春眠焦がれし暁の…


 寝不足という症状とは本来無縁の私ですが、一晩中ぐるぐるしていた頭はさすがに重く足元も
よたつく。昨夜とは打って変わり、春を匂わす爽快な風が乾いた眼球に沁みる。
 身なりを正すのも億劫で、鏡に覗くやつれ顔はあくまで執事と言い張れない。背筋もいまいち伸びきらず、顔に垂れ落ちる前髪まで微妙に外側へうねっていた。無尽に漏れる溜息がまたその一束を癖付けた。
 閉めることを忘れていた窓が稀に見る青空を仰ぎ、逆に、昨日までの雲翳を纏った私はまだ静かな廊下に出ると、バルドの耳障りなイビキを遠くに聞く。そして、いつも通りカーテンを開けようと手を伸ばしてすぐ、はっとして辺りを見回した……。
 突き当たりの角に佇む御神体。微かに漂う白壇の香。そしてそれらを照らす今日の陽射しがとぼけた頭をノックした。ここが何処かも忘れていたほど、私は鬱念に駆られていたのか。
 ……そう、ここはお二方に管理を託した街屋敷で、もう一人の出来た執事がすでに仕事にかかっていたのだ。
 厨房へ向かい廊下を進めば徐々に湯の沸く音。程なく覗いた入り口から、優しい湯気が私を出迎える。そして奥に立つ後ろ姿を、ビリジアンの衣を纏う高い背中を見たその瞬間、胸の奥が重く軋んだ。
調理台を前に黙々と生地をこねるアグニさん。周囲を舞う小麦粉まで朝日に光り、あまりの目映さに直視できない。早朝の新鮮な空気に晒す、袖を捲り上げただけの唯一の露出が如何に扇情的か、全ては今ここにいる私しか知らないのだと、思っては暫し立ち尽くした。疼く胸元を押さえつつ、私は静かに声を掛けた。
「アグニさん、おはようございます」
「ああ……おはようございます……」
 アグニさんは振り向くや否や視線を落とし、眉間に小さくシワを寄せた。ここで「セバスチャン殿、今日の朝食はいかがなさいますか?」とは微笑みかけてくれない。あの笑顔を今日の始まりとさせてくれない。彼の大切な人を傷付けた私は彼にとってあくまで悪魔。すでに友人とされていない。もう友人として、私を慕ってはくれないらしい……。
 昨夜の責め苦を顧みてはすっかり言葉をなくし、私はとりあえずの用件のみを素気なく伝えた。
「劉様から、アグニさんへのお荷物を預かっております」
 すると、クッと歯を食い縛った彼は鋭い眼で私を睨み、たった今吹き零れた鍋に見向きもせず、真っ直ぐ詰め寄ってきた。そして私の肩を掴むなり、唇を声を震わせながらすでに充分反省をしたつもりの私を更に追い詰めてくれたのだ。
「セバスチャン殿、貴方はなぜ、仮にも知人である劉様を痛め付けようなどと思うのですか? いくら執務といえやりすぎです。一体どんな命令があってあそこまでなさるのか、私には到底理解出来ません。劉様が、彼が可哀想だとは思わないのですか? 私は執事としてもセバスチャン殿を尊敬していましたが、正直、身損ないました……」
 それは、昨夜から頭に描いていたままの彼の態度。顔を合わせれば今度こそお咎めを受けることはわかっていた。わかってはいたが、強く刻まれる眉間のシワ、心底落胆する表情をいざ目の前にすれば何も言えない。心を抉られ声が出ない。
 一方で、なぜ執務と知るかを疑ってすぐ、劉様の顔が浮かんだ。劉様から聞いたのだと、私の知らないところで仲良くやっているのだとまたも憶測で嫉妬する。憶測で二人を妬みこうして勝手に傷ついている。そう、たかが憶測で悪魔は頭痛を患い、安眠というものに生まれて初めて焦がれている……。
 しかしそれなら今、彼の口から直接答えを得られないだろうか。懸念を払拭できないだろうか。思っては肩にあるその手を外し取り、目線を合わすべく顔を上げ、全ての疑問を率直にぶつけた。
「アグニさんは、何故そこまでして劉様を庇い慕われるのですか?」
「それは劉様だからというよりも、痛めつけられ苦しむ人をただ見過ごせないだけです。友人であるなら尚更のこと。最初はお二人がより睦まじい関係にあると思ってましたが、昨夜の劉様は本当に苦しんでおられた。そこで手を差し伸べずに友人とは言えません」
「では、この件が執務であることはどなたから伺いました?」
「劉様からです。彼にも一度、無礼を承知でお諌め申し立てました。しかし劉様は、それは執務だからと流してはあまり取り合ってくれず……」
 もう一つ、昨夜どうして私のいる部屋を訪れたか。
「それは劉様からお預かりいただいている品でございます。昨日届けると前もってご連絡いただきましたので、部屋で待っていたのですが、遅くなっても音沙汰なく玄関を確認しに向かったところ、門が開いていたのを不審に思いまして。それで邸内を見回っていたら…………」
 では最後に、二人の間柄は。
「実は先日、劉様がここを訪れた際のことです。互いの母国話でつい意気投合しまして、僭越ながら劉様にも友人としていただけたのです」
 そう最後の質問にだけ、アグニさんは愁眉を開き鼻の下を擦って応えた。
 同時に、憶測は憶測でしかなかったと知った私もほっとした。思わず温い笑みを零し、今度の執務を差し障りない程度に明かすこととした。
 阿片売買に関し容疑のかかった劉様を素っ裸に、事情は劉様の口から直接伺わなければならないと、するとアグニさんははっとしてこう言ったのだ。
「それはもしかして、なるほどそういうことでしたか……」
 何やら納得した素振りのアグニさんからその後、いともあっさりと真相を得てしまったのは勿怪の幸いと思うべきか。
 藍猫様の実の兄なる人物がここ最近英国に現れ、まるで劉様の面子を潰すべくイーストエンドで暴利を得ている。そこにきて阿片の横流しを計る人物が内部にいること。妹思いの劉様は、藍猫様を疑うことを恐れ、依然手を出せずにいること。
 なるほど……。納得した私はもう一つ、劉様が昨夜続きをせがんだ理由をどことなく察していた。つまりある種の現実逃避として私は利用されたのではないかと。阿片の代用といったところか。
 そんな劉様の口からではなかったが、疑念の払拭と同時に事件の背景も掴むことができた。漸く肩の荷が下りた私は急に目眩がし、足元がぐらついたところを透かさずアグニさんに支えられた。
「嗚呼、すみません……」
 すっかり腕に凭れる私を大丈夫ですか、と案ずる彼には私からも安堵を与えたい。真っ直ぐに降りた視線を返し、褐色の頬に手を伸ばしながら、私は軽くのぼせた声で彼に誓った。
「アグニさん、私は今後一切劉様に触れないと誓います。例え坊ちゃんの命が下されようと、そこは貴方の仰る通り別の方法を呈することと致します。今回のような真似は二度としないと約束します……。ですので、今後も何か間違いがあれば貴方に諭し、戒めていただきたい。同じ執事として友人として、できれば…………」
 静かに晴れゆく微笑にとらわれ、つい言葉が途絶えたが、その無垢な瞳はきっと意味を解していないだろう。熱き信仰と清き友情を重んじる彼が私のどす黒い慕情など悟るはずもない。しかし今はただその笑顔に、いつもの素朴で穏やかな笑みに肉球以上の癒しを覚えていた。瞳を閉じれば脳が安らぎ、やおら身体を起こした私は、窓を貫く春の萌しに漸く耳を傾けたところ。

 その後、二人厨房に肩を並べ、共に朝食を準備していた。本来ならあのバ……使用人らを叩き起こす時間だが、二人きりのこの時間が一秒でも惜しい私は、パイ生地を仕上げた後もこうして隣を気にしてばかり。
「生地の形は好きにしてください」
「それでは私、王子のために腕を振るいます」
「アグニさん、その形はまさか……」
「ええ、カーリー女神の舌でございます」
 のぼせ上がるばかりの私は少し忘れていた。アグニさんが、逆さ吊り事件の犯人である未だ信じ難い事実を。
 そんな彼もここに居る以上、坊ちゃんの言うモルモットに含まれるわけで、私達とは何の脈絡もなくインドからやって来た二人が自発的に坊ちゃんを裏切ることはない。しかし不本意な形でなら充分あり得るとするには確信があった。
 先の逆さ吊り事件のように、また王子さえダシにされればアグニさんは血の涙を飲み、そしてどこまで手を血に染めるかとなると私も検討が付かない。
 その辺を仮にも前科者である彼に一度聞いておきたかった。それがモルモットを飼い慣らせとされた私にとっての執務でもある。
 依然二人きりの厨房で、それぞれ背中合わせに作業をしながら、片手間に旧アルシャドの声を訊いてみた。
「僭越ながら、私失礼を承知でアグニさんのことを色々調べさせていただきました。主に貴方の前科について、暴行及び殺人罪が上げられたわけですが、その動機は全て、怠惰に疾れた父親への反抗心から、なのでしょうか」
「勿論それもございますが、それだけで拳を振るう真似は私もできませんでした。主に奴隷として生まれた者達を痛め付ける者は決まって上級カーストにあり、その階級ゆえ裁かれないことに私は強い憤りを抱いていたのです。それをどこか、父の姿に重ねていたのだと思います。檻に囚われるその日まで、私は何人もの人々を傷付け時には殺めました。死刑相応の罪を犯しいざその時を迎えた私にあるのは厭世観のみ。そこにソーマ様が、地上に降りた神がこの私に太陽を見せてくれたのです……!」
 徐々に血気増す声に恐る恐る振り向けば、そこにはやはり、祈り出してしまう彼がいた。
「アグ二さん、貴方だけはずっとそのままでいてください」
 色々な意味合いを含め神妙に呟いた私は、床に跪き王子を仰ぐ彼の隣に歩み寄った。そしてほろり零された涙を、頬伝う雫を指に取るなり思わず息を呑んだ。
「これは…………!」
 そっと口元に寄せた瞬間、私は魂に並ぶ美味を知った。
 私はアグニさんの横で低く屈むと、徐に彼の顎を摘み、その顔を上げる。そして自然と寄せたキスの後、硬直するアグニさんに一つ、お願いを申し出た。
「アグニさん、よろしいですか? もしソーマ様に危機が迫り、それを弱みとして握られた場合、その右手を翳す前にどうか私にお知らせください。決して一人でどうにかしようなどと考えないでください」
「それはどういう……?」
 すっかり茫然とする彼には少し意地悪な質問を返した。
「もし今、私がソーマ王子に対し今後坊ちゃんへの面会を禁ずる……としたなら貴方は如何なさいますか?」
「それは……それはとても困ります。ソーマ様にとってここ英国でご恩を受けたシエル様はとても大切な親友なのです。そのシエル様と会えなくなれば、ソーマ様はきっと、きっとソーマ様は……」
「ではそこで、私がいくつか条件を出せば貴方は受けてくださいますか? 例えばまた、他人を傷つけ事件を起こしなさいと、または人を殺めなさいと……」
「それは……それだけは決して………………」
 たかが例え話でアグニさんは可哀想なくらい深く頭を抱え込んでしまった。やはり彼は、神と崇める王子さえダシにされればきっと何でもしてしまうということだ。熱すぎる信仰心が同時に彼の弱みとなる。それを今、私もこうして利用している。
「ですから、もしこのような条件を突きつけられた場合、アグニさんには私を頼ってほしいのです。貴方にとって私は友人でもあるのでしょう?」
 それは一枚めくれば下心しかない仮初めの友情。
 徐々に顔を上げる彼の左手を取り、それをさり気なく私の腰に、立ち上がらせてはふと、ある置物の存在を思い出していた。今本邸で留守番中の卑しい糸目で手招く彼がすでに懐かしくある。……そう、機会は訪れていたのだった。
 今回の騒動で予期せぬ形ながら私は切愛なる存在を知り、請い願ったその日にもすでに機会は手招かれ、紆余曲折を経た今はこうして彼を目の前に、その大切さをありありと感じている。だからもう、私にそれは必要ない。
「それとアグニさん、今度招き猫という置物を貰っていただきたいのですが」
「招き猫……? それは、猫の神であられますか?」
「もう、貴方という方は本当に……」

 朝食後、玄関に立った坊ちゃんと私にこれまた大袈裟な見送りが待っていた。
「坊ちゃん、どうか無事で帰ってきて下さい!」「ですだぁ!」
「何を大袈裟な、二、三日空けるだけだ。いつものことだろ」
「でも坊ちゃん、最近暗い顔してること多いから……」
 使用人らの無駄に感動的な別れには無愛想ながら応じる坊ちゃん。しかし続く王子の声には耳も貸さず背中を向ける。
「シエルー、帰ったらチェスもう一回だぞぉ!」
 昨晩三時間もチェスに付き合わされたという愚痴を今朝坊ちゃんに伺った。しかしなんだかんだで応じている辺り、坊ちゃんも楽しくやっているのだと思ってはつい口元が緩んでしまう。そして、次の声に時間が止まる……。
「お屋敷のことはアグニめにお任せ下さい。くれぐれも体調にはお気を付けくださいね」
 すっと吹き抜けるまだ冷たい風の向こう。皆より頭一つ突き出た彼の、春風駘蕩なる親切な声。私は劉様から預かりの品を手渡すべく歩み寄り、今この日この時の別れをここに居る誰より惜しんだ。
「貴方が居ればまず心配には及びません。それと、これをお召しになる際はそのターバンとビンディを外してくださいね」
 その言葉にいっぱいいっぱいの嫉妬を込め、荷物を手渡し踵を返したその時……タナカさんが確かにぼそりと呟いた。
「どうやら訪れたようですね」
 そこでフッとほくそ笑んで見えたのは気のせいだろうか。するとそんなタナカさんが今、丸めた拳でグリグリと片目を擦る。まるで顔を洗う彼女たちのように、無邪気な寝起きを見せ付けるように、嗚呼、タナカさん…………!
 猫狂熱にかかった私の目は最近おかしいのかもしれない。勝手ながら私は今、タナカさん型招き猫という新しいサンプル制作を目論んでいる。

 その後、道行く馬車に揺られながら私は坊ちゃんへ報告した。
「アグ二さんはあの通り、実に清廉潔白な魂を持つ出来たお方です。死刑囚アルシャドも逆さ吊り犯ももうこの世に存在しません。もしソーマ様が道を外れるようなことがあっても、彼が責任をもって教戒なさることでしょう。そして劉様ですが…………」
 そこからアグニさんに聞いた劉様の件を告げると、お決まりの頬杖で対面に座る坊ちゃんはニヤリ、鼻で笑って言った。
「それは面白い。あいつも人間らしいとこあるんだな」
「ですが、このまま警察が介入すればいずれ劉様まで割れそうですね」
「なあに、そこは自分で何とかするだろ。妹がなんだと言ったところで身に迫るのは自分なんだ。……それより、それは劉の口から言わせたのか?」
「正確には…………」
 遅まきながら、ここで坊ちゃんが自白に拘る理由を察した私は、執事の名を恥じるべきだ。汚名返上のため、私は初めての嘘を吐いた。
「ええ、劉様の口から直接いただきました。忙しい坊ちゃんの手を焼かせたくなかったと、自分でなんとかするとそう仰っておりましたので、まず問題ないでしょう」
「そうか、ならいい」
 坊ちゃんは無関心を装っているが、その小さな口元には安堵の息が見てとれる。おそらくフィニの言っていたその表情に、今は外を流れゆく春色が映し出されていた。
 劉様もまた、友人だと思っていたのに、とそう仰っていたのを覚えている。あの時は坊ちゃんも気丈に振る舞っていたが、自白に拘ったのはきっとそういうこと。差し出した菓子を頬張る主を、年相応の姿を見ては私も漸く安堵した。
 ご主人様にはいつも朗らかで健やかでいて頂く。主が女王の憂いを晴らすなら、私は主の愁いを晴らす。それが執事の美学だと、今改めて誰かに諭された気がする。
「それはそうと、朝からカリーポテトパイは重い。胃がもたれた」
「それは、私の重い愛情が詰まってますから」
 すると急激に青褪めた坊ちゃんを見て、私は背中をさすって差し上げた。