full moon

入浴後、部屋に戻った途端、僕は言いようのない寂しさに襲われた。じわじわと視界が淀み、胸の孤独が今にも張り裂けそうで、詰まりに詰まって呼吸も出来ないこの不思議な感覚……
ふと見上げた壁際のスタンドミラーに、いつにも増して火照った頬と情けない垂れ眉が映っていた。それはTシャツを着ただけの地味な高校三年生で、本当は度胸などないもう一人の自分だった。
憎むべき彼に溜め息を吐きつけ、僕は背中を向けた。
でもそしたら、今日もふんわり微笑む君が目の前にいて、再び胸が締め付けられた。
……卓上の参考書の向こう、今年のインターハイ集合写真だ。実はこれのおかげで受験勉強が捗らない。君以外の全てに靄がかかって、参考書どころか他のメンバーすら見えないんだ。
今日もその控えめな笑顔を見ちゃったが最後で……。ガシガシと頭を掻いてみたけどダメ。ここまで感情が抑えられないなんて僕、初めてだったかな。
熱いもどかしさから逃れるように、急かされるように階段を駆け下りた僕は真っ直ぐ玄関前へ、自ずと目の前の受話器を取ると、そこでばったり母さんに出会した。
「受験勉強は進んでるの?」
「ちゃんとやってるよ」
疎ましく返事をすれば、擦れ違いざまにいつもの小言を浴びせられる。
「部も引退したんだから、頑張ってちょうだいね」
「わかってるよ……」
浴室へ消える背中を見届けてから、僕は漸く電話番号のメモを取り出した。
そして3の上で浮いたままの人差し指を一度握り締め、こう唱えた。
「小さな体に勇気百倍! 勇気の数だけ背が伸びる!」
昔リョータに教わった魔法の呪文だ。力強く小声で唱え、そして、受話器越しに初めて君の名前を呼んだんだ。
いますか? って、相手は君のお母さんだったけど、それだけですごくドキドキした。君の声に替わるまでにどうにか抑え込んだつもりだけど、その柔らかな声を聞いた瞬間、再び弾けた鼓動が邪魔で声が聞き取りにくかった。
「じゃあ三十分後……」
程々の会話のあと、見上げた時計はもう八時だ。受話器を置いた後でふと我に返った。
こんな時間に電話するなんて、女の子を呼び出すなんて……。交際を許してくれた、君に似たあの優しいお母さんに嫌われたらどうしよう。
薄い上着を羽織りながら、今更非常識な自分を責めまくる。初めての校外デートは、僕の浅はかさと衝動により突発的に決まってしまった。

二十分後、約束の時間はまだ。待ち合わせたコンビニの自販機前で、部屋着にカーディガンを羽織った君が小走りで駆け寄って来た。
「待たせちゃって、ごめんなさい……」
夜の街に聞くか弱い君の声。ガラス張りを貫く照明が、心苦しく俯く顔をしおらしく照らしている。
「全然。だってまだ、約束の十分前だよ」
そう言って店内の時計を指すと、君は肩を竦めてクスッと笑う。あの写真と同じ、待ち焦がれた天使の笑みが目の前に咲いていた。
そしたら突然心臓が飛び出しそうになって、今度は僕が俯いちゃった。
君の前ではやっぱり情けない。魔法の呪文も二回は効いてくれそうにないから、あとは頑張って笑ったんだ。
「行こうか?」
顔を上げ、にっこり頷く君の手を取る。早くここから連れ出したくて。
実は、後ろでたむろする嫌な視線にずっと怯えてた。もしここで恐喝なんてされたら……
昼間とは違う顔ぶれが少し、いやすごく怖かった。桜木らでじゅうぶん見慣れてるのに、今は金髪の男と目が合っただけでつい怖気立ってしまう。
――――あの時だって。三井さんが体育館に乗り込んで来た時だって、本当は怖かった。帰ってくださいなんて言えたのはもちろん部のためだけど、君もあそこに居たから。君にもしものことがあったらって考えた方が怖くて、考える前に立ち向かってた。
結局殴られて格好悪い姿見せちゃったけど、でも後悔はしてない。だって今、僕の隣にいるのは紛れもなく君だから。僕の手に確かな柔らかさが触れてる。
今日、君にもしものことがあれば全て僕の責任だ。こんな時間に呼び出した僕の所為。だから命に替えてでも守る義務がある。差し掛かったゲームセンターの前で、僕は少しだけ胸を張った。

やがてどこに行こうか迷うでもなく広い公園に着いていた。静かで人がいなければ……ていうのも少し違ってたようで、そこは街灯もなければ当然真っ暗で何をしていいのかもわからない。
広い公園の土手を並んで歩きながら、暗い足元と会話が冷めないことに気を配った。でも……
「……それで卒業したら、俺はまず入学を専攻して…」
僕の口はさっきから意味不明な言葉しか出てこない。「なにそれ」って、君は優しく笑ってくれるけど。
男らしくリードしたいのに、生温い風は熱する頬を冷ましてくれない。絶えず漂う草の匂いは僕の笑顔を圧し曲げる。次の話題を模索する頭は気付くと空っぽで、このまま暗闇の中に消えたい気持ちでいっぱいだった。
ハァ……、ダメかも。初デートの無計画さを反省。もっとリョータに聞いておくんだった。
「あっ、とね、俺今日犬の散歩してたら、この辺でウンチ踏んじゃって……」
何言ってるんだ僕は……
今、ふと踏んづけた棒切れがバキッと折れて、それをきっかけに何かを期待した。
すると、「あっ」といつもより大きな声を上げた君が今、闇の中に消えてしまった。……いや、僕の折った棒切れに躓いたようだ。
「だ、大丈夫!?」
焦って膝を着けば、「大丈夫…」と恐る恐る立ち上がった君。その顔すらよく見えない。
「怪我はない?」
「平気」
「血は? 出てない? どこか水道ないかな……」
「あ、平気だから……」
君の遠慮は当てにならないのを知ってる。僕は再び君の手を取り、足早に奥のトイレを目指した。そしたら…………
丁度雲が退いたんだろう。土手沿いに並ぶ木々を抜けると、まるで異世界へ通じるような月光が辺り一面に広がっていた。無限の夜空に低く大きく浮かぶ満月に、うっかり手を伸ばしたりしたらそのまま吸い込まれそうな……
すっかり佇んでいた。満ち満ちた円が全面から黄金色を放ち、その雄大さにまんまと心を奪われる。小さな僕を魅了する。闇に慣れていた視界は全て飲み込まれ、漸く見つかった話題もどこかに飛ばされる。
……短い夏の終わりかけ。それは何にでも変身させてくれそうな気がする。例えば、隣で不思議そうに見つめる君を、さらりと奪えるかっこいい男に。二人の間にいつもいる”遠慮”を軽く吹き飛ばしてくれる、強くて頼もしい男に。
けどそれは、僕を狼にはしなかった。それは君の横顔にも光を塗し、冴えない僕自身を照らしてくれた。
「卒業しても、俺バスケ部に顔出すから。だから……」
ずっと一緒に居て……なんて、恥ずかしくてとても言えない。
僕は足元の花を摘んで、悩ましく見つめる君に差し出した。
「あ、ありがとう……」
その遠慮がちな笑顔を見れば、僕の中の月も満ちる。
なのに君は、その気持ちを受け取ってくれなかった。
「でも安田さんそれ……」
そう、花を摘んだ僕の指先を見つめていた。
「ん、どうしたの?」
「つ……、ついてます……」
「え……? ウソ……」









布団に入るその前に、カーテンを捲った窓辺から今日の夜空を仰いでみる。
今日を照らした満月に、二人の未来を祈ってみたけど……