進藤が見つけた至高の一手とやらを教えてほしい」
きっとこれを知ったことで佐為はまだ消えないと睨んで。見えない地雷を探るのは、その一瞬一瞬が賭けでしかないのだ。
「……塔矢行洋はここに打った。しかしこの前に、ここで隅にオキを打てば……」
「なるほど。白はオサえるしかないのか!」
俺は感動とともに戦慄を覚えた。進藤の許から佐為が去ったことに納得だ。これだから成長が早いのかと、進藤に僅かばかりの嫉妬すら抱くが、すぐにその必要がないことに気付いた。
「碁聖戦の決着まであと僅かだ。だから佐為、それまでの間、何度でも俺の相手をしてほしい」
「ええ。望むところです」
それから、俺は暫く煙草を手放した。