スクエア・ダンス


 人力ではあり得ない、ミシミシと避けるように続く倒木の音。一方では戦場を彷彿とさせる物々しい爆破音のあと、食器が数枚割れると同時に女性の高い悲鳴が上がる。そしてどこからかともなく、しわがれた不気味な笑い声が無人の廊下に響き渡る…………
「ほっほっほっ……」
 まるで怪事件が起きたような階下の騒音から、隔離された二階の書斎は今日も静かだった。

『イーストエンドの激安風俗店経営者、何者かに殺害される』

 気怠いページ送りが止まったのは、太字で打たれた小欄の見出しを蒼い隻眼が捉えるや否や。小さな指に開かれた一面が窓からの陽射しを跳ね返し、その裏面には頬杖姿の人影がすっぽりと納まっていた。
『中国人とされる被害者の刺殺遺体からは毒薬の反応もあり、警察は捜索を続けているが、目撃者がいないことには依然足止めを食らっている』
 続く記事の内容に、人影は素っ気なく呟いた。
「なんだ。案外あっさり終わったな」
 片隅でちょろちょろと注がれる紅茶の向こう、デスクの中央で新聞を折り畳んだシエルが眩しそうに目を眇め、奥の執事に語りかけた。
「マフィアのやり口だ。どうせ警察も嗅ぎつけやしない。これでこの件は終わりだな」
 つまらんとばかりに新聞を軽く放った右手が、替わりに差し出された紅茶を受け取り、口許へ寄せた。
 その対面に控えた執事が今日の予定を申し出た。
「本日はこれからF工場の視察に向かいますが、午後にはエリザベス様がお見えになりますので……」
 するとゲフッと咳き込んだシエルの胸許へ、見計らったような早さで白いハンカチが舞い込んだ。
「お忘れでしたね、坊ちゃん」

 

 ――それは、家主の留守中に起きた、たった一人の少女による幼気な犯行だった。
 ふんわりとした白いレース、数枚重ねのピンクのフリルに赤いリボンが壁を彩る大広間。宙にも煌めくハートの国にクマやウサギも戯れる。
「いやぁ…………。これは凄いね。伯爵の趣味にはついていけないなぁ」
 たった今、ファンシー劇場と化したホールに足を踏み入れた上海マフィアがその場で絶句していた。 ぽかんと口を開けたままぐるりと辺りを見回してから、片腕に絡みつく妹に猫なで声で問いかけた。
「藍猫、君もこういう趣味持つ気あるかい?」
 その藍猫が首を横に振るそばから、早くも最初の犠牲者が飛び込んできた。
「も、もう充分ですだぁ〜っ!」
 ウサ耳姿のメイリンが大童でドアを飛び出し、続いて一人、もう一人が階段の下へ慌てて逃げ込んでいった。
「勘弁してくださぁ〜い!」
「ほっほっ、ほふぅ………」
 続々登場するメルヘンな仮装を前に、唖然と立ち尽くす兄妹。依然バタバタと物音のする奥のドアを見やれば、そこにはまるで、魂を抜かれた様相の最後の犠牲者が立っていた。
「バ、バルド…………?」
 振り向いた兄妹の顔からさっと血の気が引く。程なく破顔したのは兄のほうだった。
「あははぁ、ちょっとヒゲくらい剃ってよ。ひどいよこれぇ。ねぇ藍猫見て気持ち悪いよ、ほら。すね毛もこんなにボーボー」
 如何にも強いられたバルドの女装に、女装の心得などまず見当たらない。太い骨格に浮き出た筋肉はそもそも女装を受け付けないが、その豪胆な気質までがレースのワンピースを打ち破る。一本を咥えたまま無表情に立つ女装男は変質者以外の何でもない。
 その大女が玄関に立つ兄妹を見つけるなり毅然として、二人の正面に歩み寄った。すると兄妹の背後では折しも玄関の扉が開き、バルドは二人の頭越しに更なる客人を迎えたはずだが………
「お……おいアグニ! 変質者だ!」
 声に振り返った中国組の前に、顔を真っ青にしたインド組があからさまな変質者を警戒していた。
 王子は初めて目にするか、元軍人による女装という際どいカルチャーショックを受け、全身を硬直させたままで、彼は後ろの執事に命令した。
「アグニ、きっとこいつはシエルに何かやらかしたはずだ! この変態野郎を倒せ!」
「ジョーアー…………ギャ?」
 アグニは右手を晒そうとしたが、変質者を睨めつけるなりはっとして、その手を伏せた。
「王子、彼はきっと料理長殿にあられます」
「シェ…………?」
 すっかり目を点にする王子だが、彼はこの後、続く五人目の犠牲者となることをまだ知らない。
 たった今あの不穏なドアの向こうから、目を輝せた少女が麗らかに駆け寄ってきた。彼女は遠い異国の王子様に、誘惑の言葉を投げかけた。
「あら貴方、私がその髪を結って差し上げるわ」
 うら若きおてんばなレディは否応なく王子の腕を引っ張り、忌まわしきドアの向こうへと朗らかに引きずっていったのだった。
「アグニーっ!」
「ソーマ様ーっ!」
 慌てて助けを求める王子をその執事が追いかける。もはやファントムハイヴの名を超越するおもてなしを、三人はその場で傍観していた。
「あいつらなんで来たんだ?」
 腕を拱き呟くバルド。そんな彼を、改めて見つめる劉の口許は微妙に緩んでいた。
「彼らは我が呼んだんだよ。君が面白いもの見せてくれるって言うから誘ってあげたけど、あはは、これは酷いね」
「ああ。でも失敗だな」
 先日は熱を出ししおらしく憔悴していた劉。その笑顔を見事、ある意味身体を張って攫ったバルドだが、失敗だと言う彼には彼なりの思惑があったようだ。いつも通り寡黙な彼女の鉄のように硬い無表情をバルドはじっと見つめていた。
 そこに次の来客……ではなく、ここの主がいま帰宅する。
「な、何故お前らがいる……?」
 ドアを開けるなり、シエルの目に映りこんだのは変質者ではなく、振り返った中国人の方だった。
「やあ伯爵。こんな面白いパーティーに我を呼んでくれないなんて、とんだいじめっ子だね伯爵は」
 帰宅早々漏れる溜息には色々なものが含まれるらしい。もはや女王より重い憂いや愁いがシエルの周りを渦巻いていた。
 そこに彼のフィアンセが、もといハートの国の女王様が早速ドアの向こうから現れ、無愛想な彼の嘆きの霧を切なく甘い溜息に変えた……と、見えなくもないはず。
「シエルー! シエルが帰ってくるまでここもここに居る人もみんなみんなラブリーにしようと思ったの! えっと次はぁ……」
 そう言って、次の獲物を狙う目はロシアンルーレットの如く、その場でぐるりと辺りを見回し、ある人物に手が差し伸べられた。
「え…………? わ、我……?」
 まさかの六人目に、呆然と連れ出されるその姿にシエルがほくそ笑む。そして奥から出て来た五人目には、もう顔を引き攣らせていた。
「一体なんなんだ……」
 そんな主の気持ちを悟ったか、涙目のツインテール王子と出てきたその執事の許へセバスチャンが歩み寄った。
「アグニさん、本日はどうしてこちらへ?」
「実は劉様から、料理長殿が面白いものを見せてくれるとの連絡をいただきまして」
「それはそれは、彼とはまだ睦まじくおられるのですね」
 言葉とは裏腹の笑みに、気付いたシエルが怪訝に眉を顰める。そして次の瞬間、決して見てはいけないものを見た彼はすでに笑うことすらなかった。
 キィ、と開いた戦慄のドアから帰還した六人目の犠牲者。一瞬にしてホール中の空気が固まる。
 二本の三つ編みを肩に垂らし、丈の短いセーラー服から腹を覗かせ、薄い顔ゆえに浮いた化粧はむしろ素顔に劣っている。先のバルドと同様に魂の抜け殻と化した彼が無言でドアの前に立っていたのだ。
 目にした皆が色を失い、開けた口をパクパクするだけでとても声を出せずにいた。
 そんな中、一人だけ小さく噴き出したのが、彼の大切な妹だった。
「藍猫…………」
 忽ち息を吹き返した兄は朗らかに、いつに無く軽い足取りで彼女の前に駆け寄っていく。
 貴重な笑顔を背ける彼女の、小刻みに揺れる肩を抱き締めながら、その頭を撫でてこう言った。
「藍猫、君はずっと我の小妹……」
「大哥やめて、お腹痛い……」
 それを傍で見守っていたバルドが「やったな」と一言。渋い微苦笑を浮かべ立てた親指で誇らしげに鼻を擦る。
 一方では、人差し指で鼻の下を擦るアグニが感慨深い涙を浮かべていた。
「よかった……。やっと分かち合うことが出来たのですね。偉大なるカーリー女神に祈りが通じたのでしょうか。ああ、なんて素晴らしい……」
 感嘆の声を上げなぜか祈り出す彼の横で、なるほど……と意味深に頷くセバスチャン。そんな彼の手には、二頭身版タナカ氏モデルの新しい招き猫があった。
「なんなんだもう……」
 憮然として溜息も出ないシエルにはまだ知らない世界があったようだ。そこに会心の笑みで戻ったフィアンセが勢いよくシエルに抱き着き、頬を擦り付けた。
「今度は、私の晴れ姿も見てもらいたいな……」
 恥じらいの声で囁く彼女に、未来の夫は頬を染めた。その紅色に似た西日が今二階の窓から差し込み、いつかクリスタルパレスで見たような、暖かな光が屋敷中を包み込んでいった。
 この先に待つ無情な結末など夢にも思わない光景の中で、明るい笑顔が飛び交っていた。

 

「料理長殿」
 その言葉にほわーんと持ち上げた顔を、バルドははっとして横に振る。
「ダメだ、俺には心に決めた奴がいる……!」
 はい……? と疑問を浮かべたアグニが隣で黙々とカリーを煮込んでいた。今日は広間の片付けに負われるセバスチャンに代わり、夕食は彼ら二人の腕にかかっていたのだ。といっても、そこに神の右手がある限りまず間違いないはずだが…….。
「私セバスチャン殿の様子を見て参りますので、仕上げを任せてもよろしいでしょうか」
「おう、まかしとけぃ!」
 ご機嫌なシェフの返事にアグニは軽い微笑を残し、厨房を去っていった。そして広間へ向かう途中の廊下で、悪魔も妬む睦まじい友人同士、ばったり出くわしたのだ。
「やあ。先日の服の仕上がりはどうだい?」
「ええ、私は勿論のこと、王子も大変喜んでおられました」
 朗らかに向かい合った二人の距離は必要以上に近い。友情以上の空気が忽ち二人を包み込むが、その真相は誰も知らない。しかしアグニの顔一つ下から踵を上げ、そっと口許を寄せた劉は、キス寸前の距離でこう囁いた。
「それとねアグニ……我、君以外に好きな男が出来たよ」
「それは素晴らしい。人を好きになるということは己の心も満たします」
 今にも唇が触れてしまうにも関わらず、不審な顔一つ見せないアグニに劉はふっと笑って、そのままキスを仕掛け……ようとしたところに折りしも邪魔が入り込んだ。
「おい、俺に嫉妬させっと後がめんどくせぇぜ」
 後ろの壁際に立っていたバルドが、不満気に振り向いた劉を見ては更に不満気に睨めつける。腕を組み噛み潰す一本から無言の苛立ちが漂ってくる。
「え……? っと……」
 すっかり困惑するアグニの前で、劉の腕を掴み取ったバルドはその場を立ち去ろうとした。
 すると、今度はあくまで執事の彼が現れ、奇しくも役者が揃ってしまった。
「バルド、何を遊んでいるのです」
「今戻んだよ」
 大人げなく舌打ちしたバルドは劉の腕を引いたまま、手前にいるセバスチャンの横を擦り抜けていく。
 強引に引っ張られる劉は満更でもない笑みを浮かべ、大人しく連れていかれるが、そのすれ違いざま、無表情に立つセバスチャンが一言。
「鍵はしかと受け取りました」
「さあ、なんのことだか」
 すっとぼけた劉が足を止めると、気付いたバルドはそっぽを向いて一人立ち去ってしまった。取り残された劉の、すっと開いた薄目の先には赤い横目があった。
「貴方のお天気屋には猫も驚きですね」
 尤もらしい厭味は未練とも酌めるが、互いに背を向けた二人の間には蜘蛛の糸すら見えない。
 劉は妖しい微笑を浮かべるだけで何も言わず、嫉妬深い男の背中を小走りで追っていった。
 同時に、暫く異様な空気にあった廊下に平穏が戻り、妙に清々しい表情をしたセバスチャンとすっかり置いてけぼりを食らったアグニがその場に立ち尽くす。
「アグ二さん、少しよろしいですか?」
 それは緊張を患った吐息と共に、思い詰めた眼差しをしたセバスチャンがアグニの前に歩み寄っていった。
「え、ああ……」
 曖昧な返事をするアグニの手を拾い、厨房とは逆方向へ、彼を連れ出していった。