火の用心

 先週はうっかり痛い目をみたこのパブ。バルドは一人、同じみのカウンター席の端を独占し、日の入る前から飲んだ暮れていた。
 いざ休みを貰ったところで共に休遊を埋める友人はいないに等しい。ただいつもよりゆっくり目覚め、あとは邪魔だと言わんばかりに邸を追い出される。シェフがいなくとも問題ない、寧ろいないほうが、とでも言われるように…………。
「ま、実際そうなんだろうな」
 バルドは右手のビアマグに、仮にも厨房に立つ己の存在意義を問い掛けていた。未だ料理という料理が出来ない現実を顧みてはそこはかとない寂寥を纏って。
「コゲじゃなくて、極上ウェルダンのつもりなんだけどよ……」
 意外とデリケートなシェフのプライド。誰も知らないやわなハート。冷やしてやろうとビールを浴びせるが、如何せんぬるいことには不満が募るばかりだ。
 そして今日も、背後にあの声を聞いた。
「やあマスター、黄酒ちょうだい」
 ちゃっかり隣に腰掛ける男をバルドはじろり、胡乱な目で見る。
「ああ、いたんだ君〜」
 毎度毎度の胡散臭い振る舞いのあと、劉は何を語るでもなく酒を嗜んでいた。酒と愚痴を交わすはずの席が程なく微妙な沈黙に染まっていった。
 料理人と貿易商、米国人と中国人という組み合わせは何がおかしいわけでもない。しかし使用人と客人となれば微妙な格差が生じるわけで、そこに同等な関係はまず結べない、と思う米国人だが、ここは酒の席だ。バルドはあれから劉との再開を待ち望んでいた。あの日口走ってしまった妹のことを反省し、素直に詫びようとしてそれとなく沈黙を解いたつもりだ。
「ったく、痛かったぜ」
「おかしいなぁ、急所は外したはずなんだけど」
「もろ急所じゃねぇか、不能になったらどうしてくれる」
「さあ」
 対して視線も合わさぬうちに知人同士の会話は幕を閉じ…………るその前に。
「先週は悪かった」
 ヤニ臭い唇がどうにか素直になってくれた。しかし無言で酒を継ぎ足す隣に返事はなかった。うんともすんとも言わないどころかまるで話を聞いていない。いっそ、この場で泣きたくなる。
 ハァ…………。
 バルドはビアマグの中へ一息、波紋に歪む青い目を見た。気泡も萎えるビールの底で男の攻略に悩み倦んでいた。
 徒徒しく物好き、不気味で掴み所のない、それでいて今日も隣に着くこの男。先週こそここでキスをしてきた、そんな劉の内側が露も読めなかった。閉ざされた瞳は今どこの誰を見ているのか、ここに立ち昇る白煙すら目に入れてはくれないものか。
 それを今、バルドは知りたいと思っていた。いつまでも胸に詰まる複雑で狂おしい気持ちは不快でならない。百年河清の恋心は料理にスピードを求む男の性に合うわけがない。玉砕覚悟の一発勝負こそ……! そう、玉砕覚悟の…………。
 バルドは新たな一本を口に、ほろ酔う隣に窺った。
「だいたい、あいつのどこがいんだ?」
「……じゃあ、君には何があるの? 使用人くん」
 優しい口調ながらあえて使用人と呼ぶあたりその真意は透けて見える。すでにバルドの気持ちを知っているのか、答えは次の台詞でおよそ推測できた。
「君にあるのは使用人という肩書きと、あとは料理人としての心だけだよね。実績は特にないみたいだから。料理こそ、執事くんの方が長けてるよね。彼は強くて有能で機知に富んでる。彼ってばほんとすごいよね」
 酔余に下す劉の評価はあまりに辛辣だ。そこまで言うのであればやはり、そうなのだと思う。見事かたむく天秤には暗に返事を聞いた気がして、バルドは忽ち俯いた。その上、先程まで嘆いていたことを忌憚なく突きつけられてはもう、心はすっかり空っぽだった。からかっただけだという後付けの謝罪も耳に入らないほど、シェフはとても悲観的になっていた。
 器量、教養、容姿、料理、色気、才覚、料理、料理…………もはや劣等感を抱く以前の問題なのだ。 我らが執事セバスチャンには何一つ及ばない。スーパーマンに実在されては、元軍曹は脇役でしかなかった。ただ、一つだけ…………。
「あいつは確かに完璧だ。あんな人間見たことねぇよ。……ただ、あいつに優しさは感じても情を感じたことがねぇ。何つーか、血の温度を感じねんだ。クールとか素っ気ねぇとか、そんなもんじゃなくてよ」
 決してセバスチャンの全てを知るわけではないが、使用人なりに苦楽を共にしてきたつもり。彼の笑顔は一見完璧だが、そこに赤い血を感じない。完璧さを僻むわけじゃなく、第六感を過信するわけじゃなく、そこに感じた悪魔は醜悪で冷血でひどく残虐な気がした。
「それは、何が言いたいの?」
 そう訊かれてバルドなりに整理、気持ちを端的に纏める。そしたら自ずと告白にも近い台詞をすんなり口走っていたようだ。
「あいつがどんなに凄くても、それはお前の執事じゃねえ。坊ちゃんが殺れと言ったら躊躇なく殺る男だ」
「けどそれは、君も同じじゃないのかい?」
 ……ああ、そうだ。的確な返事には閉口するが、でも、違う。
「俺も坊ちゃんに言われちゃぁオメェをぶっ殺す。人殺ししか出来ねえ俺をあえて拾ってくれたわけだ。そこで応えなきゃ俺は、執事どころか肉のコゲにも劣っちまう。テメェなんか、命乞いも辞さず鉛玉ぶっ放してやるよ」
 ……と、そこまではどこぞの執事と同じ。バルドはふと顔を上げ、見据える幻に夢を告げた。
「そんで使命を遂げた日にゃ、俺も好い加減、死んでやんだ」
「それ誰が得するの?」
 またしても心ない、それでいて尤もな返事にはしゅんといじけたくなる。思えば相当恥ずかしいことを言った気がするが、そこで赤くなるわけでもなかった。
 ……そうするしかない。一度素直になった口は臆せず本音を言えていた。気持ちを聞き出すつもりだったが、結果としてまんまとはぐらかされているわけだが、そう気付いたのはもっと後のことだ。
「俺の魂は頑丈だから、どうやったって生き延びちまう、呪われてんだ。だから、いざとなったらそれしかねぇと思ってる」
 そこで自ら幕を下ろしたのは、遅まきながらクサ過ぎた気がして、感傷に酔っている気もして、バルドは無性に虚しくなった。もう帰って寝よう、今日のことは水に流そうとマグの残りを流し込む。
「次、いつものちょうだい」
 そうマスターに告げる隣を見れば尚更……
「っておい、聞いてなかったのかよ」
 再び落ち込むバルド。その肩をぽんと叩かれ、まさかのアフターに誘われた。
「わかったよ。じゃあ今日は打ち上げといこう。行こっか」
 俄然、陽気になった劉に腕を引かれ、腑に落ちないままで店を連れ出された。汚い野良犬が一匹去ればあとは夜風吹き抜ける路地裏へ、火照った身体を冷やすついでに頭も多少冷やされる。
 しかし馴れ馴れしく腕を握る手は果たしてどこへ誘うか。徐々に不安の増したバルドはやぶから棒に足を止め、素気なくその手を振り解いた。
「打ち上げって、どこ連れてく気だ」
「そりゃあ、決まってるだろう……?」
 おぼろ気な月光に浮かぶ、妖しい笑みがこちらに振り返る。夜目に見ては背中がゾクリ、悪寒が走るその瞬間、その背中が今後ろの壁に倒されてしまった。
「な……何なんだよ……」
 正面から肩を押さえられ、目下にじりじりと迫られ程なく身体が密着する。風が止み、踵の下の砂利が鳴り、そしてバルドの胸ポケットに違和感。取り出されたマッチ箱が目の前に翳された。
「今度は俺を丸焼きにすっ気か?」
「まさか、君少しビビりすぎだよ」
 ではそのマッチで一体何を。問い質せばバルドは唖然、今日数度目の肩を落とした。
「何するって、花火だよ。打ち上げ花火」
「は…………?」
 ……と、零れ落ちそうになった煙草をすんでのところで噛み締めた。第一花火などどこに。問い質せば今度は納得、バルドは分厚い胸を反らす。
「君持ってるだろう? 熱くて威力抜群の、すごい花火持ってるよね」
「へへ、あれか。だがあれは一旦帰らねぇとだな」
 劉にもあの火力がわかるのかと気を良くしたのもほんの束の間。月明かりの射す横顔は別の笑みを浮かべてこう言う。
「とても威力抜群の、今、ここにもあるよね……?」
 吐息混じりの声は下から、妖しく薄笑う薄い顔立ち。首にはすっと片手が回され、もう片手はゆっくりと下りて、今非ぬ場所に触れられた。
「な……何すんだよ……」
 急速する鼓動と同時にバルドは大きく息を呑む。頭は真っ白、身は硬直。形に倣い滑る手つきをただ漠然とそこに感じる。
「おい、人が来っかもしんねんだぜ」
 言った傍から遠く足音を聞くが、押し飛ばそうと踏み切る前にも劉はあっさり離れていた。
「なんてね。さあ行こう、外はまだまだ寒い」
 そう言って、劉は再びバルドの腕を引く。膨大な疑問符を詰め込むバルドにマッチが返され、やがて外灯の明る宿らしき入口を潜る。バルドの頭に疑問が増える。
 先行く劉が中の従業員と言葉を交わし、すんなり部屋へ通されたあたり彼はここの関係者なのだと思う。
「ここにはうちの中国式マッサージを派遣してるんだよ」
 言われた通り。そしていざ、奥の部屋で二人きりとなった。装飾こそ張り巡らされていないが、清掃の行き届いたここは1ペニーのぶら下がり宿ではない。ベッドがメインの簡素なワンルームといったところ。
「じゃあ始めよう」
 部屋の奥に立った劉が言っては早速、自らの帯を解き出した。バルドの意思も質す前に、紫色の胡蝶柄に、その飾りボタンに手を掛けた。
「始めるって、そういうことかよ」
 ここで漸く気付いたバルドは鈍感か。こちらを向き、徐々に明かされる胡蝶の得体を今は目に焼き付ける。壁を飾るランプの灯りに依然閉ざされたままの瞳を確認し、まさかの展開を現実と知る。今は厨房に立つ己を忘れ、開いた口が戻らないほど、龍柄浮き立つその白肌にすっかり魅了されていた。
「さあ、おいで」
 ベッドに放られた衣服からはジャラリと不審な音がする。しかし裸で誘う男を前にバルドの足は自然と赴く。今更鍼に怯えたところで何にもならない、そう頭の中で肯いていた。
 バルドは細めの腰から腕を回し、抱き竦め、立ったまま首筋に口付け。少し冷え気味の素肌を愛でる。何の言葉を交わすでもなく夢中で薄い肉質に溺れ、先走る指先はすでに後ろの一筋へと辿り着いていた。
フゥ……ッ、という、ほんの僅かな劉の声を耳にしたバルドは次の行為を頭に描き、劉の身体をそっと傾ける。シーツに片膝を着き、優しくベッドに倒しかける、その時だった…………。
後ろでジジ……、というどこか聞き慣れた音。
「なんだ?」
 バルドははっと振り返るが当然そこには誰もいない。あるのは細く白い煙、見慣れた一本が床に転がる。先程のストリップに目を奪われるあまり口から零れ落ちたことに気付いていなかったのだ。
立ち上がったバルドは煙草を拾い、燃えつく寸前の絨毯を踏み付けた。そしてこの嗅ぎ慣れた臭いを、今は何よりも芳しく思った。
「こりゃ弁償か?」
 そう背後に問いかけた声が我ながらすっかり冷めていた。これ以上先は危険だと、火傷をすると、それは愛する煙草が警告していたのだ。
 こうしてまた誑かされている。明日にはあっけらかんとしてさっぱりなかったことにされてしまう。 考えては冷静に、我に返ったバルドはその後、うしろを振り向くことをしなかった。
「それはいいから、早く済ませてくれないかな」
 という背中の声はさておき、バルドは懐の一本を取り出す。途中まで貪っておいての捨て台詞はマッチを擦りながら、その場で一服を肺へ恵んだ。
「だいたいオメェ、あの執事だから抱かれたとか言ってなかったか? 本当わけわかんねぇな」
「でも彼はあくまで伯爵の執事。それこそ命令があれば我を殺っちゃう男。……って、そう言ったのはそのヤニ臭い口だよねぇ?」
「ああそうだ。それで俺は、オメェを殺して俺も死んでやるっつったんだよ」
 大事なことは二度言うものだと、それはあくまで執事に教わった。
「じゃあ一体、君はなにがしたいんだい? わかりやすく付き合ってあげたけど、これで違うと言うなら我はもう付き合いきれないよ」
「わかんねえのか? 俺は女に言ってんじゃねぇんだぜ」
 女ではない、男相手によくもふざけた台詞を言っている。吐き気を催すほどの酷い告白だが、ここで鍼が飛んでくることもなかった。
「そう…………」
 力の無い、呆れた声を最後に聞いてバルドはそこを出て行った。積もるイライラを吐き付けるだけ吐き付け、裸の男を一人置いて、仕える邸へと戻っていった。
「そうじゃねってんだよ……」
 夜更けの冷たい向かい風に、依然焦がれる無謀な想いをふわり漂う煙に乗せた。

 その夜、バルドは全く寝付けなかった。フィニの無邪気な寝息の横で今日知った身体をつい、思い返しては夜が明ける。寝たばこの禁止の寝室で一本だけと布団に篭れば酸欠に、そして執事に怒られた。
「だーっ、悪かったよ、ったく……」
 次に重火器をぶっ放しては今日は厨房にも立たせてもらえなかった。トリプルアイスクリームは湯気を発し、寝不足も重なりで一日頭痛が治まらない。太陽の眩しさに頭が割れそうで、結局のところ裏庭で一服。
 肺にこいつを注ぎ込めばどうにか楽になる。チリチリと燃える赤を見れば、どこか恬淡とした気分にもなる。儚く燃え尽き灰となり、そして涼やかな風に散る……。
 ふと立ち上がったバルドはその足で久々の母国に連絡を取った。
「なぁ、今一番危ねぇヤツくれよ」
 充血気味の乾いた目で次の新兵器を要求した。