その煙、


 今日も盛大に壊した厨房で、バルドは漸く片付けを終えたところ。
「フぃー、やっと終わったか」
 荒ぶる雷雨を壁の向こうに、懐から新たな一本、締めの一服をまったりと噛み締める。調理台を前に一人手を腰に、地味に眉を寄せ明日の買い出しリストを眺め、肉が足りねぇじゃねーかと小指で耳を穿りながら、やがてフゥ、と吐き出した煙の中へ……。筋張った右手は自然と浮き上がり、遠い幻に吸い込まれるよう、その紫煙に触れていた。

 爆風に舞い上がる砂塵。炎天下の焼け付くような戦場。
 目も喉も心も乾く霞んだ景色の中、銃弾に肩を貫かれた軍曹は激痛に悶え、傍に倒れた衛生兵からモルヒネを奪った。そして自ら刺した注射針により現を消すと、すると不思議……たった今、目の前で殉職したばかりの仲間達が幸せそうに笑っていたのだ。
「なぁ、なんでだよ…………?」
 なんでいつも俺だけなんだと、軍曹が問い質す前に笑顔は消えた。
 結局のところ、また仲間はずれにされわけで、己のタフ過ぎる生命がいつもいつも恨めしかった。恨むことで故人を悼んでいた気もすれば、生き恥とすることで過去を美化していた気もする。そして顧みては胸が詰まり、息苦しさで目を覚ましては、今は手紙で伺うだけの母国を思ってみたりした。
 ………………いや、違う。バルドは先程から微かに不審なにおいを嗅ぎ取っていた。
「おかしいな」
 取り出したケースにいつもの銘柄を確認。変だな、と訝しむ背後に聞いた、忽如妖しい男の声。
「それどこのだい?」
 無防備な耳許へ、至近距離に触れた囁きは凛と甘い。
「またかよ……」
 口からポトリ、吸いさしの煙草が零れる。
 バルドは振り向くより先に懐の銃を握ると一歩で間合いを外れ、振り向きざまに銃口を向け、そして吸いさしが落ちる直前に………………いざ、落胆した。
「あっははぁ、そんなに慌てなくてもいいでしょう。今日は何もしないよ」
 下ろしかけた銃の向こう、美味そうに煙を蒸す、白い長袍を纏う中国人があっけらかんと笑っている。今や常連ともいえる客人、劉のそれらしい登場だが、ここまで物々しい行動をとったバルドには少しばかり理由があった。
「ったく……」
 一人ささやかな時間を邪魔され、ツンとそっぽを向くバルドの横に歩み寄る劉は、馴れ馴れしくケースの銘柄を尋ねてくる。
「それよりこれ、わざわざ米国から取り寄せてるのかい?」
 バルドが先程、取り出してすぐしまったはずのそれが今は劉の手にあった。貿易商という職業柄か、彼はケースを興味深そうに見つめていた。
「高いもんじゃなさそうだけど、こっちじゃ見ないね」
「ああそいつぁ、兵器と一緒に頼んでんだ」
 へえ、と煙管を咥える劉へ。バルドは銃を置くなりずいと眼前に詰め寄る。先程からずっと不快に思っていたそれを、黒壇の羅宇を金が飾る、火皿に立つ怪しい煙を不機嫌に問い質した。
「おい、この神聖な厨房で阿片吸う奴があっかよ」
 劉が阿片を扱っていることは以前こっそり勧誘を受けたことで一応記憶している。「お兄さん吸ってく?」などとふざけた誘い文句は本人から、不覚にもドキッとしたのは内緒の話だ。
 そして何よりこのニオイ、眼下に覗く唇からもふわり危険な香りが漂う。同時にじわり、肩の古傷が疼き出していた。
「早く消しやがれってんだ」
「やだなぁ皆して、これはハッカだって言ってるのに。それに、君だって吸ってるだろう?」
 不機嫌にどやすバルドに対し、にこやかに否す劉は片手間にもう一服。その肺を通したばかりの煙が今、むくれたバルドの顔中心目がけフーッと直に吹き付けられた。
 タイミングよくうっかり吸い込んでしまったバルドはゲホゲホと喉元を押さえ、ぬ……と顔を顰めたきり、爆発寸前の二の句を封じた。使用人である手前、強く握る拳の内に不満を留め込んでいた。相手は仮にもお客様であり、お客への無礼は己の解雇に繋がるのだ。しかしそんな劉が一変して、霞む視界の奥で微妙な陰りを見せるからバルドは少し困ってしまった。
「それに、我は阿片が嫌い……」
 いつも余裕綽々な態度がどこか高慢とも取れる男が、今はちょっぴり俯いている。なんだか意外な面を見た気がして、バルドは更に眉間を寄せ、そして、そこに更なるシワを刻んだ。
「なんなら君も吸ってみる?」
「あ…………?」
 ……果たして、つい先程見たばかりのあの屈託はなんだったのか。持ち上がった劉の笑顔に今は愛嬌すら汲めるからもう、謎でいっぱいだった。謎ばかりを繰り出すその唇から離れたその小さな吸い口が、やおらこちらへ伸びてくる。まるで、男を誘惑していた。
「スッとして落ち着くよ?」
 それはバルドの口が拒むより先に、下から薄笑う口許がミステリアスな色気を押し付ける。不意の毒ガス攻撃により脳が指令を忘れては、元軍曹は三の句も失くし、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「我もこれ、母国から取り寄せてるんだ」
「そ、そうか……」
 バルドはとうとう吸いさしを取ると、妙な緊張を患ったまま、思えば初めての煙管を口にした。ぎこちなく咥えたそこからゆっくりと煙を吸い込み、肺へ広がる清涼感を適度に嗜む。スーッと馴染む爽快感、今日の疲労を解き放つ感はまあまあだという素直な応えは真っ黒な肺から。
「ああ、なるほどな……」
 ほら、やっぱりだ。しっかり紛れてんじゃねぇか。
 呼吸が落ち着き、徐々に脳が蕩ける感覚はそう慣れるものじゃない。やがて程よい微睡みを誘い、淡い幻覚を齎す。
 ――――そう、この感覚。モルヒネはこれを元に作られている――――
「昔っつっても最近だが、身体は覚えてるもんだな」
 バルドは眉間を押さえつつ、目の前にいる大嘘吐きをじっと睨みつけた。
「あれぇ? これ百パーセントじゃなかったっけ」
 白々しくおどける劉へ、「中国人ってヤツぁわかんねぇな」と煙管を突き返した。「我にもわからないねぇ」とする華僑の彼は謎ばかり、まともに取り合うのも馬鹿らしくなる。あまりにくだらなくていっそ可笑しくもなり、乾いた笑いが込み上げてきては隣の男も口角を上げる。思えば在英同士だったりする。
「たまに帰ったりしねぇのか?」
 口直しの一本を手に、余計な勘ぐりさえ除けば気の合う面も見せてくれた。
「時機にまた、戦争が始まるだろうから」
「ああ、今や恰好の対戦国だもんな」
「どこぞの国が素敵な条約を下さったからね」
 初めてまともに交わす会話は清を中心に、共に十九世紀末の世界を見る。
 そっと袖に煙管をしまい、そしてしみじみと呟く劉はまた、見慣れぬ顔をしていた。
「まったく、たかが阿片でね……」
 そう言って、彼は薄く眼を開けたのだ。
 間近に見たところでやはり奥までは見えない、闇の渦巻く漆黒の瞳。彼はそこに何を映してきたきたか、冷たい色に背筋が凍りバルドは思わず視線を逸らした。
 そんなバルドもまた遠い目で、悔やみ続ける思いの内を先の幻に馳せた。
「現場に居続けっと、指揮官ですら周りが見えなくなるってんだから、ホントしゃーねーよ。アホばっかだ」
「異常な愛国心を産むのが戦争。だから勝っても負けても繰り返す。永永無窮にね……」
 馬鹿で不毛だと言いた気な劉の瞳は程なく閉じられた。それのどこが面白いわけではなかったが、「ま、同感だ」バルドは鼻先で笑った。
 その綺麗な白肌が戦争の何を知るか、そこに癒えない傷などあり得るのか。間接キスを経て見た陰りに、あの日唯一生き伸びた魂が今、脈打つ心臓に怯えていた。
「時に君」
 ただの呼び声にすらドキリとして、我に返ったバルドははっと顔を上げるが、その用件はまたもくだらない。
「ここに、北京ダックなんかあっちゃったりしない?」
「ダック……!? ダックってあのー、あれか、アヒルちゃんか」
 まさかのダックに、バルドの太い声は高く上擦った。
「そう。可愛いアヒルちゃん。ちょっと小腹減っちゃったんだけどさ」
「こんな時間にかよ。……の前に、それってウマイのか」
「もちろん。中華鍋で熱々に煮えた高温の油をアヒルちゃんのやわな裸体に幾度と浴びせてぇ。皮はパリパリ、肉はジューシーに仕上げた中華料理だけど、君知らないのかい? シェフなのに」
 生唾誘う劉の北京ダック講座だが、バルドの耳が聞き取ったのはシェフ、後の"なのに"で途端に萎えた。
「んなもん知らねぇが、浴びせりゃいいだけなんて中華料理も堕ちたもんだぜ。ま、オレ様特製ハカイ・ド・チキンにゃ及ばねぇだろうが」
「ハカイドチキン?? ああ、あれね。あんまり知らないけど」
「知らねぇとは言わせねぇ。なんならこの俺様が今から……」
 ……と、シェフがはりきって袖を捲り上げたところ。
「バルド!」
 キリリと窘めるその声は厨房の入り口から。朝な夕な鄭重な執事様がシェフ魂に水をさす。
「あれぇ? 執事くんも小腹減ったのかい?」
 劉のとぼけには笑顔で応じ、部下であるバルドには冷ややかに。
「バルド、夜に騒がしいですよ。片付けが済んだならもう休んで下さい」
「俺だって休みてぇのに、コイツが北京原人ねぇかだの無茶言うからよ」
 コイツ……と指すバルドに再度、「バルド、お客様ですよ」「へーへー」
 やってらんねぇと呆れるバルドをよそに、ここへ立ち寄ったセバスチャンは劉を迎えにあがったようだ。
「劉様、大変遅くなりました。これからお部屋へご案内いたします」
 どうぞこちらへ、と頭を下げる執事。するとその背後から厨房を覗いたのはなんとカリーの執事で、今日も炭をこしらえた料理人に早速両手を合わせると、彼はまた、あの魔法の言葉をかけてくれた。
「これはこれは料理長殿、ナマステジー」
 料理長なのにでなく"殿"を敬称とする唯一の理解者だ……とバルドは勝手に思っている。
 奥からは王子も顔を出し、暫く世話になる、と言ったそばからアグ二がカレー鍋を運んできた。身の詰まった寸胴を台に置き、そして自他共に認めるファントムハイヴのシェフへ一言。
「料理長殿、ぜひまたお手伝い願います」
「おう、まかせとけってんだ!」
 シェフ魂に熱が返ったところでセバスチャンが客人三名を廊下に連れ出した。
 すると元の静けさを取り戻した厨房はバルド一人。また忙しくなるなと自信を滾らせ、さっそく兵器を手配しようとしたそこへ、何故か出て行ったはずの劉がひょっこり顔を出したのだ。
「そうそう、あれは本当にハッカだからね」
 それだけを告げるとすぐに行ってしまい、「な、なんなんだ………?」バルドは暫し首を捻ったあとで嘘つけ、と苦笑。今更何をと呆れるが、強ち嘘でもねぇか、とも思う。
 それから調理台の上に明日の買い出しリストを置き、そこに勝手に食材を書き足しながら、「肉肉肉肉肉……。っと、あと………」肉の字を連ねた後で肝心なもう一つを書き足すなり、ふと顔を上げた。
「……そういや、笑うとアヒルみてぇな口してやがったな」
 いやそうでもないか? と一人にやけるバルドは今、密やかに誰かを思う。可愛いアヒルちゃん、などと口にする男はどこの誰か。今日はやけに幻を見るようだ。
 そして"北京ダック=アヒル+油+重火器"という、待望の新レシピが加わったことにバルドは不敵の笑みを浮かべた。