あの夜……


練達な打筋……
そうだ……まるで……

saiと打ったような……。

sai……
saiって、何者だ……?

今更考えたところでもう何も掴めそうもないと、半ば諦めてはいたが、それは進藤の影に隠れつつちらちらと尻尾を出すから、追わずにはいられなかった。
saiと塔矢先生の対局があった翌朝、進藤が明らかにsaiの代弁を図っていたことから、塔矢先生との対局を持ちかけたのもおそらく進藤。進藤とsaiに繋がりがあるのは間違いない。
無論、進藤がsaiであるわけでもない。若獅子戦で見た碁も然ることながら、打筋から漂うあの凛と雅やかな香りは進藤の為せる業じゃない。匂いが違う。ある種のセンスというか、滲み出るオーラを手筋や特有の間から感知できるほど、俺の感性は育っていた。そして、それは子供相手に取り乱すほど俺を駆り立て、心を奪っていったのだ。
神の碁をsaiに見て、加えて何か、決して素性が漏れぬことへの神秘性に焦がれて……。
先程もそうだった。対座した進藤の背後からともなく、微かな白檀の香が鼻腔をくすぐったのは気の所為だろうか。進藤の打つ一手一手に扇子の先が散らついたのは、相当酔っていたからか。
気付けば布団に眠っていたらしく、今、酷い頭痛に唸されながら上体を起こしたところ。重い頭を支えつつ今一度静かに唸り、なんだまだ夜か、と辺りの暗さを瞼の向こうに察した。
上半身を擽る心地よい夜風の涼しさは、視線をやれば広縁の窓からだ。窓が開いていた。開けた覚えなどないが、進藤が酔い覚ましにでも開けておいてくれたのだろう。……いや、そんなことをされても風邪をひくだけじゃないか。ということは、俺か……?
生憎記憶はないが、隣で布団を蹴散らして眠る芦原の身も案じ、起き上がった。重い額を支えながら、碁盤のある広縁へとまるで誘われるように歩み寄ったのは、ふと、先程の香りを仄かに感じたから。ひらひらと風に靡くカーテンから、あの凛と雅やかな空気を直に触れた気がした。
気の所為――――ではなかった。
窓を閉め、唯ならぬ気配を察したのは直後、慌てて振り返った背後に俺はその人を見た。――――いや、いらっしゃった。
潤沢を帯びた長い黒髪とその高貴さを誇る烏帽子。平安の白い狩衣。そして、まるで蝋で仕上げたような端麗な横顔。
丁度進藤が座っていた席に腰掛け、袖から覗く真っ白な指先で碁盤に触れていた。何度も何度も、指の腹にその感触を刻み付けるよう路を撫でていた。
「sai…………」
確信を持つ間もなくそう発していた。俺の中の感性がそう断言したのだ。
sai……彼は幽霊だったのかと、知ると同時に目を背くことも出来ず不様に狼狽え、窓に背中を貼り付けることで僅かな現に触れた。それだけで精一杯だった。
……そうだ。芦原は、芦原を呼ぼう、と捻り出した声は震える喉奥に潰される。湧き立つ動揺と畏怖に鼓動が高鳴り、声にならない声で専ら助けを求めていた。
しかしそんな俺に見向きもせず、saiは一つ、深い溜息を落とす。憂鬱な視線をただただ碁盤に注ぎつつ、今尚碁盤を愛でている。
直感で察した。saiは今、誰かと碁が打ちたいのだ。そう思えば忽ち芽生えた親しみから僅かに恐怖が遠退いた。それでも尚恐れながら一歩を踏み出し、俺はsaiの正面に対座した。
「sai……」
呼びかけると、その人は僅かに顔を上げた。同時に、真正面から俺を射抜く眼差しは、凛と涼やかな夜をそのまま映したその瞳には、確かな意思が孕んで見えた。
ああ、生きているんだ、と感じたのは、実に鬱々しい顔色からその心を覗かせてくれたから。僅かに眉根を寄せた物憂いの色。今確かにこの目と鼻の先に、眼鏡のないこの裸眼に見る、いと儚き美しさ……。
ぐっと息を呑んだ。そして思わず触れてしまった。ずっと碁盤に貼り付いていた右手を、そっと両手に包んでみた。ひんやりと柔らかい……それでいて溶けてしまいそうな、不思議な感触をなぞりながら、saiに尋ねた。
「碁が、打ちたいのか……?」
その人は紫の唇を噛み締め、コクっと頷いた。
そして、消えてしまった――――。

たった今、俺は目を覚ましたようだ。室内はあの窓から朝を取り込み、奥では芦原が歯磨きをしていた。
つまり、夢……?広縁には誰も居らず、窓も閉まっている。
それにしても妙に現実味があるのは、今もこの両手にあの香りが、あの感触が残っているからだ。それにやけに胸がざわついて、一服しても落ち着きそうにない。一っ風呂浴びて眼鏡をかけても自らの視界を疑ってしまう。
こんな二日酔いがあっていいものか。あれがsaiでないとしたら、一体どこの誰だったのか。こんな経験は、生まれて初めてだった。