猫恋慕

「劉を呼べ、今すぐだ」
 若干お怒り気味の主に従い、私たちはただいま本邸に帰宅したところ。そこで折好く居合わせたのがまた、その本人だったとは……。
「やあ伯爵。あれぇ? 今日はご機嫌ナナメかい?」
 ドアを開けてすぐの広間に、お帰りなさいませを口にする使用人に紛れのほほんと出迎える劉様。何かと同行する彼とは、小慣れた使用人らもすでに近しくあるらしい。
「お前……わかっててここに来たのか」
「まあね。日々忙しい伯爵のために、機を見て我から出向いて差し上げたんだよ」
「なら話が早い。応接室へ通せ」
 ピリピリとした坊ちゃんの命に、頭を下げたメイリンが劉様を応接室へ。私は一度厨房へ出向く。

 サーッと雨が降り出した頃、私は応接室のドアをノック、踏み入ったそこでやや声を落とした。
「本日はセイロンティーをご用意いたしました」
 台車に置いた2セットの上でティーポットを傾ければ、色合いも温度も我ながら最良、キャンディ地方の茶葉はクセなく万能で調合したレモンピールを見事立たせる。が、ちょろちょろと注ぐ音色も香りもまだ二人には届かないらしい。
 遠く長テーブルを囲い、黙し合う二人の片頬に仄暗い雨が陰る。ゴロゴロと唸り出した窓の向こう、黄昏時の分厚い雲が室内をより曇らせていた。
「……で、僕に言うことはないのか?」
 低めの頬杖から放つ坊ちゃんの声はその年齢より据わっている。
「言ってもいいけど、言ったら伯爵は怒るだろう?」
「当たり前だ」
 睨め付ける坊ちゃんに対し、やれやれと眉尻を下げる劉様は今日も悠長に煙管を蒸す。そして吐き出した煙に続く、口角を持ち上げての台詞はいつも決まって禍々しい。
「そう……。その顔が目に浮かべば夜も眠れないってもんだよ」
「何だと?」
 ……もう幾度となるこのやり取り。坊ちゃんにもそろそろ学習していただきたい。
「失礼ですが劉様、事の内容をご存じですか?」
 劉様の御前へカップを差し出し、そのすっきりとした耳元へ伺えば……
「うん、我も頭抱えちゃうほど、また厄介な問題を呈してくれるよねぇ伯爵は。我も色々な人間と関わってきたつもりけど、あそこまで面倒に好かれる人間もまた、偏屈な面を持ってるってやつかな?」
 軽妙な口ぶりに、確信が崩れかけたのはほんの一瞬のこと。
「いやあ、ホント執事くんの言う通り。我はそれを訊こうと思ったのに伯爵怒るって言うから、まったく大問題だよ。困ったねぇ執事くん〜」
 ガクッと頬杖を崩す坊ちゃんと同時に私もトレーを床に落とした。劉様は今日も期待を裏切らなかった。
 坊ちゃんはハァ、と息吐くなり、今度の件を気疎く語り出した。
「最近東洋人街で、価格破壊に近い安価な売春宿が繁盛してるのは知ってるな? 知らないとは言わせないが」
「ああ、アレね。うん知ってるよ」
「まさかお前の店じゃないだろうな?」
「いやあまさか。ウチはそっちはやらないから。その一歩手前くらいかな?」
 坊ちゃんにもカップを差し出せば、対面の男を見据える目に強い確信が覗く。
「だが関わってはいるだろう? 女を遣い多量の阿片を売りさばく。無関係だとは言わせない」
 欲目なしを見せつける番犬へ、フーッと煙を吐き出した劉様は、その流れを追うようにしてふと視線を逸らした。
「……いや、我は本当に知らない」
 そう呟いた先の雨雲が鬱々と涙していた。
 坊ちゃんはショバ代を忘れたかと間髪いれず声を張り、燻る煙霧に目を窄ませそっと足を組み直す。そして禁忌に触れる異邦人にここ英国の秩序を諭す。
「風俗も阿片売買も今はまだ、厳しい法の下にない。しかしあまり派手にやられてはだな、風紀が乱れるとされた結果、法が強化される。泣きを見るのは己だ。ましてや中国人ともなればお上もいい顔はしない……って、こんなこと改めて言う話じゃないんだがな」
「そこは女王だと言ったらどうだい?」
 また嫌味な言い方をする劉様へ、そっとカップを手にした主は、口許へ運ぶその前にしれっと離反を散らつかせた。
「歩に見合わなければ手を切ってくれてもいいんだぞ? そうなれば別を雇うまで。……いや、阿片窟など閉めてやる」
「酷いなぁ伯爵は。いい友達だと思ってたのに」
「そう思うならさっさと吐けばいい。お前じゃないならどこの誰なんだ?」
 問題が振り出しに戻ったところで、劉様は今一度、大きく吸った一服を長くゆったり吐き出した。そしてじっとその眼を閉じたまま、程なく犯人を零したのはどこか物憂げな薄い唇。
「それは……我もよく知らない男」
「しかしそいつに阿片を流してるのは結局お前だろう? この国にそう易々と阿片を持ち込める人間など限られてるんだ」
 にじりよる坊ちゃんの目は言い逃れを許さない。警察より有能かもしれない主に、容疑者がこれ以上口を割ることはなかった。
「同胞の為なら、例え女王を敵に回しても、だったな。それで信じろというのも難儀な話だ」
「でも我は本当に……」
 この手の問題は遅かれ早かれ事件に発展する。警察が時機調査に入るが、尻尾を掴めなければその時こそ命を授かる。そうなれば容赦はないと淡々とまくし立てる坊ちゃんと、すっかり口を閉ざした劉様。
 劉様は三服を終えた煙管を袖に、ゆったりとしたその中へ両手もしまい込んだ。今はうっすらと開いた眼でじっと坊ちゃんを凝視、外気を嫌う潔癖の目が暗に反目を告げるよう……。
 すると直後、一変してその黒目に映り込んだのは、本来ならそうあるべき幼い天使の姿だった。
「劉……。僕はただ、お前にこそこそやられるのが気に入らないだけなんだ」
 終ぞ見たことのない、笑い方を忘れた主による天衣無縫の笑顔……。悪魔にすら悪寒が走るほどの驚異であり脅威であり、私は再び落としたトレーを拾い上げた。
 劉様にもまた、その冷め切った血が感じられたのだろう。
「は、伯爵…………?」
 彼は暫し色を失ったように、はっと顔を上げ息を呑んだ。
 劉様にも本業ならではの背景が窺えるわけだが、坊ちゃんの傷を推し量れる人間こそまず稀で、これでこそ我が主……と私はここで思うべきか。腹黒く胡散臭くも何かと坊ちゃんを慕う、そんな彼にも疑心を欠かせぬ孤独の業。坊ちゃんは今日も全うしている。
「ハァ、伯爵にここまで言われるなんて哀しいなあ。我は本当に知らないんだよ。もう泣いてもいいかい?」
 そう言って席を立った劉様はそれらしく肩を落とし、返事を待つより先にこの部屋を出て行った。煙たさと東洋の香りを仄かに残し、白い長袍の背中を最後に、パタリと扉が閉まった。
「何か隠していますね」
 私が漸く口を挟めば、手付かずのカップを見据える坊ちゃんにもう先の笑顔はない。淡々とこちら側の話を、劉様の嘘を早速掘り下げる。
「隠しているのは違いないが、嘘を吐くにも臭すぎると思わないか? 男と言ったからには少なくとも経営者を知ってる。それを隠したい何かがあるとして……」
 しかし相手は劉様、その内側はどこぞのカリー並みに宇宙の真理を探るようなもの。
「あー、益々わからん奴だ」
 坊ちゃんは呻くように言ってぐしゃっと頭を掻き乱した。
「疑うのはまだ。様子を見て、少し調べてからでも遅くはないかと」
 心理戦とて論より証拠。私は命を授かる前に一旦カップをお下げした。

 本格的に降り出した窓の外。すでにカーテンの紐を解き、キャンドルに片手を翳し部屋中の火を灯し、ふんわり夜の温もりが射したここで、私はこれから執事としての大事な命を授かる。
「……そうしていつか掌を返され、裸のキングと化した僕は最高のお笑い草だな」
 自嘲気味に吐露された主の胸中。留め処なく凍てつく血は疾うに氷点下を下回り、まるで騎手以外の全てに裏切りを見据え、よもや信頼など抱かない。そう、貴方ほど哀れで孤高で極上の魂もないわけですが……。
「と、申しますと……?」
 命を促しつつもぐっと食欲を抑える私に、それは意外な機会を与えてくれた。
「セバスチャン、モルモットも飼い慣らせないやつを執事と呼べるか?」
 後頭部からするりと眼帯を解いた私へ、見上げた契約印がいざ、非道の悪魔に命を放った。
「こうなったら素っ裸にしてやれ。表に障らなければ特に方法は問わん。…………ただ、今回の件に関してはなるべく、本人の口から直接欲しい」
「御意、ご主人様」
 首輪付きの犬である私は、主の命を一句違わず全うする義務がある。命がなければ動かぬよう、主に厳しく躾けられている。
 ならば仰せのままに、執事の美学も気高くあるなら悪魔は何も厭わない。

 やがて夕食後の一仕事を終え、一旦執事室に戻った私はそこで首を捻った。
「あんなにしゅんとしていらしたのに、劉様という方は、まったく……」
 つい先程のこと。すでに帰ったと思われた劉様がまだ邸内にいたのな。雨がすごい、帰れない、と何食わぬ顔で食卓に着き、ねえ伯爵〜、と慕う彼には坊ちゃんもほとほと呆れていた。
 しかし、それもまたらしい話。私は閉めたばかりのドアを背に、卓上の招き猫に僅かな驚きを見せた。
「まさか本当に叶うとは……」
 迷信に過ぎないただのハリボテが事実機会を招いたということ。手招きされるままに歩み寄ったそこで、私は彼の額を撫でてみた。
 そこにトン、トン、と間を置くノックは程よく丁寧。ドアを開け出迎えれば、今度は褐色の笑みの眩しい執事が廊下に立っていた。
「セバスチャン殿、ナマステジー」
 屈託のないその笑顔には後光すら映える。両手を合わせ微笑む彼こそ人類の神として皆崇めていただきたい。
「アグ二さん、居らしてたんですか?」
「ええ。実は、私がうっかりガネーシャ像を投げてしまったところ、タウンハウスの屋根に穴が開いてしまい、そこから雨が入り込みまして……。今シエル様に工事をお願いしたところで……」
 ……だから雨が明けるまでここで世話になる、という託け。おそらく渋々納得した主からの、部屋を空けてくれ、という簡素な伝言を承った。
「かしこまりました。ただいまご用意致します」
 後の騒がしい日々を憂いつつ、客室の鍵を三本取り出した私はふと、ガネーシャ像云々の件に遅まきながら疑問を持った。
「しかし穴を開けたというのは、ひょっとしてソーマ様ではありませんか?」
 器用なアグ二さんの所業とは思えず、廊下で待つ本人に質せば彼はわかりやすく狼狽える。
「ま、ままままさかそんな、ソーマ様ともあろう御方がそんなことを致すわけございません。全ては私の過ち、本当に何とお詫び申し上げればよいか……」
 しおしおと項垂れる彼には余計なことを言ったようだ。内心省みながら、その出来た人間性には改めて感服、今日も執事の美学を見た。
「一刻も早く雨が上がるといいですね」
 にっこりと、心からの笑顔で。

 そうして閉めようとしたドアの向こう。隙間から覗く部屋奥の、卓上に乗る招き猫がいつもよりにやけて見えたのは気の所為か。可笑しなことに、それはもはや卑猥なほどに、誰かに似た薄笑う目がまるで私を挑発する、誘惑している……?
「ハァ…………」
 あの時と同様、渾然一体である悪魔という存在にまたも懐疑的になる。交錯した猫狂熱がとうとう末期を迎えたか、あの薄い顔立ちに私の思考が占領される。
 ……果たして、これからどうやって与えられた機会を生かすべきか。崇高な気持ちで偶像を仰ぎ、人間らしくそれを崇め、醜い欲を胸に抱いてみる。一方では冷静に、玩物喪志の気を案じては私の本志を問いかけてみる。

「それとセバスチャン殿、今度カリーパンの作り方をご教授願いたいのですが」
「ええ、都合のよろしい時にお申し付けください」
 長い廊下を歩きながら、執事どうし無用な談笑を交わした。その時すでに訪れていた機会に気付くことなく、私は執務に勤しんでいた。