イディオティック・レコード(前)


 昔、荘周夢にて胡蝶となる……――――。故郷を離れ、異国に舞い降りた胡蝶は妖しい花の馥郁に惹かれ、甘く滴る蜜の替わりに花の栄華を影から支えた。しかし咲き誇る花もいつかは萎れ、その寸前で手折られるなら、胡蝶はその花を見捨て次なる花へ、また自らを愉しみて志に適えるかな……――――。
 志に……裏の世界で生きた人間が幸せな最期を迎えるとは思わない。だから、まやかしでいい。蝶が舞う如く地に足の付かない感覚の内に、いっそ夢の中に葬られれば志は叶えられよう。愛する小妹が我を信じて運命を共にしてくれる。これ以上を求めるなら、それはこれから降り立つ夢の向こう側に取っておきたい。
 ただ、米国発のあの毒々しく甘く弾けるなんとも爽快な味を知ってしまった今、長閑な夢に焦がれた心は薄く色褪せていた。遅まきながら、あの男の存在がどうにも拭えない。おかげで夢の入り口に立つことすらままならないでいた。
 すると次第に入り口が遠退き、視界がぼやけ、またしても夢か現か曖昧となってしまう。羽が生えたはずの身は重く、人生という深い痛みが我の腹部を貫いていた。あまりの痛みに逝くに逝けず、ふと顧みた思い出は走馬灯のように慌ただしく流れ出す。記憶が新しくなればなるほどそれは鮮烈に、色濃く華やかに蘇る。
 そう……。年下で馬鹿なあの男の不器用な優しさが、今更心臓を掴んで離さないから不覚にも胸が痛かった。熱に倒れた夜の倉庫で我を毛布で巻いた両腕が、抱き竦めた厚い胸が、そして「お前を殺して俺も死んでやる」と放った渋い声音が今もまだ、我の鼓動を打ち鳴らしていた。
 そんな彼の叱咤に近い大声で、我は今、はっと目を覚ましたようだ。
「おい、しっかりしろよ!」
 徐々に広がる暗がりの中心にバルドのぼやけた髭面がある。青く澄んだ眼差しまで間も無くはっきりと映り込む。
「まだ起きるな。テメェが死んだって聞いてすぐぶっ飛んできたんだ」
 唾がかかるほど近い顔の、反対側からもまた褐色の顔が覗き込み、心痛に染まった涙がその頬まで濡らしていた。
「劉様……よかった。よかった。最早祈りも通じないかと……」
「アグニ……。ここは?」
 うっ、と口元を押さえるアグニの後ろには見慣れぬ木製の壁があり、辺りは薄暗い。濡れた景色の流れる窓からは風と雨が仄かに匂い、パカパカという馬の足音も聞こえ、砂利がゴロゴロとして道が悪いようで、車体が縦横に揺れる度に気が狂うほどの激痛が走る。
「ひぃっ……ぐふっ」
 その傷口を今確かに、赤く濡れたバルドの手に手巾で押さえられていた。
「今は馬車の中だ。病院に向かってっから、あんま喋んな。静かにしてろ。ったく、阿片吸いすぎなんだよテメェわよ!」
 我はそんなバルドの膝に、火薬の臭うコックコートのエプロンに頭を乗せ、横になっていた。
つまり、我は現実に戻ったのか……。戻る前の現実を顧みれば、我は確か殺されたはず……――――。
 そう。スタンレーの暗殺を皮切りにファントムハイヴを裏切った我は、帰国に走る船上で執事くんに腹部を貫かれ、小妹と共に海へ身を投げた。その小妹は…………?
「ら、藍猫は!」
「藍猫様はこちらで眠っております。大丈夫です。深い怪我はございません」
 アグニの見つめる視線の先で、その膝の上で彼女は寝ていた。死んではいなかった。全身が濡れて酷く青褪めているが息はある。よかった、きっと無事だ。それならもう…………と安堵すると共にまたも意識が混濁し、薄弱し、やがて閉じた瞼の向こうに白い光が見えてきた。なるほどこれが人の終わり……。それでも小妹が無事で、彼の膝に眠れるなら思い残すことはないのかもしれない。心置きなく我は一羽の蝶となり、安らかな顔で周の最期を迎えられる…………。――――確信したその時だった。
 この場に突如現れたのがもう一人、走る馬車に追い付いては飛び乗るなど、やはり人間離れした彼がやってきたから思考は混乱するばかりだ。
「よかった。間に合いました」
 我に致命傷を負わせた張本人が馬車の戸を開け顔を出すから、最早死んでいるわけにはいかないとすっかり瞠目する我に、いつも通り慇懃無礼に声をかけてくる。
「急所は外したつもりですが、さすがに出血多量ですね」
 そんな彼の手刀によって今も出血しているわけだが、あの白手袋が今も白いのはどういうわけか。考えると頭も痛むが、執事くんの言う話は益々頭痛を重くしてくれた。
「バルドいいですか? これから死神と呼ばれる風変わりな人物がここに来ますから、貴方は劉様を守ってさしあげてください」
 死神……彼は確かにそう言った。いっそその死神が執事くんなら納得してしまうわけだが、しかし彼は我を殺さなかった。死神が実在するなら、あえて急所を外すなどするはずがないだろう。我はすぐにもここを去ろうとする飽くまで執事を呼び止めた。
「待って執事くん。君は我を殺すはずじゃないのかい?」
「私は是非ともそうしたいのですが、貴方がいなくなることで泣いてしまわれる方がいるのです……」
 その悩ましい視線の先には我の親友、アグニの悩ましい表情がある。つまり、アグニのために我は生かされたというわけか。思えば先日黒焦げになった厨房で、こっちの執事くんとそっちの執事くんがさりげなく手を繋いでいたのをしかと見ていた。いつの間にそんな仲になったのやら、激痛の絶えない中で暢気に考えていた所、一変して、肌を刺すような嫌な緊張と悪寒が走った。
「さて、早速来ましたよ」
 暗雲垂れ込める空を見上げていた執事くんが声を上げた途端、馬が嘶き車体が傾く。
「な、なななんだ?」
 慌てるバルドから落ちた我は透かさず抱えられるが、痛みに悲鳴を上げている状況ではないのは空気で察した。異質の気配――――何よりあの執事くんの顔と声が強張っている。
「皆さんよろしいですか? 彼らは劉様の魂を回収しに来ました。彼らのデスサイズにかかれば劉様の命はありません。審査するまでもなく劉様は地獄行きですから!」
「な、ななな……!?」
 我からはよく見えないが、窓から外を見上げたバルドとアグニは明らかにこの世のものではないものを見ている。唖然と二の句を失い、異質の者から目を離せずにいる二人に執事の一喝が飛んだ。
「バルド! 返事は!」
「ああ、よくわからんがわぁったよ!」
 そして、外からは聞き慣れない声が二つ飛び込んできた。一つは理知的で堅物そうな男による執事くんへの嫌味だ。
「いやはや、ドゥームズデイブックに汚らわしい害獣のことが書かれていたので、来てみればこういうことですか」
 そして続くもう一つの声には何故か聞き覚えがある。確か、マダムレッドに近しい人物だったような……?
「こんにちはセバスチャン! 貴方が関わってると聞いてウィルに付いてきたら大正解じゃない? 今日はツイてるわぁ〜」
 一人は執事くんを嫌い一人は好いている、というわかりやすい声色に執事くんがぼやく。
「まさか二人とは、私一人で追い払えるでしょうか……」
 するとすぐ、執事くんの居た戸の手前にどういうわけか高枝切り鋏が伸びてきて、執事くんは瞬時に避けたが、一方では何やら禍々しい機械の作動音が聞こえてくる。次の瞬間、迫り来るその轟音と共に走る馬車の天井がチェーンソーの刃で貫かれた。
「な、なななななんだよコレ!」
 車内も馭者も慌てふためけば繊細な馬は暴れ馬と化し、チェーンソーが刺さり傾く車内はすでに乗り物ではない。しかもこんな時に限ってあの執事くんがいないとは……いや、窓の向こうで死神の一人と戦っているとなれば、頼りになるのはこっちの執事しかいなかった。
「シェフ殿! 私達は急いでここから逃げますよ! 私は藍猫様を連れ出しますから、貴方は劉様を、どうか……」
「ああわぁってらい! 一体何がどうなってんだ……?」
 先に馬車を飛び出そうとしたアグニは藍猫を背負いつつ、確実に居るだろう、引き抜かれたチェーンソーの持ち主を戸を開けて見上げようとした、と同時に上から相手が顔を覗かせた。
「あ〜ら、貴方はちょっと人間離れした人間のようね? しかもなかなかいい男じゃな〜い!」
 赤く長い髪が鮮烈な、人間離れどころか確実に人外だと言い切れる者の顔がアグニの眼前で逆さまとなっていた。目を剥くアグニにくどい秋波を送りつつ、天井からニヤニヤと車内を覗き込み、そして、バルドに抱えられた我を見てはこう言った。
「久しぶりね劉様。いえ、劉……」
「我を、知ってる……?」
「やだ覚えてないの? 失礼しちゃう。私これでも執事をしてたんだけど。『すすすすみません奥様……!』こんな感じにね……」
 真っ赤で派手で高慢なマダムレッドを彷彿とさせる反面、咄嗟に演じて見せた不甲斐なさとその垂れ眉で我の記憶は繋がった。
「まさか……マダムレッドの執事くんかい? 彼女が亡くなってから一度も姿を見なかったけど……」
 いや、これで切り裂きジャックの件に漸く納得できた気がする。犯人が執事で死神なら全ての辻褄が合ってしまう。
「あの時は楽しかったわねぇ。ガキのダンスレッスンに付き合ったり皆で切り裂きジャック事件を追ったりして……ね?」
 ニヤリと口角を持ち上げたおぞましい笑みを見て、きっと彼女を殺したのもこの死神だと確信した。そしてその異様な眼差しが今は我に向けられていることも……。
「さあ劉! 覚悟して頂戴」
 切り裂きジャックとして、その凶暴な凶器で人知れず殺人を重ねた彼に死に損ないの我が対抗出来ようか。
すると、そこに何やらブツブツと聞こえてきた低い声はお経のような、アグニによる精神集中に入るための神への祈りだった。たった今包帯を解き、かの右手を晒したアグニが恐れず死神へと立ち向かっていった。ハッ、と力強い手刀が、油断した赤い死神の顔の中心に見事突き刺さったのだ。
「ギャーッ!」
 踏ん付けられた蛙のような声と共に死神が馬車から呆気なく落下、その隙に藍猫を背負ったアグニが「今です」と逃亡を促し、バルドに抱きかかえられた我も素早く馬車を去った。
「劉、死ぬなよ……」
 ぼそり呟いた声がまだ、我の心臓を動かしていた。
 水溜りの多い砂利道と降り続ける雨と薄闇が行く先を阻む中、人に甘えるしかない身で今は専ら痛みに喘ぐばかり。あっちへ、とアグニが誘う道脇の雑木林へ泥だらけでひた走り、我々は死神の目を眩ませた……つもりだったが、すぐに追い駆けてくる赤い死神をバルドの肩越しに見た。その後ろにはもう一人の死神がほぼ地に足を着けずビュンビュンと飛び越え、そしてそれを追い駆ける執事くんまでが早くも我々に迫っていた。
「き、来てる……!」
 我の叫びで振り返ったアグニは逃げられないと悟ったか、入ってすぐの林の中で足を止めると、泥でぐずぐずの木の根元に小妹を寝かせ、バルドに告げた。
「ここは私が食い止めますから、シェフ殿はお二人を!」
「わかった」
 我々を暗い木陰に置いて、果敢に立ち向かっていくアグニの背中を雨で濁る視界に見ていた。彼は早速追い付いた死神とタイマンを張り、それでなくとも視界の悪い木々の間で激しい格闘を繰り広げていた。強まり出した氷雨でチェーンソーの狂音も掻き乱れ、一方ではあっちの執事くんにも鋭い鋏が迫る。全て、我のため…………。両の執事が瞬く間もない攻撃を躱し、鋭い傷を身体中に刻んでいた。
「バルド、我は……!」
 我は、こんな事態を齎す為に伯爵を裏切ったわけじゃない。じゃあ何故か。中国人として母国の恨みを忘れぬため? 中国人として授かった命を全うするため? いや……きっと甘やかな花畑を浮遊している内に気持ち良くなり、着地を見誤った。他に方法はあったのに、無粋だ退屈だのほざいてはあえて見て見ぬふりをした。阿片はやはり毒でしかなく、魅せられた夢は視界を曇らせるだけに留まらなかった。
「いいから喋んな。俺らだって今さっきテメェを知ったわけじゃねぇんだ。テメェのやることに一々疑問なんか持ってらんねぇんだからよ」
 そう言って、小妹の隣に下ろされた我の傷口からは今も血が滲み出る。濡れたままの緑の長袍が裾までどす黒く染まっている。見ただけで意識が遠退いていくようだ。林そのものが削がれる勢いで二つの死闘が宙を舞っているのに、それすら遠くに聞こえて仕方なかった。
「バルド……」
 霞む視界にもう少しだけ、その顔をもう一度乞う。しかし闘う二人を案じ呼びかけに応じない彼が、手前にしゃがんでいるのに顔すら向けない彼が、今更憎くなってしまう。
「バルド、我は君と会えて……」
 我の血に濡れた白いコックコート、白いエプロン、煙草の臭いと焦げの臭いと少しだけ覗く顎の無精髭。最後にもう一つ、君の太い腕と蒼い眼差しと、酒と煙草で濁ったその声が欲しい…………。
 最期だから、と願った望みが叶ってしまった。何かに狼狽え咄嗟に身を翻した彼が、寝そべる我の上に覆い被さり、その眼差しで眼前の我を見下ろし、そして、「グハッ」と我の顔に血を吐いた後、こう言って笑ったのだ。
「へっ……。約束は、守ったぜ……」
 口角も上がりきらない鈍い笑顔を最後に、彼は我の身に全体重をもって重なった。ドサッと倒れた彼の重みを知ったばかりに、その笑顔が消えたことに今も気付けなかった。
 ふと、彼の背中へ回した手に妙な生暖かさを感じ、付着した血の新しさを知る。その手のすぐ下に刺さっていた、コックコートの白を貫いた高枝切り鋏がずるっと引き抜かれ、また熱いくらいの温かさが溢れ出た。
「まずい、リストにない者を刺してしまった!」
 いつの間にやら迫っていたスーツの死神が憮然としている間に、そこに執事くんの蹴りが飛び込み、死神が地に落ちる。そして鋏の抜かれた傷口からは、何やら長いフィルムのようなものが次々と飛び出てきたから我の意識まで飛びそうだった。
「いけない、シネマティックレコードが……!」
 執事くんの叫びでもう一方の赤い死神も駆け付け、倒れた死神の傍でこちらを見ては一人狼狽えている。
「ど、どうしましょウィル!」
 執事くんは我々の許へ、「まずいですね……」とバルドの背中から吹き出すフィルムを手で押さえ、後ろの死神に振り向いて言った。
「規約違反……ですね。これ以上規定を犯す前にお帰りいただいてはいかがですか?」
 何が規約で何が違反か、死神用語はよくわからないが、いくら執事くんが傷口を押さえようと、そのシネマティックレコードとやらは天に向かって流出し続けた。
 そしてその一つを見つめれば、連なるフレームの中には何故か我が映っていた。裏口での彼との出会いから今日の介抱に至るまで、二人しか知らないはずの思い出までが鮮明な映像となり、目の前で上映される。彼が見てきた我の姿が彼の目線で映し出され、我がどれだけ彼を悩ませたか、思い煩わせたか、痛いくらいに伝わってしまった。自身の性悪さを初めて省みていた。
 そこに、血の着いたチェーンソーを持った赤い死神もまた悄然と、身構える我々の手前に駆け寄ると、「戻さなきゃ私も叱られるわ……」と林の上まで昇るレコードを追って飛んでいく。
 その向こうでクソッ、と立ち上がったスーツの死神は膝の泥を払うなり、執事くんに先の言葉を返す。
「まったく、貴方のような害獣が邪魔をするから違反が増えるのです」
「ええ、邪魔しますよ。あなたが定時で上がれないのも残業に追われるのも私には無関係ですから」
 するとその死神の背後からは、腕の傷を逆の手で庇うアグニがよろめきながら近付いてきた。死神が振り向く寸前に、アグニはその手前に転がる高枝切り鋏を奪い取ると、「セバスチャン殿!」とそれを透かさず投げ寄越した。
「アグニさん、よかった……」
「か、返しなさいこの害獣……!」
「お返しして欲しければ、ここは諦めてお帰りください」
「フン、私の仕事を阻むおつもりなら、やはり貴方を駆除します」
「いいでしょう。定時までに務まらなかったら諦めて下さい」
 立ち上がった執事くんはまた、スーツの死神の許へ飛び込んでいった。
 替わりに腕を負傷したアグニがこちらへ歩いてきてすぐ、バルドの横で膝を着いては寄せた眉間に心痛を覗かせる。
「シェフ殿……大丈夫ですか? 劉様もこのままじゃ……」
 そう。一気に圧し掛かった彼の体重で更に傷口が開いたようだ。加えて奇妙な出来事の連続、痛みはおろか視界も薄まる一方だった。
「アグニ、彼を頼むよ」
「かしこまりました」
 アグニが挿し込んだ両手でバルドの上体を起こし、自らの膝にうつ伏せで寝かせる。すると身体を起こされたことで痛みが走ったか、「ぐあ、うぅ……」怪我人がやっと声を発したからつい胸が高鳴った。
「バルド!」
 歪む顔を覗き込んでは、きっとこれまでで一番優しい笑みが自然と零れた気がする。気付けば流れ出る一方だったシネマティックレコードとやらも、まるで事が解決したかのように全て傷口に吸い込まれていった。
「気付いた?」
 そう呼び掛けたらちゃんと声が返ってくる。傷は負ったが皆が無事で、彼が我を見てそのオヤジ臭い声で話してくれることには幸せなんだと、そう、思っていた……――――。
「はぁ、痛ってぇな……。ん……? 誰だお前さんは?」
 今はっきりと、眼前にある我の顔に双眸を合わせてそう言った。
「バ、バルド?」
「俺はいったい誰の膝に、うぐ……! ああ、カリーの執事か」
 身を起こそうとして断念しては首だけ上げてアグニを見上げ、知った顔に安堵して、またうつ伏せに身を預ける。
「シェフ殿、しっかりしてください!」
「しっかりしてるぜ? 背中がすんげー痛てぇがよ。モルヒネとか……ここにゃぁねーしな」
「シェフ殿、ここには何も……」
「とりあえず医者は急がねーとな。あんたもその腕の怪我、さっきの派手な死神とやったからだろ? 王子様のためにもとっとと医者だぜ」
 ……ということは、アグニのことはわかっている。
「バルド、我がわかるかい?」
「あ? 誰だあんたは? 見ねぇ顔だな。アジア人か?」
 冗談のつもりなのか……。流れ出た先のレコードにもしっかり我が映っていたというのに。きっとあれは彼の記憶なのだと認識するが、何より我にも同じ記憶があるというのに、何故アグニがわかって我がわからない……。
「バルド…………」
「おたくもその腹、スゲェ傷負ってんだな。やっぱりあの死神にやられたのか?」
「ど、どういうこと……?」
 私とアグニが顔を見合わせると、所々燕尾服の裂けた執事くんが帰ってきた。
 同時に、今まで我を支えていた何かが根元から折れたようで、痛みに堪える術が消えてはもう、知らず意識が霧散した。