イディオティック・レコード(後)


 羽を傷つけられた胡蝶は地に墜ち、再び宙を舞えぬのなら、それは夢見ぬ一人の周でしかない。このまま空を眺めるだけで二度と胡蝶の夢を見られないなら、いっそのこと…………。
 そう、願った想いは叶ったか否か。無駄な足掻きと知りながらばたつかせた羽から散った鱗粉が、今一面の白を解き放ち、閉じた瞼の裏側にすら見知らぬ現実を映そうとしていた。目に刺さるほどの眩さが忽ち視界を切り開き、奥には濡れた眼差しを見た。
「劉様! よかった……。ご気分はいかがですか?」
 覚えのある褐色の肌が見えたことには一先ず安堵し、遠く鳥の囀りと微かな風の匂いから白昼の清々しさを知る。無意識のうちに遠ざけていた現実は、思いのほか穏やかだった。
「ここは……病院?」
「ええ。あれからどうにか間に合いました」
 あれから……。それぞれが怪我を負い、バルドに至っては記憶まで飛び、我もまた気を失ってからどれくらい経ったのだろう。
「アグニ……君の怪我は?」
 手前のクルタの袖から覗く、包帯の巻かれたその腕に手を伸ばそうとして断念した。少し腹筋に負荷がかかっただけで傷口が悲鳴を上げる。
「私の怪我は大したことありませんから、劉様はまだまだ安静になさってください」
「そう……それならよかった」
 宙で置き去りになった右手が彼の両手に包み込まれ、改めて朋友の優しさに触れる。生死を彷徨った後の朋友との再会だった。このまま先の暇を見越して朗らかな語らいを始めたくなるほど、ここにはただ暖かな空気が流れた。しかしこれでめでたしと和む前に、我は仕切られた白いカーテンの外へと視線を散らす。彼が早くも察してくれた。
「藍猫様は隣のベッドで昨日目覚め、昨日の内にすっかり元気になられました。本当はまだ安静にしていただきたいのですが、今は劉様の着替えを取りに一度帰っておられます。目覚めない劉様をとても心配なさってましたが、眠っているだけだと知るなりほっとしておられました」
「そう。元気なら良かった」
「そしてシェフ殿は……」
 あえて触れずにいたもう一つの不安を持ち出した彼は、一度視線を落とす。再び持ち上がった先は右の白いカーテンの向こう、微かに動く淡い人影を、その横顔を指していた。
「彼も昨晩のうちに目覚め、今は容態も落ち着いてすでに動いております。ただ……」
 アグニの晴れない表情を見れば言わずともわかった。バルドにはまだ、我の記憶が戻らないのだろう。
 そこに奥の廊下の方から足音が近づいて来て、入り口から顔を出してすぐ我を見たのは、すでに真新しい燕尾を纏った執事くんだった。
「やあ執事くん。まさか君にこんな無様な姿を晒すとはね」
「そうですね。ぜひ坊ちゃんにもお見せしたいところですが、裏切り者の劉様は私に征伐されたとなっておりますから。残念でなりません」
 そうだった……。我は今後、伯爵と顔を見合わせることはないのだろう。見捨てた花に舞い戻るような華僑など鼻で一蹴されるだけだ。無論、甘い蜜など二度と吸わせてもらえない。そのつもりで事を起こしたというのに、なぜ今更感傷に耽りたくなるか。執事くんの皮肉に皮肉も返せないくらいなら、そもそもやらなければよかったこと。英国が憎い、女王が憎い、中国人としていつまでも英国貴族に従えるわけにはいかない。そう思っていたことに後悔などまるでないが、気まぐれな無鉄砲も少し落ち着きを覚えねば。しかしそれもまた今更というか、すでに生まれ変わる以外の方法がないのが情けない。その点では多少は反省している。結局我の所為で朋友も負傷し、恋人は記憶まで欠けてしまった。
「それで、彼は……」
 視線で隣を、カーテンの向こうで寝そべる人影を指せば、執事くんは小難しく眉根を寄せた。
「私はあくまで執事ですから、死神に関することは詳しく存じませんが、もしかしたらシネマティックレコードを戻した死神に不手際があったのかもしれません」
「それってどういうこと?」
「おそらくレコードを傷付けたか何かで、記憶に穴が開いたとか……」
「そんな……」
「一時的か永久的かもわかり兼ねます。まだ何とも申せないところです」
 すると、ここで漸く隣のベッドから不服な声が返ってきた。
「チッ、またその話かよ。つったって思い出せねぇもんは思い出せねぇっつーの。カリーの執事にどんだけ説明されてもピンとこねぇんだから、仕方ねぇだろ? ったく」
 言っては透かさずマッチを擦る音がして、苛々した人影が煙草ふかす。カーテンの上から薄い紫煙が広がって、儚く静かに消えていった。

 その後、執事くんはバルドと明日の仕事について話をして先に去った。聞こえてきた内容から、フェッロファミリーによるファントムハイヴへの復讐が今晩にも起こり得ることを予期しての準備に違いない。我が許されないなら彼らも当然許されない。英国の秩序を乱した罰として番犬による制裁が待っている。
 アグニも王子様の世話があるからと、この病室を去ったのは日が落ちて、夕食が運ばれてすぐのことだ。三つのベッドが居並ぶ空間で窓際の彼と二人きり。我の記憶がないことには特に話すこともなく、カーテンで仕切られたまま互いに姿を見ることもなく、偶にオヤジ臭い咳と煙草を蒸かす吐息が聞こえてくるだけだった。ここに看護婦が来ようが廊下から人の声がしようが、声かけには至らない。食事も済ませてしまえば後は無言で天井を眺めるのみだ。
 バルドも同様だった。記憶がないならきっかけも話題もなく、姿も見えないなら最早同室の患者でしかないのだろう。あれだけ互いに馬鹿をして馬鹿にして、子供じみた火遊びも最後はしっかり燃え上がったのに、横から水を浴びせられてはもうマッチほどの火も咲かない。そう思うと、ただ絶望が漂う。きっと偶然が重なった上での副産物のようなもので、そもそも我にはその気などなかったのだから、今更また、こちらから火遊びを持ちかける気も起こらない。我の中に残っている記憶は、きっと彼の中から消えたことでそれだけ尊いものになってしまった。
 シネマティックレコードとはよく云ったものだ。中身は酷く馬鹿げた茶番劇もいいところなのに、箱の中にしまっておいては偶に取り出し、馬鹿だったなぁ、と愛でたくなる。食べたら消える飴細工を食べずにとっておくような、そんな切なく幼い気持ちが気付けば我の中に芽生え、それが恋だと気付くにはまだ時間を欲した。しかし気付かぬふりをしているうちに飴細工は砕かれてしまった。その悲しみを今はどこにぶつけていいのかがわからず、カーテンにぼんやりとだけ映る隣の影を見つめていた。
 やがて消灯となり、看護婦により蝋燭の灯りが吹き消されるとここは忽ち真っ暗だ。次第に廊下の向こうの雑音も薄れ、彼は煙草にも飽きたか、小さな赤い火を暗闇に潰して横になり、寝返りを打った。すると頭の方が何かにぶつかったらしく、「痛てっ!」と発した声にはつい笑みが零れてしまう。
「ったく……」
 不満を漏らす声に馬鹿だねぇと返そうとして……思い留まった。挨拶よろしく放っていた冷やかしが口を衝いて出なかった。そこに不自然な安堵を抱くと共に何故かゆくりなく寂しくなり、一メートルにも満たないこの遠い間柄に、鼻の奥がつんとする。胸が詰まって苦しくなる。
 寝返りを打って彼に背を向け、深く瞼を閉じてみる。すると嫌でも浮かんでくるはずの彼の顔が、白いコックコートが、あの瞳の色が紫煙に滲んで思い出せない。気を失っていた間に我の記憶も薄れたか……。寧ろそうあってほしいと願えば、胸の奥の箱が軋んだ。人の記憶があんなにも勢いよく飛び出す瞬間を見たからか、この箱も難なく開いてはうっかり中身が零れ出そうな気がする。きっと大した重量もないはずだから、そのまま箱に戻ることなく夜風に飛ばされてしまえばいい。自分だけが持っていることに、しまっておくことに意味を見出せないならもう手放しても惜しくない。結局、なんだかんだで楽しかった日々は一場の春夢に過ぎなかった。そんなお伽話はもう、エピローグもなく幕を下ろしたのだ。
 今日一言でも声を交わしたなら、また考えは違ったのかもしれない。全てを包み込む夜の闇は更なる静寂を呼び込み、隣からはささやかな寝息が響き、カーテンの閉ざす柔い静寂が心地よい眠りを促していた。
 …………いや、呼び込んだのは我の大事な面会客だ。闇と静寂に塗れどこぞからこの部屋へ、我のベッドの傍へ、小慣れた足運びで今音もなく忍び込んだ。
「大哥……大丈夫?」
 顔を横に向ければそこに、小妹の案ずる顔が朧げな月明かりに浮かぶ。
「藍猫……!」
 しっかり荷物を持ってここに戻ってきた、容態など窺わせないこの快復ぶりに、健常ぶりに、伏せっていた心はすっかり晴れた。
「大哥、着替え」
「悪いね藍猫」
 抱えてきた包みをベッドの下に置いた小妹は、床に膝をついたままベッドの脇からいつまでも我を見つめていた。この部屋に射し込む僅かな光すら全て吸い込む黒い瞳で、余計なことは口にせず、ただ黙って我を見つめていた。
 ずっと、これまでも……。
 いざ死を目前に、一蓮托生を誓った小妹に一つだけ、訊いておきたいことがあった。
「藍猫、君は今幸せかい?」
 当時まだ赤子だった彼女を、紅幇から青幇へ連れ去ったことを隠してきた偽の兄へ、身動きが取れず逃げることも叶わぬ今、思いの丈を真っ向からぶつけて欲しい。本物の兄を名乗る者により藍猫が真実を知った日から、彼女はそのことに何も触れない。それでも運命を共にしてくれたことに、遅まきながら明確な答えを望んだ。
「大哥が生きてる。だから幸せ」
 つまりそれだけ我の教育が出来ている、という相変わらず従順な回答への自惚れが野暮に思えるほど、藍猫の眼差しは今日も唯一の兄を捉えていた。しかしその視線はそっとシーツへ伏せられ、「でも…………」と小さな口が漏らす。
「なんだい藍猫?」
 藍猫が言った。
「大哥、苦しそう……」
 再び持ち上がったその真っ直ぐな瞳で言われると、我もすぐには笑ってやれない。
「そうかい? 気分はいい方だけど」
 嘘つき……と言いたげな眼差しだ。一番近くで見てきたから、きっと我の心をわかっていて、だからこそ今は口にしないのだろう。言ってしまったら、我が惚けることなど優に見透かしてる。本当に出来た小妹だ。我は左手で彼女の頭を撫でながら軽く愚痴を漏らした。
「知らない、と言われたらそれまでだからね。酒や薬で嫌な記憶を消せる人間もいるんだから、そんなものだよ人の記憶なんて。情だの絆だのと言ったところで不要になればそれまでさ」
 そこに透かさず返ってきた男の声は、右のカーテンの向こうからだ。
「おい、それって俺のこと言ってんのか?」
 寝息が漂っていたはずの隣のベッドから、起きてたのか、と思うと同時に、今の愚痴で少しはダメージを与えられたと思うとなんだか気分が良い。
「悪いねぇ。怪我人を起こすつもりはなかったんだけど」
「テメェだって怪我人だろーが、ったく」
 そう、この声……。いつもの不満そうなヤニ塗れの声に自ずと胸が高鳴り、人知れず心が高揚して、まるで水を得た魚のように我は生き生きと減らず口を叩いてしまう。
「おや? 随分と機嫌が悪いみたいだねぇ」
「ったりめーよ。記憶喪失っつわれても全然ピンとこねーのに、テメェのこと本当にわかんねぇんだからな」
「記憶喪失っていうより記憶力の問題なんじゃない? 外見と一緒で脳も老化してるのさ。あっははぁ♪」
「うっせぇよ! だから知らねぇもんは知らねぇっつってんだろ? 俺ぁテメェなんか見たことも聞いたこともねえんだよ!」
 それが事実とはいえ、改めて何度も口にされるとやはりムッとする。藍猫が着替えと一緒に持ってきたはずの煙管、若しくは暗器でも手元にあれば透かさず投げつけているところだが、代わりに苛々をぶつけたのはサイでもヌンチャクでもなかった。
 側に居たはずの気配が消え去り、気付けば音もなくカーテンの向こうに忍び寄った藍猫が隣の怪我人を襲っていたのだ。
「な……ななな何すんだテメェ!」
 カーテンにうっすらと浮かぶ影を見るに、おそらく馬乗りになった藍猫がバルドの首を絞めている。
「兄様悲しませる言葉、許さない!」
「待て、待……グェ……ッ!」
 どこまでも出来た小妹だが、さすがにこんなところで殺人は困る。
「藍猫、ダメだよ殺しちゃ」
 次の瞬間、隣から激しい咳と嗚咽が放たれた。
「ゲホッ、ゲホッ……ウゥェ…………」
「大丈夫かい?」
 藍猫がベッドを下り、彼はどうにか息を吹き返したようだ。
「ハァァ……ったく、この無愛想な可愛い娘ちゃんのことはちゃんと覚えてんのによぉ。こいつの兄なんだろ? なんでわかんねぇんだかな……」
 つまり本当に我の記憶だけが抜け落ち、故に葛藤を抱くのもバルドの置かれた立場だった。
「それによ、俺がテメェを思い出せねぇっつえば、皆がこの妹みてぇに悲しそうな顔すんだぜ? セバスチャンまで呆れて溜息吐きやがって。思い出そうとして思い出せるもんじゃねぇってのによ。でも…………そんだけの付き合いがあったと察すりゃ、俺だって、そりゃ思い出してぇって思うんだ……」
「バルド……」
 そう、それだけ付き合いがあった。彼もそこはわかっているだけに、彼なりに苦しんでいると知っては多少救われる。
 我は知ってる。彼はファントムハイヴに関わる者には珍しく、場違いなほどに熱い血が通っている。だから言ってくれたあの言葉、彼は忘れたあの言葉が忘れられず、今も確かな鼓動へと熱を恵んでくれる。
間もなく藍猫が戻ってくると同時に、彼がまた懐かしい思い出話をしてくれた。
「そういやぁ、前に俺この妹のためにスッゲェ頑張ったんだよなぁ……。確か笑わせようとしてヒデェ女装晒したっつーのに、そんなんじゃクスリとも笑わなくてよ。……でも、なんで笑わそうとしたのか、結局誰の何で笑ったのかも全然思い出せねぇや。つまり、全部あんたが絡んでたんだろな……。あんたのために笑わせようとして、きっとあんたが笑わせたんだ」
 当たってる……全部。あの日藍猫が笑ったことに君もアグニも喜んでくれた。すべて我のため、ずっと藍猫のことで気を落としていた我のため、我の愛する男と我の信頼する朋友が我を助けるために動いてくれた。窓から射した西陽がやけに眩しく、賑やかで優しい時間……。ちゃんと記憶を共にしているのに、やはり大事なところが欠けている。あの後我とアグニの仲を妬いた彼がとても可愛かったというのに、今思い出しても擽ったくなる程の思い出は我の中にしか刻まれていない。
「で、あんたの怪我はどうなんでぇ?」
「動けばまだ痛むけど、順調に快復してるんじゃないかな。君は?背中ぐっさりいっちゃってたけど」
「うーん、俺もまだ痛ぇっちゃ痛てぇが、鉛玉に比べりゃ大したことねぇよ。幸い心臓にゃ触れてねぇみてぇだし。セバスチャンが明日にはもう出仕だっつーしよ」
 と起き上がった彼は、「やっぱまだ痛むな」と呟きつつベッドを下りた。
「ちっとしょんべんしてくら」
 入り口に向かってスリッパでパタパタと、羽織った上着の上から背中を庇いつつ、気怠そうにガニ股で歩く姿をカーテンの隙間から少しだけ、廊下に出るまでを見届けた。
 あっそう。と返してすぐ、ニ、三歩戻った彼がまたカーテンの向こうから顔を覗かせる。前開きの薄い上着の中に胸まで巻かれた包帯と、一瞬だけ、あの肩の銃創が見えてどうしようもなく切なくなった。そんな想いも二度と彼には伝わらないのだろう。そう確信できるほど、気を失ってから初めて顔を合わせた瞬間に感動などなかった。
「ついでに飲み物頼んでくっけど、なんか要るか?」
「そうだね……コーラとか、ないよね」
 ただ純粋に、あの爽快な味が恋しかった。あの甘く弾ける炭酸が一気に喉を貫けばそれだけで元気が出る気がした。
 彼は夜目にもわかるほど驚いていた。思えば唯一それを教えてくれたのが彼で、唯一与えてくれたのも彼なのだ。
「コーラって、あんた知ってんのか?」
「知ってるも何も、君が我にくれたからね。米国じゃ大流行だって」
「そっか……。そんなこと、あったんだな。生憎記憶がねーが、つーかそもそも病院にゃねーだろうが、あの味がわかるやつに悪いヤツはいねぇからよ」
 ニヤッとだけ口角を持ち上げる自虐的な笑みが、やはり実年齢に見合っていない。髭もまた伸びて益々オヤジ臭い煙草臭い。
「ま、水が紅茶しかねーだろうな。適当にもらってくるわ」
 そう言って出て行ったバルドを、我はどんな目で見つめていたのだろう。
「兄様、笑ってる」
 シーツに両肘をついた藍猫が、眠そうな目に幽微な微笑を浮かべながら我を見ていた。
「それより藍猫、ここで我と一緒に寝るかい?」
藍猫は少し考え、かぶりを振った。思えばバルドのことについて一言も口にしたことはなかったが……いや、とうの昔に見透かしていたことだろう。
「藍猫帰る。また明日くる」
「わかったよ。気を付けてね」
 立ち上がった藍猫がここを去ってすぐ、一人を寂しがる間もなくバルドが戻ってきて、カーテンの中に入ってきた。
「コーラじゃなくて紅茶だ」
 トレーを持つ彼を前に、我は下腹部を労わりながらやおら上体を起こした。そしてトレーから差し出されたティーカップを受け取り、久々にその顔を見上げた。
「バルド……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
 バルドもまた我を見た。同じ前開きを羽織り腹部に包帯の巻かれた、密かに舞龍の覗く姿を。更に窶れたであろうこの特徴の薄い顔を。暗闇とはいえ、それでも小指で耳を穿るだけ。何も言わないのはやはり、そういうことだ……。
「あれ? 妹はどこ行ったんだ?」
「さっき帰ったよ」
 奇跡とは、簡単には起こらないもの――――。
「ハァ……。君とは身体の付き合いもあった程なのにねぇ」
 思わず零せば、きっと我以外に男色の経験がなかった彼は目を剥き、否定に徹した。
「おい冗談はよしてくれよ。俺があんたとだって? そもそも野郎になんか欲情すっかよ」
「でも最初に手を出したのは君なんだけど」
「んな馬鹿な」
 奇跡が起こらないなら、ふと閃いた方法は極単純だ。知らないなら我が教えてやればいい。
「馬鹿も何も、執事が二人も揃って君の記憶喪失をここまで悲しむのは、つまりそれだけ深い関係があったってことだろう?」
「んやまぁ……うーん。っつわれたってなぁ……」
「疑うなら彼らに聞いてみればいい。知ってるのはあの二人だけだからね」
「ってマジかよ……」
「さっきも言った通り、先に手を出したのは君。君のこの手で我のあんなとこやこんなとこ撫で回して、我はヒィヒィ鳴かされたもんだよ」
「俺の……この手が……!?」
 記憶がないというのも、都合の悪いことばかりではなさそうだ。
 唖然とするばかりの彼の前で、我は薄地の上着を脱いだ。
「お、おい何する気だよ!?」
「頭が覚えてなくても、その手は覚えてるかもしれない」
 彼が手に載せていたトレーを奪い、ベッド脇の小さな台の上に置くと同時に逆の手で彼の片手を取った。そして強引に引いたその手を我の薄い胸板へ、巻かれた包帯の上に覗く淡い突起の先端にその指先を押し当てると、瞬時にその手が引き抜かれた。
「や、やめろよ……」
 息荒く引いた片手を庇いながら、みるみる青褪めた彼はそのまま顔を上げることなくカーテンの向こう側へ、そそくさと隣のベッドに戻ってしまう。あとは何かに脅えるように布団に潜りながら、暫し荒い呼吸を落ち着かせているのがカーテン越しに窺えた。まるで、初めて男のそれに触れたようだ。
 ……事実初めてだった。我はまだ、彼と身を交わしていない。一度晒した裸を抱き締められたまでだ。確かその時も彼は怒って立ち去ってしまった。理由はきっと、我があまりに不誠実なまま彼を誘ったから。そう、彼の記憶に映っていたのを見て知った。彼は基本そういったものを大事にしている。信頼や絆といった我とは正反対にあるものを。
「わかった。もう嘘は吐かないよ」
 カーテンの向こうに声をかければ、一度音が止み、早々に舌打ちが聞こえる。
「……ったく、やっぱり嘘か」
「でも恋人同士だったのは本当」
「どーだかなぁ」
「君が先に好意を示したのも本当」
「益々胡散臭ぇな」
「だから、疑うなら聞いてみればいいだろう?」
「うーん……つったって、それで本当だっつわれたとこでどうすりゃいいもんか……」
 事実だと知ったところで覚えがない。カーテンの向こうで深々と頭を抱えていることだろう。
 そんな彼からも質問が飛んだ。
「あんた、名前劉ってんだよな?」
「そ」
「イーストエンドを裏から仕切ってたって、坊ちゃんの大事な客人だったって、全部過去形で聞いたぜ」
「ま、そうなるね」
「いったい坊ちゃんに何しやがった?」
 執事くんからはどこまで聞いたかわからないが、なかなか察しがいい。執事くんのことだから、あまり多くは語っていないはずだ。
「我は見ての通り中国人だから、そもそもこの国をよく思ってないのさ。まして女王の番犬に従えるなんてまっぴらなんだよ。伯爵もその辺は察してたはずだけど、だからこそ我の真意を探るような真似をしたわけだし。……でも、我が彼を裏切った理由は彼にない」
「でも裏切ったんだろ?」
「結果的にはね」
「じゃあ今は敵ってことだな」
「我は死んだことになってるけどね」
 彼は女王の番犬の番犬。忠実なる僕で今は我の敵、それでいて我の元恋人。だからこそ我は今こうして生きている。しかし記憶のない彼はその答えに辿り着かない。
「一つわかんねぇんだよな。裏切り者はセバスチャンがあっさり始末するはずが、テメェはなんでのうのうと病院で手当て受けてんだ?」
 ……まったく呆れた。この馬鹿。
「わからない? 実は我にも不思議なことに、我が死んだら悲しむ人間がこの世には三人もいるみたいで、そのうちの一人が執事くんにとってはとても大切らしい」
「へえ。あいつがそんな私情挟むようなヤツだとは思わなかったぜ」
「同感だね。あの執事くんがきっと悩みに悩んだ挙句に我を助けたんだろうね」
「三人か……。あの妹と……妹と……ん? 一人じゃねーか!」
「我だってそれなりに人望あるから、本当に死んじゃったらもっとたくさんの涙が流れるんじゃないかな?」
「ハッ。笑わしてくれるぜ」
 バルドの乾いた笑いの後に少しの沈黙が流れ、そして、彼は漸くもっと大切な真相に行き着いた。
「そもそも、本当に俺とそんな関係だったってことは、俺に記憶がねーならお前は相当悲しんでるはずだろ?」
「勿論」
「本当か?」
「本当だって」
「嘘くせぇ」
「嘘じゃないよ」
「んじゃぁ、とりあえず謝っとく……」
 なんだそれ、なんでそんなに単純なんだと考えれば答えもとても単純で、あまりに可笑しくて笑った。我が愛したこの男はバルドロイといって、単純で馬鹿でオヤジ臭い重火器馬鹿の元軍曹で、誰より屈強な魂を持っている。
「フフ……」
「なあ、それ本当に悲しんでんのか?」
「だから本当だって」
「ああ? わかんねーよ」
 ずっとこうして囀っていたい。夜が明けて朝が来て、また小妹とアグニがやってきてもこの陰気な病室を賑わせるのは我と彼だ。そこに以前ほどの親密さはなくても、アグニは優しく微笑みながら馬鹿な二人を見守ってくれた。五月晴れ……風も空気も澄んでいる所為か、藍猫の表情も普段より柔和だ。近々パリ万博も開かれることで、何か新しい時代の幕開けを感じた。このままバルドの記憶が戻ることがなくとも、我は無意識に幸せの感触を辿っていたのだ。
 ふと窓から迷い込んだ青い胡蝶が我の指先に乗る。夢と現を彷徨った挙句どうやらここに落ち着いたらしい。酷な現の中に見出した虚ろな幸せの中で、また新たな記憶を描いていこうと、時に思い出話を交えながら語らえる日々をそっと夢見る。
 やがてロンドンが焼け落ち、先に病室を去った貴方が再びここへ戻ってきても……。