ダイレクト・チョコ


 セバスチャン殿は先程から、いつになく屈託を詰め込んだ顔で部屋の中央に立ち尽くしている。何度も溜息を吐くだけで私に身向くこともせず、二、三歩の距離を保ちながら静かに眉間を押さえたまま。 おかげで初めて踏み入れた彼の私室にときめきも感動もなく、ベッド、クローゼット、デスクの他に何が目に付くわけでもない。この無言空間が重くて仕方ない。つい二時間前の、夕陽に染まった広間での雰囲気が嘘のように、薄闇が夕陽を封じるよう、今は密やかに沈んでいた。
 果たして私をここに連れ出した用件は何なのか。お咎めを受けるような真似をした覚えはないが、この様子ではあまりいい話は期待できそうにない。
「あの、何か……」
 耐えかねて静寂を解けば、漸く持ち上がったその顔に長く垂れ落ちた前髪。その隙間から紅茶色の瞳が覗くと、俄然思い立ったように私へ迫ってきたセバスチャン殿。そのまま横を通り過ぎ、少し開いていた後ろのドアを閉めた。舞い込んだ廊下の風に燕尾服の香がそよめいた。
「一つ、お話があるのですが」
 背中の素っ気ない声に、私は「はあ……」とだけ曖昧に。妙に改まった彼の態度が怖くもあり、且つ心配でもあり、じわじわと緊張が込み上げる。
 思い当たる節を胸に探れば、劉様の件で噛み付いた先日のことが蘇る。執務と伺ったあの夜のことを私はもう、あまり考えないようにしていたが……。
「あの、私は何も……」
 すると胸を押さえる私の背中から恐る恐る回り込んできた二本の腕。辿り着いた白手袋でしっかりと私の腰を抱き締めたのは、仮にも友人である私の尊敬するお人だ。
「あ、あの……………」
 何が起きているのか理解できず、思考の止まった私は忽ち硬直して、満足に言葉も出せなかった。確かな吐息が触れるうなじにそっと謝罪の言葉を囁かれても、まるで状況を呑み込めずにいた。
「アグニさん本当に、ごめんなさい……」
 続いて触れた心痛の吐息は、申し訳ありませんではなく「ごめんない」と放つ彼は、少し意外な気もした。
 そもそも謝罪をされる覚えなどないのに、セバスチャン殿は何故、こんなにも辛そうなのか。
「もしかして、ご気分が優れないのですか?」
 手を取って振り返れば、今度はまた別の溜息を吐く彼がいる。
「アグニさんは本当に、酷いお方ですね」
 呆れたように見上げた彼は、事情を酌むことすら出来ない愚かな私にそう言って、そしてずいと正面に迫ってきたからまた狼狽えてしまう。
 今にも鼻先が触れそうなほどの至近距離に緊張のあまり息が詰まり、思わず後退すればもう一歩、また一歩と退く私を追い詰めてくる。
 そうして程なくベッドの淵に膝裏が当たり、バランスを崩した私はそのままベッドに腰掛けた。もはや逃げ場を失った今は、正面に立つセバスチャン殿にただ見下ろされている状態で、その目をじっと見つめ返すだけ。赤く、紅く、血を戒める業火の色がまるで私を苛むように……。
 ――いつか死刑を言い渡されたあの日。
 愚かな息子を憎み、嘆く両親を鉄格子の向こうに見たあの忌わしい記憶がその虹彩に映り込んでいた――
 ……だから、つい視線を背けたわけだが、セバスチャン殿はまだ許してくれないようだ。
「なぜ逃げられるのです? なぜ少しも察していただけないのですか?」
「察する、ですか…………」
 とても察せそうにない私に緊張を帯びた白手袋がゆっくりと、私の片頬に降りてきた。指先がそろそろと輪郭をなぞり滑り、私の顎を持ち上げ、そして眉間のしわを寄せながらこんなことを言う。
「私は貴方を愛しています。だからこんなにも切羽詰まっているというのに、アグニさんは少しも気持ちを汲み取ってくれない……。私泣いてしまいそうです」
 ……その通り。今も尚その人の気持ちを汲めない私は愚かだ。だってセバスチャン殿にはあの御方がいらっしゃるわけで、現に私はその場に居合わせたわけですから。
「セバスチャン殿、貴方は劉様を見初めていらっしゃる。私などにこのようなことをなさってはなりませぬ」
「確かに、猫のような彼には一度惹かれました。しかしそれは仮初のもの、疑似恋愛的な要素が多分に含まれまして……。例えば、アグニさんの崇拝なさるソーマ様に長く魅惑的な尻尾が生えていたなら、それが手招くように揺れていたなら、崇高なアグニさんと言えど迷わず飛びつくでしょう?」
「はぁ………?」
 ますます理解に倦む私を見て、ふと窓の奥を見やる彼は独り言を呟くように、どこかその本性を仄めかすように、そしてとても心苦しそうに……
「あの御方も、心を持つ人間だと感じたのは数日前のベッドの上。憎まれ口を叩いては自分を殺るだなんだと、挙句別の男を想う男はどう見ても猫ではありません。何より私は、彼に必要なものを与えられない。彼にはもっと相応しい相手がおられました。所詮悪魔風情、人間には敵わないものです」
「それなら尚更、お辛い時はカーリー女神にお祈りするとよろしいですよ」
「しかし彼がいたからこそ、私は自分の想いに気づくことが出来た。機会は確かに招かれていたのです」
 私の台詞を遮るようにそう続け、私をきつく抱き締めてくる。そしてまた、まるで告白めいた言葉を次々送り込んでくる。
「アグニさん、辛い時は、こうしたいのですが……。駄目ですか? アグ二さん、この私が清き貴方に触れることをお許し願えませんでしょうか?」
「へ……?」
「神聖不可侵である貴方に、汚らわしい悪魔の手が触れることをカーリー女神は許しますでしょうか……」
「セ、セバスチャン殿……?」
 より強く私を抱き竦めながら、それでいて力なく私の胸に項垂れてきたセバスチャン殿。この機会だけは逃したくない、とよくわからないことを呟きながら、まだまだ続く言葉に、全身を包み込む体温に、私の中の畏敬の念が、今何かに変わろうとしていた。
「私に必要なのは、澱みのない貴方という崇高な神なのですが。受け入れて下さいますでしょうか……」
 それはあくまで執事としてご丁重に告げられる。しかし間近に見た瞳は悲しく、血の色に程よい熱の宿る優しい紅茶の色をしていた。
「一体私は何を受け入れれば、アグニめの何を差し上げれば、セバスチャン殿の思いに適いますでしょうか」
 ただただ純粋に彼のこの熱意に応えて差し上げたい気持ち。故に欲しいのは、その熱意をもう少し噛み砕いた言葉。
「それは勿論、貴方の全て。心も体も魂も、いや、心だけでもと思えるほど私は貴方を欲しています」
「心……ですか?」
「身体が欲しいだけなら籠絡するのは簡単。王子さえダシにすればそれこそ何でもしてしまうのが貴方ですから。しかしここで、悪魔が真向勝負で挑もうとするのは貴方が高潔なる神だからです。事実貴方は人間の域を超えた力と心を持ち合わせておられる。だから、カーリー女神が力で悪魔を制したなら貴方は愛で悪魔を制し、ぜひ本物の神となっていただきたい。そして不老不死を手に入れたなら、この先ずっと……ずっと私のそばで私の暴挙を制してほしい。私、貴方に嫌われたのが本当にショックでした」
 飢えをキスで誤魔化して、愛に痴れるその内に私にも死が見えたなら、あなたに看取ってもらえたならそれが本望なのです…………と、私の左胸に甘えるは痛々しく掠れた声。終ぞ見たことのない、見たいとすら思わなかった彼の弱さ。それを直接知ってしまった私の心臓にぼっと火が灯る。
 それに、私の心を得ようとする彼の考えが尤もだと思ったのは、絶対神カーリー女神の名を彼の口から聞いたから…………それだけだろうか。
 一つだけ、彼は最後に、私に嫌われたことがショックだったと言った。
「わかりました。私はもう、二度と貴方を嫌いません」
 ……こうして彼に絆されているのかもしれない。今触れている彼の腕力にすら言いようのない不安が込み上げ、だからと言って振り払うことも出来ず、またも向こうに視線を逸らせば窓に映る自身の両頬。先の夕陽と同じ色は今のセバスチャン殿とも似ていて、少し情けない。やはり多少、絆されている。 きっとそうなのだ。
 そうして少しずつくすぐったい感情が芽生え、私は小さく鼻を擦った。
「嗚呼、私は今いる世界が恐くて仕方ない……」
 またも零された彼の弱音。今日のセバスチャン殿は変だなと、油断したところに突如唇に受けたキスにはまた驚かされてしまった。
 最近は劉様とも口付けを交わしたが、あの日感じた馴れ合いという甘さに加え、胸に留まる緊張感と、同じ執事としての同情。そしていつも抱いている尊敬の念に、熱い慈愛の気持ちが融合していくことになんの違和感も抱けないでいる。
 身体は決して逃げようとしなかった。ゆっくりと瞳を閉じ、意外と甘い真摯なキスにただ黙って落ちてゆく…………それが、私の答えだったのかもしれない。
 やがて離れた唇の放つ言葉は、私の尊敬する執事から。見事言い当てた味覚は相変わらず人間離れしている。
「チョコレート……ですか? しかも自社製品の」
「ええ、先程カリーパンを作っていましたから。その際少しだけ味見をいたしました」
 すると、ふっと表情を崩した彼はまたしても情けない笑みを浮かべ、眉間を押さえていた。
「 こんなものが美味しいなんて、私はどこまで成り下がるのか」
 そしてカリーパンは仕上がったのかという彼の質問。
「ええ、あとは揚げるだけですので、先ほど料理長殿にお願いしてきたのですが……」
 答えた途端、一変して色をなくしたセバスチャン殿。急ぎましょう、と忽ち慌てて部屋を飛び出そうとし、その際、さり気なく私の手を取り、二人廊下を突っ走っていった。

 つい小一時間ばかり前にいたはずの厨房は何故か黒焦げで、モクモクと煙が充満する中からはアフロヘアーの男が姿を現した。
「シェ、料理人殿……?」
「バルド……。油で揚げるだけだというのに、今日は何を使ったのです?」
 セバスチャン殿が部下を咎める後ろからはもう一人、端整なお顔をすすだらけにした劉様が咳き込みながら出てきた。
 そして二人による微笑ましいやり取りが始まったのは、今もこの手を繋いだままの、私たち二人の前で。
「ゲホゲホ、まったく、なんであそこで重火器つかう必要があるの? もう本物の馬鹿だよこの男」
「うっせぇな、こっちの方が早ぇからに決まってんだろぃ!」
「ねぇ君ほんとにシェフなの? よくそれで雇って貰えたねえ。うちならいくら積まれてもお断りだよ」
「そんなのは雇った本人に聞きやがれ!」
 しかしその本人は頭を抱え、先程より重い屈託を覗かせている。
 私はそんな彼の肩に手を置き、夕食の時間を案じた。
「それでは私が片付けを致しますので、お二人は……」
 そう笑顔で申し出る傍から、毎度部下を戒める上司がいるから騒ぎは止まない。盛り上がった頭のコブを抑える料理人と腹を抱える客人。そして大人気なく、こっそりとぼやく男は私の隣で、またも私を絆そうとしていた。
「私はただ、貴方の作ったカリーパンが欲しかっただけなのです……」
「そんなもの、お申し付けくださればいつでも差し上げますのに」
 こうして貴方の内側を何度も見せられてしまったら、私はなんでも差し上げてしまいそうな、そんな私の甘いところ。
 遅まきながら、チョコレートより甘い感情が左胸にゆっくりと溶け込んできた。