喉を鳴らして縋りつく

 棚引く晩冬の白雲が、春を拒む空風に乗り新たな命を運んできた。
 彼女の憂いを晴らすため、私達は明日の早い出張に備え、使用人総出で街屋敷を訪れていた。
「シエルー、昼には来るって言ったのに、もう三分も遅刻だぞぉ」
 ドアを開けてすぐの仰々しい歓迎のあと、日中は想像通り騒がしい時間を過ごす。
「おいシエルー、遅れてきて埋め合わせもなしかよぉ!なあ聞いてんのかシエルー、なあってばー」
 後ろで邪魔を謀る目から逃れるよう、私達は明日の準備に、今度の件を具に詰めようと足早に奥の書斎へ。しかし、無視を決め込む主に従い廊下をひた歩くその途中、ふと見回せば確かな違和感…………。
 ……いや、それは門を潜った瞬間から明白だった。以前はなかった御神体やら祭壇、見慣れぬ装飾が邸内外に点在。通路には絶えずお香が漂い、不思議と海を渡った気分になる。
「坊ちゃん、これはもう手遅れですね」
「何を今更」

 やがて日が沈み、今日二度目のカリーが香ればここはすでに英国ではない。昼とはまた違う複雑なスパイスの香りに導かれ、踏み入れた厨房には順調に皿が並んでいた。
「料理長殿、次はサラダの盛り付けをお願いします」
「おう! まかせとけぃ!」
 分担作業は円滑に、目くじら立てる隙もないのはその存在が何より大きい。
「セバスチャン殿、シエル様のお飲物はいかがなさいますか?」
 振り向いたアグニさんが、ほんの少し首を傾け、白い歯をこぼす。その笑顔だけで和む空気を知っている。
「そうですね、せっかくですから、チャイをお願い致します」
 言った傍から取り出された生姜。懐に常備されたそれを神の右手が手際よく刻む。香り高いウバ茶と共に数分の沸騰、ミルクを足し再度沸騰の後、茶漉しを置いたティーポットへ注がれる。
 以前は悪行に暮れたという、仮にも前科を持つ男の横顔を私はぼんやり見つめていた。湯気の向こうの一見精悍な目つきを、雲翳も柔す穏やかな表情、慈愛に満ちた低い声には微かな安堵を覚える。その全てを築く信仰心に、穢れた悪魔の手が触れることはきっと許されないのだろう。先日立ち合ったあの場面をふと、顧みては今さら嘆息が漏れた。そしてその際、おそらく私が痛めつけたとされる相手、劉様がなんと夜更けに訪れたことで、今宵も小さな事件が起きてしまった。

 消灯後、外に気配を察した私が玄関にて出迎えると、招かねざる客人は顔を合わすや否や不自然に狼狽える。
「あれ…………?」
 ご存知あくまで執事の私を夜目に訝しむが、それは私とて同様のこと。彼は何故、別邸であるここをあえて訪れたか。
「劉様、本日はどうしてこちらへ?」
「いやぁ、我は今日ここにいる君に会いに来たんだよ。蜘蛛の糸は常に張り巡らせてあるからねぇ。それに言ったじゃないか、我は意地悪な男じゃないと」
 そこでニタつく口許は毎度のこと信用ならない。何より劉様の胸に抱える荷物がどことなく怪しい。……が、容疑者自ら出頭するならこれも一種の機会といえよう。
「それはそれは、どうぞお待ちしておりました」
 律儀な笑顔で邸内へお招き。寝静まる廊下に足を忍ばせ、仄暗い最端の予備部屋へ彼を通した。
 厨房より奥のこの部屋に誰かが通りかかるという偶然はまずない。壁のランプを灯した私は早速ベッドに劉様を誘い、少し冷え気味のその身体を手際よく丁重に組敷いた。
 艶やかな身ぐるみを剥ぎながら、今日こそ先だっての命を全うすると胸に誓い、大人しく横たわる劉様のその堅いのか緩いのかわからない口を毟ろうと丁重に試みた。
「例の経営者は紅幇に属しておられた。その紅幇とは、中国内における幇界では青幇と敵対関係にあったそうですが……」
「ちょっと待って執事くん。まだ我を泳がせてくれるはずじゃなかったのかい?」
「しかし劉様の方からわざわざご訪問いただいては、ここで見逃すことは執務放免ともなり得ますので」
 無抵抗に身を任せる劉様のすでに晒した裸体は私の下に。野暮な掛け合いの間にもそっと色香を蒸らしゆく。
 胸元を滑る指先に小さな頭頂部を捉え、浮き出た鎖骨辺りにキス。三つめで辿り着いたそこに暫し舌先を留めた。
 今日はしっかり鍵をかけ、すでにカリーパンのレシピを渡したことで備えは充分といえよう。前回の過ちは繰り返さない、今夜こそ、私は坊ちゃんの命を完遂する。イーストエンドにおける不穏当な阿片売買について、その真相を劉様の口から直接お伺いせねばならない。徐々に形を露にする下の熱源に手を忍ばせながら……。
「そういえば、ここ暫く藍猫様を見かけませんが」
「ああ、執事くんも気になるんだ。うちの小妹は本当に可愛いからね」
「彼女はお仕事にも携わっておられるのですか? 幹部である劉様の妹とあれば、中国人裏社会では優に名も通りますでしょうし……」
「まさか、あの無口な娘に出来る仕事があれば紹介してほしいくらいだよ」
 言葉責めならぬ尋問責めのつもりだが、坊ちゃん指名の唇は全く取り合ってくれそうにない。こうも毎回はぐらかされては、嗜虐心に燃えた悪魔の口元が思わず緩んでしまうというのに……。
 私はぐいと下肢を押し上げ、私を仰ぎ見るその入り口を指で解し出した。すると微かな吐息が漏れ始め、ンンッ……、と歪む表情にも多少手応えを得る。
 ……いや、劉様はハァハァと悶えながらも更なる無駄口を叩き出した。
「それより、使用人くんが言ってたよ。君にやさ……ッ、しさは感じても、情は感じないって」
「情、ですか……?」
「うん。……ハァッ、ア……ッ。人間味が、ないって意味じゃないかい……?」
「フッ、あのバ……バルドがですか」
 そんなことを言うバ……使用人は一人しかいない。しかし今あのバ……のことが少しでも頭にちらつけば俄然萎える自信がある。
 私は劉様をうつ伏せに、そのすらりとした腰を高く浮かせ、惜し気もなく秘部を晒す卑猥な体位を目の前にした。そして本番前の談笑を交わせば、あくまで執務としたこの行為もそれなりに艶を帯びる、というもの。
「劉様それは、私に情が欲しいと強請っておられるのですか?」
「ニャーん。執事くん愛してくれるの嬉しいニャア」
「そのニャアは、あまり強請ってる感じがしませんね」
「あはは、もうちょっとノってよ執事くん」
 健全な恋人同士を努めるが、折角の甘いひとときは間もなくヒビ入る。
「……ただ、彼が言う以上に我は君を疑ってるから」
 それは泣く子も黙る劉様の開眼。嗚呼、ゾクゾクきますね……。
 しかし後ろの私を覗き見る血も凍りそうなその眼も、四つん這いで放たれてはどう見ても誘惑でしかない。私は透かさず腰を押さえ付け、そしていざ挿入……と猛り立つ前に、まだ追求を試みたいのは性癖ともいうのだろうか。劉様の背中にそろそろと覆い被さり、浮き出た肩甲骨辺りを噛み付くように私は囁いた。
「もし劉様との共謀の線で見れば、国内での抗争はあまり関係ないのでしょうか。私なりに色々と嗅ぎ回ったのですが、中国人は皆揃って口が堅い。やはり劉様から直接お話し頂くのが一番なのですが……。劉様を猫の次に想うこの私にもお話できませんか? 何でしたら、一からお話頂いても結構なのですよ? 皆複雑で厄介な過去ばかり抱いておられますし、折角の白肌に龍を纏う劉様こそやはり例外ではな――――」
「いいから、早くしてくれないかな」
 声を蒸らしての甘言をすげなく遮った劉様。片頬をシーツに埋めたまま、一見平然とした表情に微かな陰りを零す。そこで気が萎えたわけでもないが、私は裸で伏せる男の背中を窄めた目で見つめていた。
 確かに泳がせるとは言ったが、自らここに出向いた以上、彼はお咎めを承知の上でこうして身を委ねているはず。なのにあくまで身勝手を通す彼が少しだけ、可愛くなかった。可愛い猫はずる賢く、腹黒く、それでいて一向に口を割らない。別の気持ちも交錯してか、私は理不尽な苛立ちに駆られ、今一気に貫いた息子は自ずと加減をしなかった。
「ぃ痛イッッ!ちょっと、痛いよ、ねえ痛い……ッ」
「すみません、少々気分が変わりました」
「痛ッ……って、君まさか怒っちゃったの? ちょっと本当に痛いよ、ねえ痛い……痛……イぃッ……」
 痛いを連呼、全身を強張らせる劉様の中へ私は激しい律動を捧げた。軽いお仕置きのつもりだが、その入り口は私のモノを千切りそうなほど硬く窮屈。容易に負担を顧みれば、私の本来の姿がつい喉元まで現れてしまう。
 …………そう、今日はソコに悪魔の媚薬を塗り込んでいない。私は苦痛に呻く細い身体へ更に腰を打ち付けた。
「ねえ、今日は本当に、痛いってば……ングッ、ねえ、痛いよ…………ッ……」
 竦み上がる肢体には尤も気が昂る一方、たかが人間一人の口も割れないことには密かに苛立っていた。
 興奮に乗じ苛立ちをぶつけるなど、我ながら粗野な真似をしていることに違和感を抱きながら、どこかで誰かに止めてもらえることを期待していたのかもしれない。きっと、あの日のように――――
 そう願った傍から、あの日と同じことが起きたのだ。
 耳障りな雨のない今日、あの懇切丁寧なノックが今はしっかりと耳に飛び込んできた。
「アグニさん……ですか?」
「はい、アグ二めでございます」
「どうなさいました?」
 腰を休め問いかければ、ドアの向こうから諌める声に日中の穏やかさはない。徐々に声を詰まらせ震わせながら、私の数少ない友人が、もといたった一人の友人が必死で私に抗議してきた。
「セバスチャン殿、私無礼を承知で申し上げます。いえ、出来れば友人として言わせて頂きます。……お願いですからもう、劉様を虐めるのはやめていただけませんか。例えシエル様の命令としても、傷付けられる劉様を思えばそこで別の方法を呈すのが正しいと存じます。私はもう、劉様の苦しそうな声を聞くことがとても居た堪れません……。確かに痛いと、先程もそう聞こえてしまいました。それなら私は黙っているわけにはいきません。劉様も私の大切な友人なのです。そうだと言って下さいました。だから劉様を、彼をどうか…………」
 まるで飼い主の惨事を嗅ぎ付けたような、犬のように請うアグニさんの声。情事を遮ってまで訴えるその殊勝ぶりに、事実痛めつけていたことには返す言葉もなかった。
 彼は何故、主でもない劉様にまで正義をもって守ろうとするか、何故そこまで人を思えるのか、敬えるのか。敬天愛人の心を知らない私はまだ、執事の美学を習得できていないのか…………。
「アグ二さん…………」
 首尾よく猫にあしらわれた分、犬のように従順な彼を偏に可愛いと思っていた。友人としてではなく、出来れば友人とされたことに胸が強くつっかえていた。
 口がダメなら身体に質すという、最早まったく意味を為さない、このベタな手口に拘る理由は疾うに飛び去り、執事以前の大切なものを彼にはまた諭された気がして、躊躇った悪魔はとうとうソレを抜いた。彼の前では慎む悪魔と、温順に成り下がる私自身をありありと実感していた。
 …………が、ここにきて急に喉を鳴らす猫がいるからとうとう困惑してしまった。
「執事くん、やめないで」
 こちらを窺い見る横目に確かな切望が潜む。それでいて冷静な声で、腰を押さえる私の手を後ろ手にそっと握り締め、そして妙な質問を投げかけてくる。
「ねぇ執事くん、もし我が伯爵と対峙する時が来ても、君は我を生かしてくれるかい……?」
「それは無理です」
「いいね、その目……」
 毅然とした執事の返答に、いつしか坊ちゃんにも言った台詞が意味ありげに呟かれた。私の手を握りながらまるで近い未来を示すように、彼はすでに、何か重要なことを察しているように……。
 …………さて、私はここでどうすべきでしょう。先程まで痛がっていた劉様が今は続けろと縋る。その真意は計り兼ねるが、彼には依然何も聞き出せていない。一方で、ドアの向こうの切なる哀訴を無下には出来ないという気持ち。急激に芽生えた慕情は胸に募るばかり、目の前の裸体が霞む程、徐々に胸を締め上げられる人間特有の症状から逃れられずにいた。
 脳裏に過る彼の笑顔が今はこんなにも面映ゆい。神聖で眩しく、決して触れてはいけないという思いが却って焦燥を煽る。
 …………それが、今は怖かったのかもしれない。私はドアの向こうへ一言。
「アグ二さん、恐縮ですが、今夜はお帰り願えますか?」
 すると、クッ……と崩れ落ちる声はドアの向こうから。哀咽殺す溜息のあとで覇気のない足音が次第に遠ざかっていった。そこに一つ、ポタリと落ちる微かな音が私を罪悪感で縛った。
 まさに今、血の涙が零されているというのか。いつか王子に手刀を翳した時のように。彼は断腸の思いで私に訴え、そして愛想を尽かしたというのか。かつてこんなにも心痛した日はなかったかもしれない。アグニさんにとって私はあくまで悪魔であること、先の選択を誤ったことを私は強く悔やんでいた。
 それからもう一つ、劉様は何故、突如命乞いを申し出たか。理由を訊いては益々憮然とした。
「お前を殺して俺も死ぬなんて、案外可愛いこと言っちゃう男がいるんだよね。ハァ、我まんまとほだされちゃったかな」
 しどけなく裸で突っ伏しながら、閉ざされたままのその目は今別の男を夢見ている。それでいて続きをせがむ、その本旨は何なのか。何もない、ということもあり得るのがこの男だが、しかし私の中にも今は別の男がいた。
 彼は私を友人としながら劉様をも友人とし、劉様を一途に庇い、そして今は私が悪とされている。そんな些細で下らないことで嫉妬に満ち溢れた私は、暗黒の面を呼び覚ました。大人しく悪魔に返り、ぐったりとする劉様の声が嗄れ、掠れ、ソコに微かに血が滲むまで徒に身を重ねた。

 やがて身支度を整えた劉様は一言。
「悪かったね、近日中にこの件は済ませるから」
 そしてもう一つ、持参した荷物をアグニさんに渡すよう言い渡すと、突然部屋の窓を開けた彼はその窓枠に足を掛け、なんと窓から去っていった。しかし冷たい夜風に靡く裾は尻尾のようで尻尾でない。 颯爽と闇へ消えゆく影は猫とは似て非なる者。そんなことに今更気付いた私は相当な猫バカだろうか…………。
 私は窓を開けたまま、風音も冷たいこの部屋で一人、例の荷物を覗き見ては暫し首を捻っていた。中には色柄もサイズも異なる真新しい長袍が二着。私より大きめの物と小さめの物が綺麗に収まっている。一着は寄贈先とされたアグニさんへ、もう一着はソーマ様へと察するが、ここで一つ懸念が湧いた。
劉様に、お前を殺して俺も死ぬとした男のこと。これがその彼へのプレゼントだとしたら、あの二人がもしそういうことだとしたら……。
 考え付いた私の頭は一気に詰まり出した。今日も駆け付けたアグニさんは一途に想う劉様のため、彼を苛む私を諌め、嘆きの霧を涙に変えたというのか。人知れず関係を築いた彼らはすでに睦まじくあるというのか。
 無理にこじつけるつもりはないが、そこに容易く至る現状には大きく肩を落としていた。仲を思えば嫉妬に陥り、先程まで組み伏せていた相手に敗北感を突き付けられる。か細く吐いた嘆きの霧が、今は廊下の向こうの彼に靡き、そして、春を拒む空風に消えた。