pure white

トイレ、貸してくれって。
さっきバイトから帰ってきたらうちのアパートの前に居たんだ。もう真っ暗だってのに、ジャージでスポーツバッグ背負ったまま真っ青な顔でウロウロしてたから、どうしたんだって声掛けたらさ。自転車パンクした上に催したって話。ちっとは期待したのによ。
「まあちっと話でもしようぜ?」
水の流れるトイレから無言で玄関へ直行する背中に向かって、流川楓を呼び止めた。
「一応同級生なんだし、ちっとは互いを知りましょってな」
下心など微塵もない善意の笑みを貼り付けてやったってのに、振り返ったその顔は俺のアタマを案ずる顔だ。スカした視線で見つめてくれる、まあいつもの流川だった。だがトイレの礼がこれか? 無愛想も結構だが、ちゃんと礼くらいしてよ流川。
「まあいいから来いよ」
そう言って、スニーカーへ足を突っ込む流川の背後に立った。ジャージの片腕を掴んでは優しく引き寄せたつもりだ。そしたら思ったよりやらかいんだ流川の腕は。隆起した筋肉もなんつーかしなやかで、なんつーか、さ……
流川は舌打ちしながらも踵を返してくれた。差し出したスリッパを履きながらかったるそうに上がってくれたから、簡素で狭いリビングながら丁重にもてなすつもりだ。
「何飲む?」
無言のテレビの手前にある二人掛けのソファに着かせ、見たままの不機嫌を窺えば、「いらねぇ」だから早く帰してくれ、と言わんばかりのふてぶてしさ。あの可愛気ない目で背もたれに深く背中を預け、無駄に長い脚広げて。
「じゃあ、酒でも飲むか?」
正面からにっこり伺えば、流川は煙たそうに顔まで背けてまたも舌打ち。目も合わせてくれない有様だ。
「冗談。コーヒーでいいな」
無言の返事に、かしこまりましたと奥のキッチンへ、俺は大人しくすっ込んだ。
そしてわざわざコーヒーサーバー使って磨き抜かれた極上の一杯とやらを淹れてやった。コポコポジョボジョボ地味にドリップ。コクとキレのある上質な芳ばしさ……ってね。んなもん苦いだけ、俺は大っ嫌いだ。
後ろのリビングは案の定静かだから、いくら耳を澄ませても機械の音しか聞こえない。流川、大人しく待ってくれてる。
やがてフィルターがカスで溜まったら、あとは隠し味に俺の想いを一つ。純粋な愛を気持ち悪い程に込めてグルグルに混ぜた。
大好きだよ流川…………なんて、無神経なあの男にそんな気持ち届くわけないから、もう一つ混ぜてみる。少し味が変わったところで気付かないのがあの男だ。
そうして出来上がった一杯を、苦味立つ大人ぶった香りを退屈する流川の前へ、ローテーブルの上にを置く。そしてもう一つをその対面に置き、俺もソファに落ち着いた。
すると突然流川の見開いた目が俺のカップを凝視してくる。
「……なに?」
膝に着いた頬杖から見上げれば、若干身を乗り出した流川は俺のクマちゃんカップを、中の真っ白なホットミルクをまじまじと覗き込んでいた。礼儀を知らない切れ長の目が俺とミルクを上下に見やり、まるで俺を馬鹿にしてくれた。
「オイ……飲んでも身長伸びねぇぞ」
「何? 心配してくれてんの?」
嬉しそうに言い返すと、ドカッとソファに凭れた流川は再び不機嫌。そっぽ向いては露骨に苦々しい片頬を覗かせる。
これだからどあほうの友達は……なんて思って呆れてるんだろう。流川からしたら俺は花道の取り巻きでしかない。俺をまともに視界に入れるのは今日が初めてってとこだろう。
けど、それで嫌われるのも寂しいから、俺は調子良く言ってやった。
「なんだかんだ言って、これまでバスケ部覗くたんびに流川のことも見てたんだぜ。流川のこと、結構知ってるつもりなんだけど」
偉そうに上から目線で、取ったカップに口付けながら、俺は俺の知る流川楓を目の前で口にした。ずばり……
「オメェ、案外花道嫌いじゃねぇよな?」
「興味ねぇだけ」
って、興味なさ気に透かさず返ってくるんだからそういうことだ。
「はは、じゃあ何なら興味あんだ?」
「何も」
「無趣味ってか」
そうからかってすぐ、見事会話は途切れてしまった。時間にして一分保たない。本当に顔とバスケだけなんだこの男は。
俺はその端正な顔を薄目で見据え、少しだけその将来を案じてやる。同時に一つの確信を抱く。
甘いミルクを啜り、深く背を屈めそれとなく……
「なぁ流川ってさ、童貞なの?」
流川はカップへ伸ばした手をそのままに、無表情に徹していた。
「知ってどーする」
そうカップを唇へ寄せるまでを見守ってから。
「どうもしねぇ。馬鹿にする気もねぇ」
「童貞」
「はは。よし、一万ゲット」
ニカッとガッツポーズを見せた途端、カップを戻した流川は突然立ち上がった。中のコーヒーが波打って、飛び散った数滴がテーブルへ落ちた。
「嘘だ。悪りぃ。冗談」
冷静に宥めれば、流川は苦り切った顔で再び黙って腰を降ろす。今日数度目の舌打ちをする。
「まあそう怒んなよ。俺は流川と仲良くなりてぇだけなの」
可愛らしく愛嬌たっぷりに言った、ティッシュで台を拭いながらの俺からの愛の告白。
「断る」
無神経を疑う音速の回答。
「はは、流川は男も振るってか」
「帰る」
「まあ待てって」
とうとう席を立った流川をまたも宥め、そしてフンッと冷たい鼻息で腰を下ろした流川に俺のクマちゃんカップを差し出した。
「飲むか?」
プイッと明後日を向いた横顔へ、「カルシウム採れよ」と付け足せば、それはますます苦り切る。カルシウムには苛々を抑える成分があるんだから、俺を見習って毎日飲めばいいのに。
俺は手付かずのコーヒーに目を落とし、「まあ少し飲んで落ち着けよ」言ってゆっくり足を組むと、流川は漸くカップを手にした。
「キスくれぇならあんのか?」
傾けたクマちゃんカップの向こうで、コーヒーを啜り損ねた唇から湯気より白けた溜息が零れる。
「ないのか?」
「ねぇ」
「流川ってAV見んの?」
「持ってねぇ」
「貸してやっか? こればっかしは友達いねぇとなかなか回ってこねぇかんな」
「いらねぇ」
「なんなら女紹介してやってもいいぜ」
「うぜぇ」
とうとう皺が刻まれた鼻筋、否定しか吐かない無愛想な唇…………ああ、なんて可愛くない。
俺はカップをコトっとテーブルに置き、今一度じっとりと見据えた目で至極真面目に問い質した。
「流川ってさ、まさかあっちなの?」
何だそれとばかりに持ち上がった鋭い瞳へ。
「男のが好きかって意味」
「キメェ」
忽ち顔を歪めた流川は俺を汚物を見るような目で見つめてくる。
「にしても疑わしいよな。あんなに女擦り寄ってくんのに、お前本気で興味なさそうだし」
右の口角を持ち上げ、俺はニヤニヤと本音をちらつかせた。
「今は興味ねぇ」
「今はって、思春期いつだよ」
思わず噴き出しちまったわけだが、この場はまたも沈黙に返ってしまった。暗い窓の外すら無表情で、車の一台も通ってくれない。時計の針ですらやけに静かだ。
ハァ、もうはっきり言って面倒くさい。俺もう充分気ー遣ったっしょ? ツンデレもツンばっかりじゃ萎えるって。せっかく淹れたコーヒーだって一口も飲んでくれないし、酷いよ流川……
俺は遂に立ち上がった。流川の側へ歩み寄り、忌み嫌う視線と無言の隣に無言で腰掛けた。何事かと睨む目の前で、俺は自分の白シャツのボタンを一つ外す。はだけた胸元を覗かせつつそっと間近へ詰め寄る。目には目を、無言には無言で挑発したつもりだ。
不気味がって退く間合いをジワジワと詰め、膝で跨いだ俺の下には歪む表情が陰る。それでも後ろ手に後退、背を傾けては可愛く怯える流川は眉根を寄せ、覚束ない眼差しで徐々にはだける俺の胸元を見つめている。そのまま徐々に青褪める顔を俺はじっとりと淀む瞳で睨み据え…………
「なあ流川、俺の金賭かってんだ。なんなら証明してくれよ。男に興味ねぇってさ……」
力いっぱいに腕を掴み、開いた股間へ膝を割り入れ、奥の膨らみをそっと突ついた。

程なく、バタンッ──と勢いよく閉められた玄関。階段を駆け下りる足音が外から響いた。
……な? そういうヤツだっつーのも知ってる。ぜってぇ釣れないの。とてもとても、手に負えない。
フッと鼻で笑ってから、俺は手付かずのカップを手にキッチンへ。俺の真っ白な純心にそぐわない、苦くて嫌いなコーヒーを流しに捨てた。
そして捨て忘れた錠剤のカラを二つ纏めてゴミ箱へ、左手を添えて投げ入れる。
「とりゃ! 三点シューッ!」
ああ勿論ミスったさ。