その日……


それからのこと。唐突な進藤の欠席に囲碁界は揺らいでいた。なにも一時の迷い、辞めるならそれまでだと案ずることこそないものの、saiの謎を追う一人として奇妙に感じていた。が、今の俺は目の前の碁聖を掴むことに余念がない。運命の第五局を控え、自宅に籠り碁盤の前に座り込む日々を送っていた。
顔も少しやつれただろうか。周囲との接触を断ち、風呂や食事を忘れ、白と黒の攻防にどこまでも頭を支配される中、ある日棋院から連絡を受けたことで漸く碁盤を離れるに至る。
スーツに身を包み、久々に外の空気を吸い、棋院に立ち寄った、その日のことだった。
これまで熱くも淡々と囲碁を中心に回っていた俺の人生に、きっと運命そのものに、更なる強烈な光が強く衝き射したのは――――。

「いやぁ、忙しい碁聖戦の合間に呼び出してしまって、申し訳なかったですね」
「碁聖戦の疲れでしょうか。緒方先生、目がかなり窪んでますよ。それに少し痩せましたか?」
棋院内では会う人会う人、碁聖戦へのコメントに加え俺の様相を労ってくれる。
やっと別の話題が上がったのは、廊下を進む俺の後ろを付いてくる、とある棋院内部の者からだった。
「そういえば、進藤くんがやっと手合いに顔を出しまして、今のところ負けなしですよ」
その名を耳にするなり、復帰を知るなり、我ながら妙なしたり顔が溢れかけた。最初はアキラのライバルとして、今は一人の棋士として期待していた分、心の底では人一倍気に掛けていたのだろう。こども囲碁大会での不用心、且つ究極の口出しをきっかけにその実力を密かに注視、今では共に仕事もした仲だ。情がないわけでもなかった。
そして、次に明かされた不思議な出来事に何かが大きく引っかかった。
「実は……進藤くんが休み出す前、一度慌ててここに来たことがありましてね。何かオバケが出そうな所はないですか? なぁんて言うんですよ。それなら是非と資料室を案内して、そして私だけ出てった後のことなんですが……」
……暫くして突如、資料室から泣き叫ぶ声が聞こえてきた。慌てて階段を上がれば、部屋から出てきた進藤はすっかり項垂れ、声をかけても何も語らず、両頬を濡らしたまま悄々と帰って行ったという。
「それからなんですよ、進藤くんが休み出したのは。そのことがきっかけかはわかりませんが、きっと、彼なりに色々あったんでしょうね」
……とここまで聞いて、取り乱しそうになるほどひたすら胸がざわつくのは、そこにsaiの存在が散らついたからに他ならない。直感でしかないが、以前見たあの幽霊がsaiだという確信もないが、それが進藤とは別に独立する存在として、二人の間に何か遭ったのでは……。
「ちなみに、なんと泣いてました?」
「わーっと急に泣き出した感じだったけど、その前に、打たせてやればよかったとか、時間を戻してーとか聞こえたかな? いや本当にそう言ったかはわかりませんがね」
何故そんなことまで……と問いた気な関係者に見つめられながら、俺の推考に合点がいったことで俄然、年甲斐もなく焦燥に駆られてしまった。
「で、その資料室とは?」
恥ずかしながら棋院の資料室なる存在を知らなかったわけだが、彼は終始訝りながらもそこへ案内してくれた。
そりゃそうだ。進藤がよくて俺がダメなわけがない。
廊下奥の角の扉を開け、その狭い個室に入室してまず、俺は「ほう……」と感心の声を漏らした。詰まりに詰まった本棚から一冊を手にすれば、それだけで囲碁の歴史を肌で感じられるほど、保護収蔵すべき棋譜がここに全てあるのだから驚きだ。そのまま囲碁の博物館といったところか。
「じゃ、鍵をお渡ししますので、終わりましたら戻してください」
関係者が去ればこの空間には俺一人。古きは忘憂清楽集から、なるほど本因坊秀作もある。棋譜そのものは勿論何度も見て並べたものの、ここまで古い冊子は手にしたことがない。紙こそ古く脆いのにしっかりと糸かがりで閉じられ、今もこうして読めることに感動を覚える。手にして触れているだけで当時の空気が漂ってくるような、懐かしさに焦がれる気持ち。きっと、先に触れた進藤もここで同じ気持ちを抱いただろう――――。
……いや、違う。進藤は他に目的を持ってここへ来たのだ。オバケが出そうなところ……つまりオバケを求めてここに通され、きっとそのオバケに関する何かを得て、そして泣いた。
つまりオバケはここにいる……? そのオバケとは…………?
『本因坊秀策が今の定石を覚えたら……』
いつからか誰からか、そんな台詞を耳にした。同じ考えが過ったのは三度ほど。一度目は塔矢アキラ対sai、二度目は塔矢行洋対sai。そして旅館での俺と進藤との対局。……つまりsaiだ。
そもそも俺は、オバケなどという理屈で証明できないものを信じる質ではない。よってsaiは病気や何らかの事情で表へ出られない人物であると睨んでいた。
ここにある資料のような、昔の古い定石ばかりを学んだ上で他人との手合いを避けて育ち、進藤と出会ったことで最近になってネットを覚え、現代の定石も忽ち身に付けた。
しかしそんな僅かな対局であそこまで腕が立つとは思えず、突き詰めれば矛盾もあり、それが最も現実的な推察というに他ならない。
では仮に、saiが本当にオバケだとしよう。元来オバケとは故人であり、きっと進藤の言うオバケもそれに当たる。つまり過去の人物で、剰えそれはこの資料室に居て、且つ、この資料集に名を連ねるほどの碁打ちだとすれば…………
「本因坊秀作――――!」
saiの手筋、秀作の手筋、そしてあの夜のあの香り…………
今、全てが色濃く繋がった気がした。
気付けば秀作の棋譜ばかりを机に並べ、椅子に腰を据え、あと少しで掴めそうな何かを得ようと専ら棋譜をなぞった。
途中扉のノックが、俺を呼ぶ声をドアの向こうに聞いたが、今は碁聖戦のことも頭から消え、こくこくと刻む時も忘れ、秀作とsaiを結び付けることに念を注いだ。
そして、俺は遂に見つけてしまった…………。
とある棋譜を開いた瞬間、正に八方を見据えた見事な一手に暫し指が止まる。同時に、奇しくもそこに滲む淀んだ染みを見つけた。きっと泣いた進藤の涙だと察するが、まるで染み付いたのがつい先程であるかのように色濃く残っている。……いや、だんだんと染みがはっきりと広がって見えるのは気の所為なのか。
……するとまただ。あの夜と同じだ。正面からこの世のものとは思えない奇妙な気配がして、あの香りが漂ってきては確信を抱かずにいられなかった。
「sai…………!」
はっと頭を上げれば、やはりあの人がいた――――。
夢ではない。夢じゃないと現を知ろうと顔を横に振る。一度眼鏡を外しそれを拭き、また正常な視界を戻す。耳を済ませば扉の向こうの声も僅かに聞こえるのだから、夢じゃない。今日は酔ってない。即ちこれは…………
「現、実……?」
日中でも幽霊は見えるのかと、俄然冷静になった頭で考えていた。しかし今目の前にいるその人は、saiは、虫の垂衣の内側にあの夜と同じ烏帽子と白い狩衣を纏い、閉じた扇子を両手に持ち、うっすらと濡れた瞳で垂衣越しに、悩ましげに俺を見つめている。何か言いた気な目で真っ直ぐに俺を見つめ、悄然としつつも何かに驚き、何かに恐れていた。そう、俺には見えた。
「君が、sai……?」
自分でも驚くほどの優しい声音で問いかけた。幽霊が見えることへの驚きはあとで、まずはこの目で窺えるほどの、saiの恐れだけでも解いてやりたかった。
saiは、問いに答えてくれた。
「はい……」
凛とした形からの女々しい声で、今尚俯きながら……。
それならもっと、暖かく懇切に振る舞い、その哀しみに触れる前に、まずはしっかりと確認しておこうと思う。うっかり消えてしまう前にその正体だけでも掴んでおきたかった。
「君は、本因坊秀作?」
「いいえ」
「名前は?」
「藤原佐為、と申します」
「sai……か。なるほどな。君は、進藤ヒカルを知ってる?」
「はい」
「進藤との関係は?」
「おそらく師匠と弟子、そして友達……でした」
「でした?」
意味深長な過去形を質した途端、それまで僅かな間を置いての慎重なテンポは途切れた。口を噤んだ佐為はその紫の唇を噛み締め、遣る瀬なさそうに項垂れていた。
師匠と弟子、そして友達であった関係がなんらかの形で解消されたということだ。それを進藤と佐為の両方が憂いていることから、互いに不本意であったということ。
「進藤とは、何故……?」
多くを含んだ問いかけに、佐為は憂鬱を噛み締めつつ、視線を落としたままゆっくりと、入水自殺に始まる平安時代から進藤と別れるまでの長い経緯を語ってくれた。
要約すると、彼は死後、虎次郎もとい本因坊秀作の前に現れ、彼の病死後は進藤の前に現れ、そして…………
「役目を果たし、とうとう消えたと思った私でしたが、何故か存在していました。きっと、ヒカルが私を、私も自分自身を見えなくなっただけで、魂はこうして存在していたのです。私は失意に暮れるヒカルが心配な上、囲碁そのものにもまだまだ未練があり、暫くはヒカルの近くに居ました。いっそのこと、ずっとこのままヒカルの傍に……そう思いましたが、ここでヒカルが神に祈ったその時でした。私は遂に、この場で尽きてしまったのです。虎次郎の血と共にあの碁盤を離れた私は、今度はこの棋譜に、私の心と深く共鳴するヒカルの涙と共にここに宿りました」
そして、今はそれに触れた俺の前に……
「何故、俺なんだ?」
「それは私にもわかりません。ただ、囲碁における私の役目が終えたのことは確か。ヒカルは、私とあの者の勝負から至高の一手を導き出しました」
「あの者とは……?」
「塔矢行洋」
「なるほど……」
パズルの如く辻褄がピタリと嵌っていく様に何とも言えぬ手応えを得る。始まりはそう――こども囲碁大会での口出しを咎められた進藤との出会い、つまり佐為とはすでに出会っていた。あの口出しこそ佐為の声だったのだ。
そんな佐為の方からも、歩み寄る声が投げかけられた。
「貴方のことも、私はよく知っています。ヒカルを介して幾度とお会いしました。私とあの者の対局が叶ったのは、貴方が何かとヒカルを気に掛けて下さったおかげだと思っています」
「そりゃあ、こども大会でのあの口出しは、まず子供の為せる技じゃない。……フッ、嬉しいよ佐為。俺はすでに君を見ていたんだ。初めて見たのはアキラか。俺は……その後か?」
「ええ。貴方は塔矢アキラの次に、ヒカルの中の私を覗きました。同時にヒカルのことを認めてくれたことには何より感謝しています。今思えば、あの日、貴方との対局が叶ったことで些か恩に報えたなら……。病院での貴方の思いに応えたつもりでした。貴方は相当酔っておられましたが」
「俺との対局……そうか。やはり、あの夜なんだな。やはり打っていたのか、saiと……。いや、佐為と……! フフフ……ハハハハハ……!」
正に今も酔っているような感覚で笑い声を発さずにいられない。沸々と沸き上がってきた実感が漸く喜びと繋がる。だって嬉しいじゃないか。俺がsaiを見ている傍で佐為も俺を見ていた。酔っていたのが悔やまれるが、それでもあのsaiと……いや、パソコン越しではない本物の佐為と盤を囲ったわけだから。
また、虎次郎やヒカルに幽霊として憑いていたことで、この先俺にも憑いて回るものだと推測する。よって、進藤が答えたという至高の一手を知ることも可能だ。あの勝負に一体どんな隙があったというのか……十段持ちとして気付けなかった自身を恥じたい。
「佐為、俺はこれからここを出て家に帰る予定だ。今度また対局があるから、早く帰って打ち込みたい。つまり……あの夜のリベンジといきたい」
そう言うと、垂衣の前を両手で開いた佐為はやっとその顔を見せてくれた。やはり、あの夜と同じ顔だ。そっと静かに持ち上げ、目を閉じて微かに笑った。早く打ち込みたい、そう伝えた瞬間だった。