胡蝶の夢


 不穏な空模様がいつまでも窓の外を覆っていた。ファントムハイヴ邸が、イーストエンドが、ロンドン中が火の海に呑まれたという報せの後で、貴方は傷だらけの重体でここに運ばれてきた。目も開かない、声も上がらないという使用人皆が同じような容態の中、伯爵も執事くんもここには現れず、アグニと王子と藍猫と、快復の兆しの見えた我とで彼らの看病にかかっていた。そう、我も……。次々に運び込まれる怪我人で病院はとても手が回らず、我の寝ていたベッドもすぐ使用人の坊やに明け渡した。
 アグニが言った。
「実は、セバスチャン殿がここに彼らを連れてきました。暫く看ていてほしいと、彼もまた酷く傷付いた姿で……」
 それだけ、理由も発端も犯人もわからない。新聞も発行が間に合わず、他に病院の中から知り得る情報も少なく、呼び出した手下ですら何も掴んでいない。魔獣が出ただの火を吹いていただの空想ばかりが飛び交っていた。空想……強ち現実だと思うのは死神を見たばかりだからだ。きっと彼らも関わっていることだろう、そんな予感がした。
 結局、一週間と経たずバルドは同じベッドに戻ったわけだ。医師の手により辛うじて命は取り留め、暫く静かに眠っていた。至る所に刻まれた傷も真新しいまま、二日が経過しようと今も眠ったまま、意識が戻らないままだった。
『ああそうだ。それで俺は、オメェを殺して俺も死んでやるっつったんだよ』
 ずっと彼のそばにいるからか、何をしていてもその声が我の手を止める。もしもこのまま、永遠に彼の意識が戻らなかったら我はどうなるのだろう……。見下ろす度にそんな女々しい不安が過ぎった。意識のない彼がいる現実は、記憶のない彼のいる現実よりもっと乾いている。あの日指先に触れた蝶はまた、夢の世界に舞い戻ることだろう。
 ふと、夕陽の射す背中からアグニの慈悲深い声を聞いた。
「劉様……。きっと大丈夫です。あんなに元気な料理人殿が目覚めぬなどあり得ませんよ」
 朋友の我を思いやる声音は胸の奥まで沁み入るが、それだけだ。空は赤く燃えたまま、新しい時代の幕開けどころか幕が閉じてしまったのだから、こんな時に彼が起きてくれないなら笑い飛ばす気力もない。
「そう、だね……」
 記憶が欠けようともまた馬鹿が出来たのに、叶わずとも再び愛着が芽生えたというのに、現実はやはり残酷だった。例えどんなに恨んでも変えられないのがこの薄暗い現実で、だから皆、夢の世界へ焦がれて逃げる。この現実が夢だとしたら……そんな錯覚が起こったりする。こうして壁を背に突っ立ったままで夢を見ながら現実を生きる、所謂廃人となるのだろう。何も感じなくなる。酒を口にしても身体を通過するだけ。ただ夜を迎え朝を迎え、重く垂れ込めていた雲の合間から清々しい朝日が射せば、窓からまたあの蝶が舞い込んできたならいよいよここは夢の世界だ。こんなにも煌びやかな夜明けはあまりに久々で、現実にしては眩しすぎた。あれだけ焼け爛れたロンドンに相応しくない快晴だ。まるで、一気に鎮火したみたいじゃないか――。
 そこにアグニがやって来て、我にこう言って去っていった。
「劉様、私はソーマ様と共に、街の人へカリーパンを配りに行って参ります。彼らを宜しくお願いしますね」
「ああ、わかった」
 我を見たアグニの顔が晴れないのは、我の空返事が目に見えているからだ。彼が何を言ったのかもう覚えていない。見える景色がただ他人事のように流れ過ぎるだけの映像となる。聞こえる雑音は遠退いて、何かが手首に触れる感触すら皮膚から伝わってこなかった。これでは熱湯を浴びても声すら出ないのかもしれない。何故ならこれは、現実ではないのだから――――。
「おい、おいっつってんだろ?」
「もうバルドさんは煩いなぁ?」
「ですだぁ。まったく眠れないですだよぉ」
「黙ってろい! おい、テメェ聞いてんのか? おいって!」
 三人のうち一人がやけに騒がしい声に、数瞬が過ぎてから漸く体に五感が戻った。
「えっ? ああ何?」
 手首が強く掴まれ揺さぶられ、耳を貫く嗄れた声になかなか認識が及ばない。やがて視界がその姿を捉え、入り込んだ夢から醒めるのに結構な時間がかかったらしい。
「なに突っ立って寝惚けてんだ? なんとか言えよ! ったく」
 目を覚ました彼が、唾の掛かる勢いで我に怒鳴っていた。開けっ放しのカーテンの向こうの二人も同様、すっかり目を覚ましていた。完全に意識が戻ったようだ。
「バルド……えっと、何か飲むかい?」
 思考がまだ全て脳に戻らないが、不意の呼び掛けにも意外と対応出来たりする。場に見合った言葉があっさり出てくるものだ。
 バルドからも威勢の良い言葉が返ってきた。
「おう。ついでに腹もスゲー減ってる」
 その馴れ馴れしい口ぶりには二人の使用人から叱咤が飛ぶ。
「バルド! 劉様になんて失礼な口の利き方するね!」
「そうですよバルドさん! 劉様も藍猫様も、きっと僕たちのこと看ててくれたんですから」
 その藍猫は出入り口近くの椅子に座っていたが、「兄様、藍猫が飯頼んでくる」と立ち上がっては部屋を去ると、その背中を追うようにあの蝶が部屋を去っていった。後ろの窓を開けてみれば暖かな陽射しに加え、まだまだ焦げ臭いにおいが風に乗ってやってくる。廊下の向こうの慌ただしい人の声まで届き、眩しすぎると感じた陽射しも直接肌に触れてみて、やっと現実に返った気がした。振り返っては改めて、彼のいる現実に触れた。光が透き通るその青い瞳を久々に覗いた。
「バルド、気分は?」
「まあまあだな。なんつーか、寝てる間にヒデェ夢見たみてぇでよ」
「へえ」
「なんか俺、お前さんに言ったんだよな。約束したんだよ」
「何を?」
 バルドは仰向けに寝たまま、我の顔を見上げた。
「今更だが、スッゲェ大事なこと思い出してよ……」
 一体なんのことやら。記憶のない彼と我は何も約束など交わしていない。しかしその眼差しと意味深長な口ぶりから余程大事なことだと窺える。
「大事なこと?」
「ああ。俺……まだお前に食わせてなかったよな? 北京ダック、アヒルちゃんをよ」
 アヒルちゃん……あの日、二人きりの厨房で…………――――。
 瞬時に戻ったあの日あの場面、我は貴方に恋をした――――。
「バルド……!」
 思わずベッドに飛び乗れば、彼はあまりの痛みに喘いでいたが構わず首に抱きついた。暫く寝ていたはずなのに煙草と焦げの匂いが染み付いた彼はやはり彼で、「おい、痛てぇよ……」とぼやく彼はやはり少し照れていて、今すぐ派手に口付けたくなるが他の使用人の手前、遠慮しておく。すでに彼らは言葉を失い、戻ってきた藍猫ですら運んできたトレーを落としたほどだ。我のこんな姿を見るのは藍猫も初めてだろう。
 その夜、戻ってきたアグニにも我は出入り口にて熱い抱擁で出迎えた。バルドにはまだ開かせない想いを少しだけ彼にぶつけたつもりだ。
「ら、劉様……どうなさいました?」
 バルドの記憶が戻ったことを伝えれば、アグニもまた笑顔と涙で抱擁を返してくれた。するとそこには透かさず嫉妬が飛んでくる。
「おい、テメェは早速それかよ! 何が悲しんでただ! やっぱ嘘じゃねーか!」
 やたら可愛い犬が吠えているが、吠えるから犬は可愛いのであえて放置したい。我は抱擁を解くことなく犬を宥めた。
「バルドここは病室だよ? 他の二人だって起きちゃうじゃないか」
いや、遅かった。
「起きてますよバルドさーん」
「まったく、なんなんですだ」
 二人の呆れた声にバルドは寝たまま壁を向く。我はそんな彼の許に戻ると、尖らせたままの唇にそっと口付けた。そして小声で耳打ちした。
「早く治して抱いてくれなきゃ、浮気しちゃうからね」
 バルドは一言「わかった……」とだけ頷き、すぐに寝た。寝息を立てて素早く眠った。
「そう。今はゆっくりおやすみ……。楽しみは後にとっておこう」
 もう幸せは逃げないから、落ち着いて現実に居られる。明日を夢見て眠ることが出来る。

 後日、三人が快復してロンドンの騒ぎも落ち着いた頃。今日も街の人々のため、カリーパン配りへ出向いたアグニからこんな話を聞いた。
「実は今日、セバスチャン殿に会いました。彼が死神を巧く追い込んだようで、料理人殿が倒れた際に記憶が修復されたそうです。詳しいことはわかりませんが、セバスチャン殿は何かと危ない橋ばかりを渡っておられるようで、心配でなりません。それに、今度はシエル様が…………」
 泣き出したアグニを我はきつく抱き締めた。伯爵の愁は王子の愁、そこに執事くんへの不安も加え、二重に背負い込んだ彼の苦悩もまた重いものだ。
「災難が続いて嫌になるね……。我はこうして話を聞くことしか出来ないけど、王子を支えるのが君しかいないなら、君のことは我が、ついでにバルドも支えるから、こうしてすぐに頼っておくれ」
「劉様……なんとお優しい……」
「お互い様じゃないか」
 するとそこにまた、あの蝶が我の許にやってきては暫く辺りを舞っていた。まるでどんなに現実が苛酷でも二度と夢に逃げ込むなと、掴んだ希望を決して手放すなと、執拗に言い聞かせるよう煩く羽をはためかせ、また空へと飛んでいった。
 我は知った。逃げた先の夢の中には意外と何もないことを。綺麗な世界はあくまで自分の描く最大限に留まり、自分をただ守るための自慰でしかない。自ずと危険を避ければただ平穏になりがちで、それを夢と語るには小さすぎる気がした。
 対する現実は、目を疑うほどの思いがけない出来事が矢継ぎ早に飛び込んでくる。時には命をも賭けたゲームをギリギリで熟す中、こんなにも優しい友情が生まれた。稚拙な火遊びから愛が生まれ、紆余曲折を経ながら今宵また育まれる。変化する毎日の中で気付けば守るものが増え、いずれ抱えきれないほどに膨らんだその中で生きる現実は、例えそれが奪われようと夢より素晴らしいのかもしれない。きっと何かが、生きた記憶として現実に残るのなら、我は自らを愉しみて志に適えるかな……――――。