一場の春夢

 そっと背後に忍び寄り、麻酔液を染み込ませた布で瞬時に相手の口を塞ぎ、毒を仕込んだ鍼先を首筋から奥の延髄めがけ、一息に突き立てる。
 すると忽ち目を剥いた男は抵抗も程々に、当てがった布の内で最期の呻き声を上げ、程なく床に崩れ落ちた。
 そこにとどめの一刺しを、我の優しい腕の中で永遠の眠りを捧げる。
「さあ、おやすみ……」
 依然として痛む尻を後ろ手に押さえながら、呆気ない終わりの時を我は笑顔で見送った。
 ……という、一連の手馴れた作業は我の本業でもある。スパイ、暗殺、麻薬取引、賭博、密売、恐喝その他諸々の作法を幼い頃から周囲に仕込まれ、若くして幹部を継いだ今はミスこそ無縁、英国でも裏の顔を張る。しかしまだ熱いくらいの、真新しい熟れた色素に触れた我は暫しその場に立ち竦んでいた。
 足元に転がる肉塊、生臭い血のにおい、頬に飛び散ったその温もりが今になって活殺を問う。鋭利な刃先が肉を割き貫く感覚が何故かこの手に留まっている。
 幾度と立ち合った現場の空気が奇妙というか、違和感を醸し、我は少し困ってしまった。全身から吹き出す汗と背中をさーっと走る悪寒、加えて息が上がるのは、暫くご無沙汰だったから、というだけだろうか。
 抜ける魂の如く舞い立った胡蝶に問い掛け、我は凶器を抜き取った。

 

 あの鍵を手に、兵器搬入口から忍び込んだ我は寝静まる奥の廊下を渡り、彼の寝室に侵入した。
 すると二台並んだ手前のベッドから一際うるさいイビキが響き、夜目にも人物を特定。耳裏に煙草を一本挿し、無防備に腹を晒した寝相がカーテンを覗く月明かりに浮かんでいた。そっと忍び寄った我は、彼の耳元に囁いた。
「バルド……」
 男の名を、執事くんがそう呼んでいたのを聞いて知っている。しかし、暗闇に鳴るカチャッという音の正体が我の腹部に当てられていたのは直後。
「オメェ、とうとう俺を殺りにきたのか……?」
 カッと開いた目が我を睨み、声を抑えた太い声音にいつもの馬鹿が窺えない。
「まさか、我が寝首を掻くような真似をするとでも?そこに何の利があると?」
 我は銃口に目もくれず愛嬌たっぷりに微笑むが、同時に全身の至る気力を消耗していたようだ。
 ……そう気付いてからが早かった。胸を打ち付ける鼓動は強く、大きく鳴り響くほどに息苦しい。顔が火照り身体が冷え、くらりときてベッドの隅に着いた手がすでにガクガクと震えていた。
「お……おい、どうしちまったんだよ?」

 その後、周りが起きるからと気を巡らせた彼は、全てが覚束ない我を毛布に包み、兵器を保管する奥の倉庫にせっせと我を連れ出した。
「いやあ、悪いね」
 最早ぐったりとして目も虚ろな我を支えていた太い腕が、隅の壁際にゆっくりと降ろした。石造りの壁に背中がヒヤリ、全身が震え頭痛が増すが不思議と心は安らか。待ってろ、と彼が出て行けばさわさわ鳴る風音を外に聞く。
 照明のないここはただの暗闇で、常に埃っぽく、主に重火器ばかりで埋まっているのを我は無駄に知っている。何より先程通ったばかりであることは彼しか知らないと信じている。
 その彼がたった今戻り、持ってきた数枚の毛布で甲斐甲斐しく我を巻いてくれた。よし、と頷き隣に腰を下ろし、早速取り出した一本を咥えフウ、と休息の息を吐いた。
 そして程なく灯された蝋燭は二人の間に、我にコップを手渡す彼との微妙な距離が浮かび上がる。温かく狭い互いの視界、すれ違った宿以来の再会に、目に見えた亀裂はなく、暫くは色気のない話をただ淡々と交わした。……いや、覚束ない頭で無気力に応じる我に、隣に肩を並べた彼がいつになく、目ざとい指摘をくれたのだ。
「オメェよ、殺しでもしてきたか?」
「まさか、我が殺しだなんて」
「首筋に返り血ついてんぜ」
 ここへ来る前に身体を流してきたつもりだが、こういうものに限って楽に落ちないのを知っている。
 我は頭痛の盛んな頭を抱えたまま、ああ、とだけ気怠く応えた。そして隣に聞く同調の声に少し耳を疑った。
「こういうのに限って楽には落ちねんだな。いつまでも残って忘れさせてくんねぇ……」
 ある種似た業を背負った経験者の言葉だ。遠目に闇を見据える彼の、照らされる物憂いの目には澄んだ青が揺らいでいる。
 ……以前もそう、魂の抜けた顔で彼は何かを見つめていた。綺麗ごとでもなさそうな重い何かを背負うのは「ここの使用人」というだけで充分におい、その天然ブルーサファイアの瞳に悲壮の色を滲ませる。
 しかし深い所まで知らない我に見えるのはその青色のみ。澄み切った空の瞳はわが民族にない、正直彼には勿体ないほど美しかった。
 白人ならではのブロンドも苦み走ったその顔も、高い身長も立派ながたいも同じ男なら羨望すら抱くほど。しかしお馴染みの無精髭でほぼ台無しとなる。もう少し手入れ出来ないのかと問いたいが、問いたかったが、案外嫌いじゃないと思ったのは、以前厨房に邪魔したあの日。間近で見ると、彼のヒゲ面は意外と可愛かったりする。不揃いな一本を引っ張ったりたい衝動に駆られ、怒った彼に更なる意地悪をしたくなる。適度に突き放してはちょこちょこ手を出し、次第にその気にさせたくなるような、挙句、我がその気になったような錯覚まで与えられてしまう…………。
 ふと隣に年齢を尋ね、返ってきた答えに我は軽く眉を顰めた。
 その正直な態度にむすっとした彼は頭の後ろに手を組み、「見えねぇって言いてんだろ」大人げなく口を尖らせたあとで話題を戻した。
「にしても意外だな。オメェが人一人殺ったくらいで熱出すタマとは」
 ……ご尤も。明け透けな嫌味に我は苦笑を浮かべるまで、今はとぼける気力もなかった。
 今日は久々の現場に立ち、直接手を下すのがどれくらいぶりかを考えていた。手塩にかけ虎の子の如く飼い慣らした小妹に上から指示を与えるだけとなった今は暫くご無沙汰だったのだ。しかし今回ばかりは、彼女を遣えないどころか問題はその彼女。
「あの無愛想な子が泣いてるのを見ちゃったからね」
 胸が痛かった。藍猫の流した涙は、横流しを一瞬でも疑った義兄への苛立ちか。それとも記憶にない実の兄に対する思いか。どちらにしても今度の件は何かと心を痛めつけてくれる。結局のところ、横流しは裏金を得た部下による犯行だったが、戻って早々手にかけるまでは気が乗らず、我は解雇を言い渡したまで。身体を流し着替えた後ふらりとここへ赴いた。
 ……という、返り血に至る経緯を彼は知らないわけだが。
「それならカリーの執事に聞いた」
「え…………?」
 なぜ知るかを問えば、それは街屋敷に滞在していた時のことらしい。
 つまり我も邸内にいた数日前、アグニに仕上がった長袍を渡そうと出向いたはずが、そこで我を出迎えたのは伯爵の執事くん。彼らが居るとも知らず自ら蜘蛛の巣に飛び込んだ我は、思わぬ展開に内心ワクワクしながら彼とのゲームを愉しんだ。文字通り体に訊くというベタなプレイが待っていたわけだが、そこにまたしてもアグニが駆け付けるという、こうも偶然が重なれば最早胡散臭いと感じていたその日……小便に起きたバルドが廊下で打ち沈むアグニと遭遇。そこで今度こそ事情を聞いたらしい。
 執事くんが酷い、我が可哀想だとするアグニに、我はああいうヤツだから気にするなとバルドは宥めた。するとアグニは、我に対する尤もなイメージを真っ向から否定したという。妹思いで慈悲深い、複雑な過去を背負いながら普段はそれを微塵も見せない、精神の完成された実に素晴らしい御方……。言われたこちらが歯がゆくなるほどの熱弁を振るったという。
「ありゃあ、真っ先に詐欺に引っ掛かるタイプだな」
 そう自らを棚に上げ、アグニを鼻で笑った後で、バルドは片頬を引き攣らせ、首を落として呟いた。
「でも、あいつには喋んだな、そういうこと……」
 すっかり原型を崩した蝋燭の向こう。アグニにより美化された過去と今度の事情を知った彼は、静かに肩を落としていた。妬いているのかと察した我は、アグニとの濃密な交友を明かすことで、さて何を期待しているのか……。
「言っとくけど、アグニは我にとって今一番大切な男。君が彼を泣かせたら我は迷わず殺っちゃうかもね」
 殊勝すぎてついていけない面もあるが、アグニには王子という庇護の対象があり、我にも愛護の対象がある。そこに東洋人である以上の共感を覚えていたのだ。
「…………でも、今我がいるのはどこだかわかってる?」
 意味深に隣を覗けば、感嘆符を貼り付けた顔がはっと持ち上がり、まじまじと我を見つめていた。それを程なく横に振り、われに返ろうとばかりに無駄口を叩くところがまた……可愛く見えた。
「でもバカだな。妹がなんだっつーなら別に自ら手を下すこともなかったろ。オメェの一声で動く人間なんざいくらでもいるだろうに」
「うーん、残念だけどそれは間違い」
 裏切り者がいるとなれば下手に人を遣えない。それに実兄の顔を知る者は我しかおらず、確信を得るためにも今回は我が動くと決めていた。
 藍猫の名は我が与えたものとも知らず、彼女を藍猫と呼ぶ兄はこの世に二人といらない。彼女の成長を知らない人間に兄を名乗ってほしくない、というのは義兄としての我のエゴ。藍猫本人の意思も質さず我は自我を貫いた。そこに兄の立場を誇示したかった。でも…………。
「そう、バカだよ我は」
 小妹を思うばかりに思い煩い、行動を遅らせたことで何かと周囲を巻き込んだのは愚か。伯爵には不信を与え、アグニには心配をかけ、執事くんには……。
 ベッドで服を脱がされた我は女々しく被害者ぶっていたが、殺されはしないという確信の下で最初から愉しんでいた。しかしいざ始末を図ろうと重い腰を上げた我の、発破をかけてとした行為はわれながら理不尽。自ら毒に染まろうとしたある種の自傷行為であったが、アグニに諌められた執事くんは明らかに躊躇っていた。そこで無理を言ったことも多少反省している。
 よって誤解しただろうアグニにはまた謝るべきであり、その誤解を受けただろう執事くんには…………まあ、いっかな。
 何より、今日ここを訪れた我はこの男以上に馬鹿だと自覚していた。もう、わかっていた。
「まんまとほだされたんだよ君に。抱かれてもいいと思って我は今日ここに来たの」
 今も、この胸に湧き上がる慕情はその気になったような錯覚じゃない。阿片売りが阿片中毒に、放埓な蝶が花の蜜に、虎遣いが雄虎に……いや、馬鹿に縋るバカ猫に成り下がったのだと、気付くのにはあえて時間をかけた。
 溜息まじりに告げた我は怪訝な目に睨めつけられていた。そこで偏に食い付かない辺り、彼はただの馬鹿じゃない。前回もそう、いざという局面こそ冷静を図るのがこの男で、それが名立たるファントムハイヴに雇用された「使用人」なのだろう。
 裏の世界に携わる者はまず冷酷な面を持ち合わせるが、我も例外ではないが、普段は馬鹿を晒す人間ほどそのギャップは恐ろしいもの。事実、今隣にいるアメリカ人は重火器バカのオヤジ少年じゃない。それこそ命令があれば我を殺る男。その澄んだ瞳で照準を合わせ、自慢の兵器でいざ、我の後頭部でも狙うのだろう。
 …………それが、今は少し寂しかった。こういう時こそ熱く揺さぶってほしいのに、余計なところで賢い彼は掌で踊ってくれない。無骨で露骨で傲骨な衝動を見せてくれず、軽骨な我をまず信用しない彼はファントムハイヴの使用人として今日も任務を全うしている。
「ねえ寒いんだけど、抱いてくれない?」
 仮にも病人であることに甘え、思わず口走った我を彼はじっと見極めていた。窄めた薄目で瞼の内まで訝しむように。まるで、敵に捕虜を望まれた軍人のように……。
 やがて咥えていた一本を床に押し潰した彼は、落ち着いた面持ちで上体を起こし、徐に腕を伸ばしてきた。
「オメェが頼ってきたんだ。好きなだけ抱いてやる」
 低く囁く声の途中で、彼の匂いに包まれていた。頬に触れる厚い胸板、額に擦れる数本の顎髭、毛布の上から胴体を締める、少し強いくらいの腕力。気まぐれな我のわがままごと、バルドは真顔で抱き締めてくれた。
 同時に今、蝋燭の火が安らかに息絶えたらしい。
「ひでぇ弱音を聞いちまったが、気のせいだよな」
 暗闇の中、耳元にふざけた声を聞いた我はその顔を見上げ、甘えた声を絞るようにして彼に迫る。
「ねえ、して……?」
「病人なんか抱きたきゃねえよ」
「おや、つまんないね。我が好きなら結構幸せな場面じゃないのかい?」
「なんだよそれ」
 そうすっかり呆れたあとの、重い吐息をすぐ傍に。彼の肩に手を伸ばせばそこには確かな傷跡が触れ、彼の背負い続ける何かがうっすらと見えた気がした。我を殺して俺も死ぬと、簡単に口走る理由を知った気がした。
 生きた肌の感触と、ドクドクと息づく心音に触れ、安心して身を委ねる我は、暗闇に今日の罪業を葬る。そのまま彼の胸に抱かれ、頭痛を消し去り眠れるのなら、時機に胡蝶の夢となろう…………
「……ハァ。ケシ茶とかないよね?」
「なんだそれ?」
 身体を離し問い掛けた彼は、我が阿片云々を口にしただけで露骨に顔を歪めた。
「そんなんより、他にもっといいもんあるぜ」
 そう言って一度ここを出ていき、新しい蝋燭と共にそれを持って戻ってきた。
「コーラだ」
 それは蝋燭で戻った視界の真ん中に突き出された一杯のマグ。中身は黒い。
「コーラ?」
「ああ、本国からやっと届いたんだぜ。あっちじゃ大流行だとよ」
 我は受け取ったマグの中にパチパチ弾ける音を聞いては不安に、においを嗅いでは色々疑った。
「コカイン……なんて入ってないよね?」
「そりゃあ俺も知らねぇが……まあ不味くはねぇよ」
 正直嫌な予感がしたが、我は恐る恐る唇を寄せ、未知なる黒い飲み物をそっと口に流し込んだ。すると一口目でむせってすぐの、二口目が最高に美味しかった。
「はぁ、美咆!」
 喉を突き抜ける爽快感に思わず至福の顔を上げると、何故か染まりゆく彼の頬。
「案外かわいいなお前……」
「好き?」
「ま……まあな」
 そうぶっきらぼうに応えた彼が直後、突然オヤジくさい悲鳴を上げた。
「ぁあっち、あぢっ、だぁ畜生っ!」
 ……ハァ、なんて馬鹿な男。振り向きざまにうっかり蝋燭の火に触れるとは。しかしそれは、決して科を作ることのない、我の心を揺さぶる術を以て仕掛けるイノセント……?
「あはは、もうやめてよ」
 弱いんだよね、意外と可愛い馬鹿な男。
「ねえ、我の気持ちは聞いてくれないのかい?」
「どうなんだよ」
「さあ、ここに聞いて……」
 黙って取った彼の手を引き、下から不意打ちのキスを奪った。そしてキョトンと目を丸くする彼の、その手を我の胸に置いた。
 こう見えてもちゃんと息づく我の胸。ここにも深い愛情があると、それは誰かに教えられたとても大切な場所……。
 そこに熱い掌を感じているうちに、綻びた唇から少しずつ舌先が忍び込んだ。図に乗るその先端に思いきり歯を立てたい衝動を抑え、ゆるく舌を絡ませていると、顔が逆上せ熱が上がり眼球まで熱くなった。
 そこでうっすら目を開けた我は、蝋燭を頼る視界の中に疑問を一つ見つけた。今二人を照らす新しい蝋燭の隣に先の一本がある。それはまだ数センチの高さがあるというのに、一切風のないここで、果たして先ほど、どうして火が消えたというのか……。

「そうだ。明後日またここに来い。妹連れてな。まあまあおもしれぇもん見してやっからよ」
 彼の言う面白いはどのくらい期待できるかわからないが、そろそろ我の身体が限界だったようだ。
「バルド、ここ貸してくれないかな?」
 言っては触れた、彼の膝の上で横になった我は、そこに頭をもたげ、今一度まぶたを持ち上げ、現実を見た。
 我を見下ろす彼の目の下の隈を一瞥したあと、微かに漂う風上を追い、小さく笑った。
 不自然に開いた入り口のドアから、今重火器の山の向こうに血のない赤の視線を見た。
「ああいう趣味ってよくないよね」
 そうして、我は彼の膝の上で翌日の昼頃まで眠った。寝入って直後に響いたいびきで頭痛が止むことはなかったが、床が硬くて身体は痛いが、不思議と目覚めは悪くなかった。ゆっくり身体を起こした我は、すでに彼のいない倉庫からここの日常を窺うとした。
「バルド、この七面鳥の中に仕込んであるものは何ですか……!」
「何って、それで導火線付けりゃ一発だろ?」
「うわぁ〜ん、セバスチャンさぁ〜ん! 庭の草がバルドさんのヒゲみたいになっちゃいました〜!」
 壁の向こうにここの日常を聞きながら、彼の置いていった惨めな朝食を、コゲ気味の目玉焼きを九割ほど残した。そこにここの鍵を置いて、我はこの邸を去った。
 少しゆっくりしょうとしたが我も忙しい身。今晩我は、スタンレーという男に面会を持ちかけられている。