今日もこうして、何かと仕事を増やしてくれるあのバ……使用人らに嘆く以前から私は求めている。
天性にして罪な浮気性。シルクのようにしなやかな毛並み。そしてぷっくりと盛り上がった肉球は、薄桃色のあの柔らかな感触は今どちらに……?
初めて出逢ったその日には、私は悪魔という渾然一体である存在に対し、とても懐疑的になった。彼女を想い、思い煩い眠らない幾千の夜を明かしてきたのだ。
「嗚呼、プニプニ……」
窓から射す日光にすら頭を抱え、一人壁際に立った私はここ数時間で溜め込んだ色々なものを溜息に溶いた。そして端然と向き返ると、長い廊下を足早に突っ切り曲がってすぐの裏庭へ直行。重厚な扉を目の前に、取っ手を握り締めたそこで今一度、愛する彼女に癒しを請う。
「昨晩のうちに餌を撒いておきました。全ては愛しき貴女のため。さあ、今会いに行きますよ……」
一気に開放したドアから白昼の光を全身に受ける。新緑も照り返す眩しさの中から意中の彼女を探した。
「………………?」
大きくドアを開けたまま、茫然と立ち尽くしたのはそこに思わぬ先客がいたからだ。裏庭の餌に群がる愛苦しい三匹。まっしぐらに貪り食う彼女らと共に今や客人とも言い難い客人が膝を交えていたのだ。食べカスの付着したヒゲをペロリとするその傍らで、瞳を閉じた穏やかな彼が低く腰を屈め、そっとグレーの毛並みを撫ぜながらそれは程なく、オモテの顔をこちらに向けた。
「あれ? 執事くん、これここで飼ってるの?」
「いえ……」
茂る緑の芝の上、鳳凰柄の青い長袍を纏う劉様。今日もどこから忍び込んだか、神出鬼没の客人は普段はまるで裏の顔を見せない。飄々たる振る舞いはその素性をぼやかすようで素のようで、私もいまいち掴み切れないでいる。
そんな彼に、今、私の中の悪魔がふと首を傾げたのだった。
「ニャオ★」
可愛いさを吐き違えた毒々しい微笑。片頬に拳を翳した劉様が私へ愛嬌たっぷりに手招く。慇懃な執事に対し軽くおどけてみせる。……もとい嘲弄している。
しかし、そこで呆れるどころかまるで視界を奪われた私は、あの笑う猫を見た気がした。好物の豊富さに堪らず笑みを零すという、ここ英国に伝わる床しき幻の……。
果たして幻か、同時にポッと、悪魔とて解せない何かが芽生えたようで些か我を疑った。
「ほっほっほっ、まるで招き猫ですな」
突然の悠長な声に振り向けば、ドア横の茂みの隙間でお茶を啜るタナカさんがいる。
「タナカさん、何時の間に」
「ちょっと休憩です」
「ちょっと……?」
そこは少しばかり眉を顰め、「招き猫?」と尋ねる私はその猫を知らない。意中のチェシャ猫の他にも魅力的な、幻の猫がこの世に存在するというのか。
すっと音もなく立ち上がり、解説を始めたタナカさんは忽ちリアル化した。
「招き猫とは、およそ江戸時代から日本で親しまれる猫の置物でございます。先程の劉様のように、片手で手招く猫の人形を置くことでそこに福を招くという、一種の偶像崇拝ですかな」
「つまり、縁起物というやつですか」
「近年は商売繁盛の願を込め、片手に小判を持った招き猫が主流ですが、本来は何も持っていないのが当然なのです。招き猫が与えるのはあくまで機会ですので、そこで商売繁盛にあやかろうとするのは間違い。機会を殺すか生かすかは本人次第ですからね」
折しも三分を経過したか、そこまで述べたタナカさんは一瞬にして萎んでしまった。
「猫に金銭を持たせるとは、これまた人間らしい卑しいお考えですね」
私は遍く人を蔑むが、その招き猫には果てしなく心惹かれる。血の通わないハリボテにあのプニプニはないとして、「手招きという仕草をする猫」そこに激しく魅せられる。では、如何にして入手すべきか。そこを真剣に考えていたところ……
「結構人に懐いてるねぇ。前から餌やってたのかい?」
私より先にハーレムを満喫する劉様の声。そう、彼のことをすっかり忘れていた。
「劉様、おいでだったのですか?」
そそくさと歩み寄った私は、訪問の理由を質すより先に一匹を抱き上げた。こればかりはどうにも譲れなかったもので。
「あははぁ、ちょっと暇だったから」
無邪気に応える劉様だが、ここは暇だからと来る処ではない。しかし窘めるのも今更、そもそもすんなり迎え入れる方も如何か、柔らかなプニプニを弄りながら現状を顧みていた。
「餌があればそりゃ住み着くよねぇ。我も今日はここで食べてこうかなぁ、あっははぁ」
あっははぁ……と、笑顔で見上げられても困るわけですが……。
「私は結構ですが、坊ちゃんには一言ご挨拶下さい」
「はは、いつも悪いねぇ」
にこにこ現金な彼の隣に、日々の餌付けですっかり懐く彼女達がいる。
「少し餌を撒きすぎでしょうか……」
弄り尽くす白手袋の内で、愛撫によがる一匹に尋ねてみた。
そこに今背後から、ドアの向こうからけたたましい呼び鈴が悪魔で執事に御用を知らせる。
「さて、私はこれで失礼致します」
私は彼女をそっと手放し、後ろ髪を引かれつつも流し目で別れを告げ、劉様には丁寧に頭を下げた。 そして踵を返すなり、ふと思い立った私は透かさず劉様に願い出た。
「ここでのこと、くれぐれも坊ちゃんには内密に願います」
今日大事な秘密を知ってしまった彼へ、私からとてもとても切実なお願いを申し上げた。
塗り潰された紙の上に、指輪の重そうな細い指が万年筆を転がして遊ぶ。
呼び出しを受けた二階の書斎へ早急に向かった私はデスクの前に立つと、散乱するメモ書きに落書き、主に落書きが占める机上におおよその御用を図っていた。
「遅かったな」
日光そそぐ窓を背中に、物憂げな頬杖から持ち上がった顔は非常に辛気臭い。が、もはや箔が付いて見える。
「何を遊んでいた?」
そう言って、じろりと見据える坊ちゃんの目ざとい視線に緊張が走った。私はあくまでさり気なく、燕尾服に付着したグレーの毛を摘み取った。
「……まあいい。それより次の玩具を考えてるわけだが、いい加減アイディアが尽きてきた。何か面白い案はないか?」
新商品開発のための斬新なアイディア。これが今回の呼び出しの件だ。
「案と申されましても、もう少し具体的な言葉をいただけませんと」
「そうだな、まず対象は絞りたくない。子供から大人、老人にまで受け入れられる玩具を望む。街を行けば、最近は若者まで浮かない顔をしている。何か希望を見出せるもの、且つ実用的な付加価値があれば文句ない」
主の注文はまた漠然としているが、執事たるもの、玩具のアイディアくらい出せなくてどうします?
「そうですね…………」
一旦廊下へ、奥の窓辺に立った私は裏庭を一望出来るそこからある人物を探した。
「嗚呼、もう中に入られましたか……」
「なんだ、何を探している?」
追って来た後ろの坊ちゃんに私は一つ案を呈した。
「実は先程、タナカさんからお聞きしました、あくまで機会を招くという……」
タナカさんの受け売り、そこに実用的な付加価値を乗せた画期的な新商品。……というより、今私が最も欲しいもの。
「……よくわからん。お前が工場へ行ってサンプルを頼んでこい」
「御意、ご主人様」
胸に手を、深々と頭を下げた私は、密かに赤目を滾らせた。
数日後、試作品として出来上がったそれははっきり申し上げて自慢の一品。意気揚々と坊ちゃんの許へ向かった私は、今日も仏頂面を決め込む、毅然と足組む主の前でいざお披露目の時を迎えた。被せた布をはらりと解き、主の手許へ丁重に差し出した。そして一歩下がり評価を待った。
「誰かに似てるな……」
坊ちゃんの頬杖に尚も苦々しい表情が乗る。ニヤリと手招く試作品を見つめ、下された評価はまた辛辣だった。
「この下品な薄ら笑い、人を騙し欺こうとする卑しい糸目。……はあ、実に小気味悪い。失敗だ。これは流行らん」
鼻先で一蹴する、坊ちゃんによる注釈はこうだ。手の甲を上にした手招きの仕草はここ欧州では追い払う意で使われ、日本でいう本来の趣旨とは異なるとのこと。
「失態だなセバスチャン」
坊ちゃんはしたり顔で、試作品をまるでゴミのように机上から払い落とした。
細部に至るデザインの追求から発注までの労が床に落ち、砕け散る寸前のところで私は慌てて彼を救出した。
「坊ちゃんこれ、私がいただいてもよろしいでしょうか」
試作品をひしと胸に抱き、駄作との評価を受けた彼の私物化を願い出てみる。
「別に構わんが……」
素っ気ない主のお許しに、思わず緩む口元は誰にも見えていないはず……。
「それより、少し外を彷徨いてこよう。何かしらヒントが落ちてるはずだ」
「御意」
坊ちゃんの身支度を整え、部屋を出ようとドアを開けた丁度その時だった。
「やあ伯爵」
今日も忽然と現れた中国服の彼。仲睦まじい妹を隣に、その腰に絡みつかせた方とは逆の手を緩く持ち上げる。
坊ちゃんは廊下の手前で立ち止まるなり、ふと、何かを察したようだ。というのも、一歩後ろに立つ私に、私が持つ試作品に、冷ややかな横目をくれた。一応縁起物であるそれを執拗に貶してくれた。
「これだ……。道理で薄気味悪い」
……道理で。…………そう、道理で。妙に納得した私はすでに、何かが錯誤いたのかもしれない。
「劉、来る時は先に連絡をよこせと言ったろ」
「あっははぁ。だって藍猫がどうしても来たいって言うからさ」
「言ってない」
無表情に否定する妹。そうだっけ?ととぼける兄。それを無視して素通る主と、主の後を追う私。……その瞬間、横から冷たい視線を感じて私は足を止める。
妖しい薄ら笑いを浮かべる、人を騙し欺こうとする卑しい糸目。静かで鋭利な流し目が今じっとこちらを窺い見ていた。
彼は先日の秘密を仄めかすよう、「うん、猫は可愛いよねぇ、猫は本当、可愛いよねぇ」などとあえて私に口走ってくれる。悪戯そうにニタつきながら、薄い顔の中国人が燕尾服の悪魔を嘲けていた。
「坊ちゃんはこれから外出致しますので、本日はこれで失礼いたします。ご用命は使用人共へお申し付けください」
私は愛想よく頭を下げるとすぐ踵を返す。先行く小さな背中を前に、薄気味悪い糸目をした彼、招き猫型貯金箱を胸に抱いて。
我も行く〜、と追ってくる恣の二人を背に、颯爽と今日の執務に取り組めば私はあくまで執事となる。そして、我が主の忠告を受ける。
「そういやセバスチャン、とうとう邸に猫が入り込んだぞ。餌付けはほどほどにしろ」
「坊ちゃん……ご存知だったのですか」
幼くして聡明な主はすでに見透かしていたようだ。しかしながら、餌付けの事実まで知る由はない。タナカさんも猫好きゆえ依然秘密はお守りくださる。となれば…………
「あははぁ、やっぱり口止め料って大事だよねぇ。ねえ藍猫?」
咄嗟に振り向いた後ろ、片手間に妹を愛でる劉様は今日もあざとく抜かりない。それでいて餌にはちゃっかり食い付く彼に、ここ人間界において食指が動いたのはいったい何度目だろうか。
何かと興を嗅ぎつけては我が物顔で主をつける、そんな彼に似た試作品に、私は早々の機会を請うてみた。
…………が、そうすぐに叶うはずもない。
「それよりセバスチャン、お前は何を持っていく気だ」
「………………」
私は素気なく黙諾し、招き猫に留守番を託した。
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