極上のキレ味


 甘い男女の語らいを背に、カウンターで一人ビアマグ片手に浸る夜。テーブルにぐったり突っ伏したバルドは、その片頬に触れるひんやり感に、ポッと胸に灯る想いを熱い吐息に乗せていた。
「うーぃ、今日もぬるいぜマスター……」
 すっかり出来上がった虚ろな目で対面にいないマスター宛てに。
「……ったく何だよマイロードってよぉ、あいつはホンっト俺の料理わかってねぇ」
 ぬるいビールをグイと一飲み、日頃の愚痴を零しつつまたぐにゃぐにゃと現を抜かす。軽く胃が焼けるまで、ビールとウィスキーの合間に程よい微睡みを挟みながら、シェフは一人のオヤジと化した。許された夜は場末のパブで、カウンターにへばりそのまま潰れるのが彼の習慣となっていたのだ。
「俺だって、その気んなりゃ満漢全席だってやってやれんだ」
「へえ、それは楽しみだねぇ」
 頭上に浮く淡白な声に、バルドが顔を上げたのはその数秒後。視界が開けたのはそのもう少し後。
「な、ななななんでテメェがここにいやがる!」
 専ら神出鬼没の男は今日も煙管を手に現れた。今バルドの後ろから「マスター、あれ」と気さくにオーダー、隣の席に腰掛ける。
 あいよ、とマスターが手にしたのは、"Lau"のタグが付く壺のようなボトル。注がれるグラスに異国が香り、袖口から覗いた手がそれを口元へ運び、コクッと飲み込むと劉は饒舌に語りかけてくる。
「いやぁ奇遇だねえ、こんなところで会うなんて。うん、君はいつ見てもハンチングがお似合いだ。……でも、誰だっけ君?」
「……言っとくが、今日はツッコまねェぞ」
 にべない返事は昨日の今日を顧みて。バルドはビールで流し込む。
 大体どうしてここにいる、とした問いにはふと後ろを見やる劉。振り向いたバルドに談笑に沸く女性の一人が魅惑の笑みを投げかけてきた。凝った趣も装飾もない、全体に木目を基調とした中央の社交スペースからだ。
 主に下層中産階級、労働者や娼婦らの集うここは酒と女と日々の疲労で毎夜混沌として、バルドにはとても居心地がいい。目も綾なイブニングガウンに目移りしては、普段は映える中国服も呆ける花々の一輪と化す。それは隣の火皿に立つ煙の向こう、毒々しい青雲柄が徐々に鮮烈に、そのままゆっくりと現実が、胸にくすぶる深い疑念と重なり、やがて記憶が蘇る…………。
 昨夜から早朝にかけ不審なことが重なった。まずは昨夜のあの後のことを、バルドは隣の彼に問いかけた。
「それより昨日、何かあったのか?」
「昨日?」
「ああ。昨日カリーの執事が茶を淹れるとこに出くわしたが、あのよそよそしさはどうも気に障んだよな……」
ジロリと見やる横目の先、黙々と酒を嗜む劉に話を続ける。
「夜中も王子様の世話焼いてんだと思いきや、客室とは逆に向かおうとしたから訊いたんだ。したらよ……」
 呼び止めれば目も合わさず、茶は劉の依頼だとするアグニは実に素っ気なかった。客室は逆だと告げれば、向かう先は執事室だと彼は廊下を行く。その去り際に一言……。
『セバスチャン殿は、シエル様以外にも優しい御方ですよね……』
 思い詰めた眼差しは下に落ちたまま、アグ二は意味深な台詞を残し闇に消え去っていった。
「……何つーか、胡散臭せぇにも程があるよな」
 それ以前の、顔を合わせた厨房ではなかった屈託の色。それが茶を頼まれたという執事室で、劉の居たそこでセバスチャンの何かを知り、アグニは不信感に染まった。……というバルドなりの推測だった。
「ああ、それはね」
 劉は返事を躊躇うことなくグラスを置き、身を寄せ、バルドにこそこそと耳打ち。
「……………」
 すると、みるみる色をなしたバルドは咄嗟に席を立つなり、大嘘つきの胸ぐらを掴み上げた。
「……テ、テメェ!」
 セバスチャンとの上海ゲームで殴り合いにまで発展したところをアグニについ見られてしまった……などと誰が信じるものか。
「俺ぁ見てんだ、あんたらの見送りの場面をよぉ。……お前、うちの執事にまで色目つかいやがって、一体どういうつもりだ」
 それは今朝早くのこと、バルドは通りがかった広間から偶々目撃していた。玄関に射す朝日の陰り、劉から仕掛けられた別れ際のキスシーンを。執事と客人による禁断の逢引は皆の目を潜り抜けて、そのさらりと唇をさらう瞬間が今もバルドの中に色濃く残る。同時に沸き立つ焦燥が嫉妬に辿り着くその前に、バルドは今日も兵器をぶっ放した。
「一体何のつもりだ! 何を企んでやがる」
 不機嫌にまくし立てるが、理不尽なばかりのイライラは軽く否されるだけ。滑稽な一悶着の後、席に着き不貞腐れるバルドの肩にぽんと手が置かれるが、長らく勿体ぶった後の優しさこそまた薄っぺらい。
「まあね、君には色々と世話になってるから、別に教えてあげてもいいかな?」
 そう得意げに微笑む劉には事実貸しがあり、二人の秘密は今なお有効である。ほぼ一方的な口約……仕えて間もないとある晩からずっと、バルドの中には色々な感情が渦巻いていた。

 ――およそ一年前。坊ちゃんの入浴準備を済ませた後、兵器搬入口の戸締りをしに一人裏庭へ回ったバルド。暗がりの中彼が鍵を閉めていると、踵を返したその背後から突如誰かが絡み付いてきた。
「だ、誰だ……?」
 慌てて振り向く寸前にもつうと首筋を這う湿り。羽交い締めにする細い上肢は至って微力、なのに振り解けない。口付けを受けたうなじから妙な痺れがじわじわと身体中に染み渡り、不快な汗が滲み出る。その中で、バルドは夜目にあの太い袖口を見ていた。
「やあ、こんばんは」
 耳元に触れるいやに艶を帯びた声。そして平然と離れた劉の手には確かポケットに入れたばかりの搬入口の鍵がある。
「か……返せこの野郎!」
 くるくると鍵を弄ぶ指へ、飛びかかったバルドはさっと躱されてしまった。気付けばまたも羽交い締めにあい、うなじに吐息混じりの声を聞いた。
「我は君との合鍵が欲しいだけ」
 ふざけんな、とすぐにも怒鳴りたい、開きかけた口は唐突なキスにより塞がれる。
「ほら、あんまり大きな声を出さない。ここだけだったんだよねえ、執事くんが管理してない出入り口。……ああ、この鍵は作ったらすぐ返すから。それに、ここで悪事を働く気はない。君の立場を危うくする真似は絶対にしない」
 一方的な条件がキスの合間に綴られる。その間にも逃げられたが、直に触れる声に唇にバルドの余力は奪われた。動けない、声も出ない、逆転を計る神経以外なにも機能してくれない。
 程なくして、ガクガクと膝が震え出す瞬間にもバルドは悟った。外気に晒す自分のうなじに、今鋭利な針が突き刺さっている…………。
「君案外、素直でいいね。好きだよ君……」
 甘過ぎる囁きとは裏腹のこの状況。全身がじんじん痺れ、とうとう倒れかけた身体が後ろから支えられた。
「テメェ、何だよこれ……」
「何てことはないよ。我はこの邸にも興味があるだけ。出来るなら居候したいくらいだけど、あの伯爵が許してくれるはずないからね」
「当たり前だろ」
「まあだからさ、君は今日のこと内緒にしてくれないかな? 我だって、君が快く鍵をくれたことは秘密にしといてあげるから」
「それはテメェが……」
 咄嗟に後ろを振り返り、怒りをぶつけようとした先にはまたも口付けが待っていた。……と見せかけた罠で、忍び入る舌先により不意にアルコールが注がれ、バルドはうっかり飲み込んでしまった。
「な、ななななんだよコレ?! まさか毒か? 殺す気か?」
 慌てて腕を振り切った途端、あっけなく膝が崩れバルドは地面に倒れ込む。
「ほらほら、証拠隠滅しただけなんだから静かにして。はいコレ持って」
 そう言って手渡されたのは酒の瓶。同時にすっと首の鍼が抜かれる。
「覚束ない足取りを疑われないようにね」
「疑われるって、ったく何なんだよ、おいテメェ……」
 まんまと鍵を手にした劉はその後、何事もなかったように去っていった。
 バルドはなんとか立ち上がると、酒瓶を手に千鳥足で戻ればそこにセバスチャンの白い目が待つ。暫しの禁酒を食らったのは言う間でもなく、まんまと嵌められた形だ。
 …………それからだった。劉が邸に上がり込み、その都度漏れる主の吐息に後ろめたさが募る日々。 罪悪感こそ抱くバルドだが、劉は約束通り鍵を返してくれて、何かと首を突っ込むだけで悪事を仄めかすこともない。こうして酒を交わす今日も平穏でいられた。
 ――――が、昨日何があった、の改まった回答にバルドは色を失った。
「軽蔑した?」
「ああ……」
 一晩身体を愛でてもらった、と聞いてはただただ軽蔑する。劉のこと、答えは事実と限らないがどうしてここで、なぜか急激に血の気が増す。顔が強張りぎゅうと胸が潰れる痛みを否定できないでいる。
「あはは、身内思いだねぇ君も」
「そうじゃねぇ……」
 忽ちぼっと顔が火照り、グラスの残りを一気に飲み干しロックをもう一杯。こんなことで自分の気持ちを思い知るとは思いのほか不愉快だった。
「なあ、何が悲しくてあいつなんだよ」
 遠く据わった目を前方に、理由を質せば劉は再び身を寄せてくる。
「ああ、実はね……」
 神妙な声で再度耳打ち。一変して、ねちねちと女々しい泣き言が吹き込まれる。
「実は最近、藍猫が全然かまってくれなくてさ。兄妹なのにお風呂も一緒に入ってくれない。我はちょっと疑っただけなのに、本当酷いんだよ我の小妹……。だから昨日、執事くんに優しく慰めてもらったってわけ」
 ……呆れて言葉を失った。バルドは憮然と、そんな奴だったのかと正直見下した。
「誰でもいいってやつか」
「うん、でも君はダメ」
 即答のノーにまたも逆上。なに……? と睨め付ければ劉は益々つけ上がる。
「我だって、それなりに相手は選ぶつもりだよ。でも君がどうしてもって言うなら、相応の条件がいるよね」
 そう言って、劉が下の方で見せたジェスチャーとは……
「金かよ……」
「おおっと、これだから米国人は。少しは格式高い中国人を見習ったらどうだい?」
「格式高いか?」
「もっと高級な中華料理を口にした方がいいよ。例えばこんな……」
 こんな……とされた高級な中華料理。バルドは大きく目を剥いたきりそこで時が止まってしまう。
今確かに交わした唇、公衆の場でのフレンチキスに、朝見たばかりのキスシーンが瞬く間に塗り変わる。容易く色情倒錯が起こる。
「……そうやって、俺までたぶらかそうってのか」
「まさか」
 じゃあまた、と席を立った劉は平然と夜の社交場へ溶け込んでいった。真っすぐ女の輪へなだれ込み、デレデレと鼻の下を伸ばす姿は実に情けない。このような男に揺らぐ心を派手に爆破したくなる。
「なあマスター、ちっとはエール冷えねぇのか?」
 注文して受け取ったマグをバルドはキュッと流し込んだ。
「……ハァ、まだまだぬるいな」
 もっともっと、キンキンに凍てつくほどの苦味走ったキレ味が欲しい。そいつを芯から注がないとこの火照りはとても収まりそうにない。
 あぁあぁ、煙草に飢えたガサガサの唇が、駆け出しのシェフには高級な中華料理を愛して止まないとは、元軍曹も堕ちたものだ……
「ったく、男と弄り合ったあとで女にも手ェ出すたぁ、こりゃ相当の好きもんだぜ」
 酒焼けの声でぼやく背後に、「あははぁ、ココも可愛いねぇ」女性の輪にすっかり溶け込む劉の声を聞いた。
 いつの間にか小さなハーレムを築き、見境いなく女をたらすそいつが無性に腹立たしく、苛立たしく、バルドは愚痴ついでの確信をぼそりその場で零してしまった。
「このザマじゃぁ、あの妹も確実に食ってやがんな」
 すると刺すような視線は背後から、切れ長のアイラインに潜むあの忌まわしい眼を背中に知る。そしてバルドが振り向くより先に、ソコに透かさず飛んできたのはあの日と同じ凶器だった。
「ギィャアアアアアア!!!」

 断末魔の響き渡る店内から、お代を支払った犯人は涼しい顔で去っていった。
「あいつ、覚えてろ……」
 キンキンに凍てつくほどの、極上の切れ味は今見事バルドの急所に刺さる。彼はあまりの激痛に泡を吹き、ゆっくりと椅子からずり落ちていた。
「ああったく、ホントなんだってんだもう……」
 止め処ない怒り、行き場のないもやもやは胸に積もるばかり。床にへたり込んだまま起きる気力もない、ぐうの音も出ない。いっそ砲口を自分自身へ…………。
「クソォッ」
 暫し騒然とする店内でバルドは涙ぐんでいた。