六月の悪夢


屈んだ上半身を、両手に着いた両膝で支え、そのまま酸素が得られなかった。無理に吸い込もうとすると、ゼェ……と掠れた音が肺から響くだけで肝心のO2が得られない。喘息を患った如く息がしゃがれ、軽く呼吸困難に陥ったようだ。
木目の床に零れた一滴は、今こめかみから頬を伝って零れ落ちたもの。ポタポタと続いた後の数滴はどこからか、汗に濡れた全身が蒸れ、不快で仕方ない。
再度、ゼェ…と大きく息を吸えば、そこにはヒューと風の吹くような音も混じり込む。……限界だった。
猛暑を先取りした体育館で、止めた空調に体は茹り、意識もぐにゃぐにゃに歪んでいく。
一人残るコート上、そこら中に散乱するボールの中央で俺は、ドタッ、と全てを投げ出すよう尻から倒れた。
気遣いながらも軽く打った後頭部が痛くて、それに、仰いだ天井がすごく眩しかった。
試合の時同様、この高照度のライトは館内を更に熱くする。目がチカチカする程の白を頭からジリジリと照らしつけ、益々意識を朦朧とさせる。
あまりの眩しさに、俺は額前に片手をかざし、ささやかな影を作った。瞳を閉じても鮮明に映る残像に、ふと思い描くのは今年の決勝リーグだ。
……それはもう、今月末だった。

沸き立つ歓声の中、王者海南の4番を担う俺は、迫り来るディフェンスの壁を俊敏にすり抜け、リバウンドを勝ち取った信長にパスをもらったのはまだセンターラインを割ったところ。
咄嗟に描くのはそこからゴールへの最短ルートで、ディフェンスのいない、且つ3Pを放つための最適ポイントを瞬時に計算する。
まずは身長を誤魔化せる程に腰を落とし、ドリブルを下に隠しながら最低限のターンで執拗なディフェンスを切り抜ける。鋭く目を光らせ、頭には常時コート上の現在地を確認し、直ちに狙っていたポイントまで瞬間移動。同時に身体がゴールまでの距離を暗算し、キュッと足裏に床を吸い付けたら、この身に叩き付けたフォームを細胞が作り出す。
膝でジャンプ、ディフェンスの上、奥のリング目掛け指先からスムーズにボールを送り出す……。

……カッと目を見開いた。同時に先の眩しさが視界を覆い、孤独の現を呼び覚ます。
時間はないのだ。全ては4番を背負うこの俺に掛かっているから。
俺は即座に立ち上がり、ふと視線を放ったのは常勝の二文字。それは部室前の壁に悠然と掲げられる。もしそれを崩すようなことがあるなら、俺はバスケ辞めるか、なんなら自害するか。
…………いや、まじで。
そうして己をひたすら追い詰めることで、ストイック追い込むことで王者海南キャプテンを全うする。前キャプテンと同じように、また来年も常勝を掲げるため。
乱雑に床に散らばった中の一つを、近辺のボールを再び手にした。しかし残りの本数がわからないことには、また一から重い腕を上げる。同時に鼻を突くのはエアーサロ○パスの男臭さで、それは二の腕の筋肉痛に吹き付けたもので、日々筋肉が成長している証だからとむしろ歓迎している。
今漸く酸素を取り入れた俺は、確実な3Pを無心の内に決めた。感情のない機械に仕立てたこの身体は、放ったボールで一ミリ狂わぬ孤を描き、ネットの揺れも最小限に留めることが出来る。
三年間叩き込んだ身体に間違いはなかった。全ては今月末のため、そして今年こそ、去年は果たせなかった全国制覇を見据えている。

やがて証明のスイッチを落とした途端、辺り一面が真っ暗闇と化した。あの眩しさに慣れていた目はほぼ何も見えなくて、帰り際に時計を見ることをしなかったから時間もわからない。
すでに水道の水は流し込んだが、胃ではなく身体に染み渡るような水分が欲しかった。体内に取り入れた瞬間スムーズに全身を潤してくれる、ずばりスポーツドリンクを。思っては、気持ち足早にぼんやりと浮かぶ校門へ急いだ。
丁度海南と家の間にある行き着けのコンビニは、すっかり夜も更けた今日も朗らかに迎えてくれる…………はずだった。
店内から、たった今自動ドアに駆け込んできた客となんと激しく正面衝突。重なり倒れたその上からは透かさず店員まで飛び込んでくる。
急な事故に驚く間もなく、更に投げ付けられた品出しのケースが俺の指にぶつかった。
「すいません、万引きがあったんで」
程なく身体を降りたバイトは新人か。見慣れない、やや強面の彼は犯人をしっかり取り押さえたまま、俺に深々と頭を下げてくる。
俺は右指の痛みを案じながら、ふと犯人の被るフードを覗き見てすぐ、「あれ……?」と更に覗き込んだ。残念なことに、犯人は俺の知る人物だった。
また、バイトの彼も俺を知っていたようだ。彼は柄に合わない神妙な面持ちで、却って申し訳ないくらいに何度も頭を下げ、そして負傷した指には完璧な処置を施してくれた。
俺の通う私立にはいない、少し悪さの漂う短い眉、染み付いた煙草の香り、それと髪の黒が妙に鮮烈だったのを覚えている。
そんな彼が友人だと発した名前はあの桜木で、その容姿も含めて納得した。気さくに交友を明かしてくれた彼に、すでに偏見はなかったかもしれない。

…………そんな六月の頭。あのライト同様にまだ真っ白だった俺の、悪夢の始まりだった。